益子焼

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益子焼の土瓶(アメリカ、ブルックリン美術館蔵)この種の土瓶の絵は、無名の絵付け工人の手によって、日に500個、多いときには千個も描かれたものである。民芸運動の主唱者である柳宗悦は、芸術家による個性の表現などではなく、無名の工人によって描かれた、ありふれた安ものであるこの種の絵土瓶にこそ、並々ならぬ美があるとして激賞した[1]
益子焼の登り窯

益子焼(ましこやき)は、栃木県芳賀郡益子町周辺を産地とする陶器[2]

歴史

江戸時代末期、嘉永年間に常陸国笠間藩(現笠間市)で修行した大塚啓三郎が益子に窯を築いたことにより始まったとされる。

益子焼の陶土は、豊富にあるものの肌理が粗く精巧な器を作るには向かなかったため、当初の益子焼は主に水がめ火鉢などの日用品として製作されていた。その後1927年から創作活動を開始した濱田庄司によって花器茶器などの民芸品が作られるようになり、日本全国に知られることとなる。 1959年には、加守田章二が開いた窯により民芸一辺倒だった益子の作陶に現代的な独創性が加えられた[3]

1979年には通商産業省(現、経済産業省)から伝統的工芸品に指定された。また、イギリス陶芸家バーナード・リーチなどの普及活動がある。

特徴

益子焼(蕎麦猪口)

砂気の多いゴツゴツとした土の質感をもつ。材料の性質上割れやすく、重いという欠点もある。

益子焼の最も基本的な釉薬(ゆうやく)は漆黒(しっこく)や「柿」と呼ばれる赤茶色、飴色(あめいろ)を出す鉄釉(てつゆ)である[4]。石材粉や古鉄粉を釉薬にし、犬毛筆で色づけを行う為、重厚な色合いとぼってりとした肌触りに特徴がある。こうした昔ながらの施釉は土鍋や土瓶、片口といった、肉厚な陶器に使われる。

民芸運動以来、濱田が得意とした杓掛け・流し掛け・掻き落としの技法を使った紋様を施した鉢や皿などが有名となった。他にも信楽焼流の絵付けを施した山水土瓶や、呉須(コバルト顔料)を使った陶器も多い[5]

有名な作家

施設・イベント

益子焼窯元共販センター
益子焼の食器販売や作品展示の施設として1966年(昭和41年)に開業した益子焼窯元共販センターがある[6]。1986年(昭和61年)には益子焼窯元共販センター駐車場にグラスファイバー製の高さ約10mの「ぽんたくん」像が完成した[6]
益子大陶器市
毎年、ゴールデンウイーク11月3日前後に「益子大陶器市」が開催され、500を越える店舗が出て賑わっている[2]

脚注

  1. ^ 柳宗悦「益子の絵土瓶」水尾比呂志編『柳宗悦民藝紀行』(岩波文庫)所収、岩波書店、1986 、pp.92 - 117(初出は『心』第7巻第1号、生成会、1954)
  2. ^ a b “テーマは「マグカップ」 益子で春の陶器市 栃木”. MSN産経ニュース (産業経済新聞社). (2013年4月29日). http://sankei.jp.msn.com/region/news/130429/tcg13042905020002-n1.htm 2013年4月30日閲覧。 
  3. ^ 永峰美佳『普段使いの器を探して やきものの里めぐり』Jtbパブリッシング、2014年、pp.140-144.
  4. ^ 美の壺 file200 「益子焼」NHKオンライン、2015年11月16日閲覧。
  5. ^ 竹内順一 監修『やきもの 見方・見分け方百科』主婦と生活社、1996年。ISBN 439160597X、pp.108-113
  6. ^ a b ぽんたくん“化粧直し” CFで資金集め 協力を 益子焼共販センター下野新聞 2020年11月24日

関連項目

外部リンク