巖谷小波

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巖谷 小波
誕生 巖谷 季雄
1870年7月4日
日本の旗 日本東京府麴町平河町
死没 (1933-09-05) 1933年9月5日(63歳没)
日本の旗 日本・東京府芝区大門
墓地 多磨霊園
職業 作家児童文学者俳人
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
活動期間 1891年 - 1933年
主題 お伽噺、児童文学、口演童話、児童劇の開拓、俳句、お伽俳画
文学活動 日本における近代児童文学の確立
代表作 『小波お伽全集』(1928年 - 1930年)
子供 巖谷大四
親族 巖谷一六(父)
巖谷立太郎(兄)
巖谷國士(孫)
橋口稔(孫)
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巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日明治3年6月6日) - 1933年昭和8年)9月5日)は、明治から大正にかけての作家児童文学者、口演童話家、俳人[1]ドイツ文学者ジャーナリスト。本名は季雄(すえお)。別号に漣山人、楽天居、大江小波等がある[2]。日本初の創作童話『こがね丸』(博文館、1891年)を発表して近代児童文学史を拓いた日本児童文学の先駆者と評される。

明治期児童文芸作品を表す言葉として「お伽噺」を使用、自ら編集長を務めた「少年世界」「少女世界」「幼年世界」などの雑誌を通して日本中に児童文学を広めた。

個人による日本初児童叢書である『日本昔噺』(24編)、『日本お伽噺』(24編)、『世界お伽噺』(100編)などのシリーズを刊行、日本はもちろん世界中の伝承説話のリテリングを体系的に行った。

『桃太郎』『金太郎』『浦島太郎』などの民話や英雄譚の多くは小波の手によって再生され、幼い読者の手に届いた。

俳人でもあった小波は自ら開拓したお伽噺の世界を俳画の世界に融合させ、「お伽俳画」という独創的な世界を創り上げた[3]

経歴

医学を拒否して文学へ

東京府麴町平河町(現・千代田区)出身[4]。巖谷家は近江水口藩の藩医の家柄である。父の巖谷一六は水口藩の徴士として新政府に出仕し、詔勅の起草や浄書、公文書の管理を行う書記官僚であるとともに、明治を代表する書家としても認められていた。八重は一六の2番目の妻で、父にとって6番目、母には4番目の子が季雄である。身ごもっていた母は、父一六に呼ばれ上京し東京で季雄を生んだが、小波の当初の本籍は滋賀県にあった。母はその年の10月1日に肺炎で死んだ[5]

父は官途で栄達しのち貴族院議員となり、季雄は裕福な家庭に育った。10歳のとき、兄巖谷立太郎が留学先のドイツから『オットーのメルヘン集』というドイツ語の本を贈ってきた。ヨーロッパ昔話童話を多数おさめたこの本を、立太郎は医師になるために必要なドイツ語の勉強のために送ったようだが、季雄はむしろ文学に目覚めることとなった[6]

平河小学校(現麹町小学校)卒業後、獨逸学協会学校(現:獨協中学校・高等学校)へ入学するが、医者への道を歩ませられることを嫌い、周囲の反対の中で文学を志して進学を放棄、1887年(明治20年)文学結社の硯友社に入る。尾崎紅葉らと交わって、機関誌「我楽多文庫」に『五月鯉』などの小説を発表したが、少年少女のセンチメンタルな恋愛を描く作品が多かった。

児童文学者へ転進

1891年(明治24年)、博文館の「少年文学叢書」第1編として出版した児童文学の処女作『こがね丸』が、近代日本児童文学史を開く作品となり、以後博文館と組んで児童文学に専心し、種々の児童向けの雑誌や叢書を刊行した。転進前の小説の多くは清純な魅力とともに感傷的な一面もあり、小説としては未熟ともいえた。その点でこの転進は文学的にも大きな成功だった。

お伽噺を開拓

作品の多くは彼自身が編集する博文館発行の雑誌「少年世界」に掲載された。以後同社の「幼年世界」、「少女世界」、「幼年画報」などの主筆となって作品を執筆、さらに「日本昔噺」(1894~1896年)、「日本お伽噺」(1896~1898年)、「世界お伽噺」(1899~1908年)など、大部のシリーズを刊行した。今日有名な『桃太郎』や『花咲爺』などの民話や英雄譚の多くは彼の手によって再生され、幼い読者の手に届いたもので、日本近代児童文学の開拓者というにふさわしい業績といえる。その作品は膨大な数に上ったが、1928年から1930年にかけてその代表的なものが『小波お伽全集』(千里閣版・全12巻)にまとめられた。

口演童話、児童劇を開拓

内外の昔話や名作をお伽噺として平易に書き改める仕事のほか、童話の執筆、口演や戯曲化も試み、全国を行脚してその普及に努めた近代児童文学のみならず児童文化の生みの親である。自伝『我が五十年』(1920年)、息子で文芸評論家巖谷大四による『波の跫音(あしおと)― 巖谷小波伝』(1974年)がある。

作詞

1911年に作った文部省唱歌ふじの山』の作詞者としても知られる他、『一寸法師』も小波の作詞である。また滋賀県甲賀市立水口小学校、大津市立堅田小学校、大津市立平野小学校虎姫高等学校東京都大島町立元町小学校(現在名つばき小学校)校歌、久喜小学校校歌など、各地の校歌の作詞も手掛けている。滝廉太郎が『幼稚園唱歌』を作曲編纂するにあたって小波に相談していたことが明治32年の小波日記に記されている。

死去

1933年(昭和8年)9月5日、直腸癌のため芝区大門の日本赤十字病院で死去。64歳没。辞世は「極楽の乗物や是桐一葉」。墓所は多磨霊園[7]

家族

巖谷一六貴族院勅選議員で書家。明治の三筆の一人。
富森幽香は水口教会宣教師ののち同志社女学校舎監[8]。冨森家は赤穂浪士の一人富森正因の子孫
長男巖谷槇一劇作家演出家
次男巖谷栄二は児童文学研究家。
栄二長男の巖谷國士仏文学者評論家
三男巖谷平三映画監督演出家
平三長男の巖谷鷲郎映画監督、のち文芸評論家
四男巖谷大四文芸評論家
大四三男の巖谷純介ブックデザイナー
次女三八子
次男橋口稔英文学者東大名誉教授。稔の叔父橋口収大蔵主計局長。
三女きの江 夫藤林益三最高裁長官、のち弁護士
益三次男の藤林道夫仏文学者

木曜会

巌谷小波が主催していた文学サロンで、明治29年から始めた[9]。巌谷門下の作家らが毎週木曜に巌谷の自宅に集まり、各自に創作したものを朗読して、互いに批評し研鑽し合った[10]。参加者は久米島武彦木戸忠太郎押川春浪黒田湖山生田葵山西村渚山井上唖々ら20人ほどで、その後永井荷風らも加わり、一時は50数名を数えることもあった[9][10]

脚注

  1. ^ 俳人としては、明治29年から秋声会の俳誌『秋の声』に毎号俳句や俳文を寄稿、『俳諧論集』(博文館)の編集者となって明治32年2月『俳諧文庫』第一三編と第一五編を、翌年の6月に第19編を出版。明治34年、白人会というベルリン在主日本人俳句同好会結成、大正2年、俳句雑誌『南柯』の顧問になって毎号に俳句発表、『俳諧注釈集』(博文館)を佐々醒雪と編集、『俳諧叢書』(博文館)の第一編を担当。『名家俳句集』にも携わり、その他にも『僕の旅』(1915)、『俳通俳句便覧』(1916)、『山から海・俳味紀行』(1921)、『俳文学大系』(全12巻、1929)、『俳句表現辞典』(1931)、句集『ささら波』(1932)などの俳句関連著書を残した。また、北海道から沖縄まで、日本列島の全域にわたって、把握されただけで四三基の句碑が残っている。(金成妍『巖谷小波おとぎの世界』求龍堂、2020年、132-134頁)
  2. ^ 巌谷小波の紹介 - 明治・大正の文学者たちの書簡と草稿」『関西学院大学図書館』。
  3. ^ 桃太郎、舌切雀、新羽衣、花咲爺、かちかち山、浦島太郎、一寸法師、養老瀧、猿蟹合戦、瘤取り、金太郎、文福茶釜、うさぎと亀、虎の児、かぐや姫、俵藤太、牛若丸、物臭太郎のお伽噺を描いた俳画が金成妍の『巖谷小波おとぎの世界』(求龍堂、2020年)で紹介されている。
  4. ^ 巖谷小波 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」コトバンク 2018年7月30日閲覧。
  5. ^ 巖谷大四「巌谷家の系譜」173-174頁。
  6. ^ 巖谷大四「巖谷家の系譜」177頁。三浦正雄「巖谷小波の怪異観」47頁。
  7. ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)44頁
  8. ^ 専門学部の充実”. 同志社女子大学. 2017年10月22日閲覧。
  9. ^ a b 永井荷風が参加していた「木曜会」という句会の詳細や参加者について知りたいレファレンス協同データベース、2012年02月01日
  10. ^ a b 永井荷風といふ男生田葵山、青空文庫

参考文献

関連項目

  • 武内桂舟 - 「こがね丸」、「少年世界」掲載の作品の挿絵画家。
  • 久留島武彦 - 小波に認められて作家としてデビューし、それ以来小波の影響で口演童話を始めその普及に人生を捧げた。
  • 岸邊福雄 - 小波に賛同して口演童話の理論を確立して、幼児に対してお話を語り聞かせる口演童話教育に尽力した。
  • 金色夜叉 - 主人公・間貫一のモデルは巖谷小波と言われる。それは、巖谷小波を裏切った紅葉館の女中に小波の親友だった尾崎紅葉が激怒し足蹴りしたことが、金色夜叉の熱海場面のモチーフになったことによる。
  • 花まつり - 言葉の起源とされる、1901年にベルリンで催された「Blumen Fest(ブルーメンフェスト)」の発起人の一人。

外部リンク