藤内金吾
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藤内 金吾 八段 | |
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1939年ごろ | |
名前 | 藤内 金吾 |
生年月日 | 1893年3月20日 |
没年月日 | 1968年2月22日(74歳没) |
プロ入り年月日 | 1920年 |
引退年月日 | 1951年 |
出身地 | 愛媛県松山市 |
所属 |
関西将棋研究会 →将棋大成会(関西) →日本将棋連盟(関西) |
師匠 | 坂田三吉贈名人・王将 |
弟子 | 高島一岐代、内藤國雄、若松政和、森安秀光、森安正幸、小阪昇、淡路仁茂、酒井順吉 |
段位 | 八段 |
2022年2月21日現在 |
藤内 金吾(ふじうち きんご、1893年3月20日 - 1968年2月11日)は、将棋棋士。八段。坂田三吉贈名人・王将門下。愛媛県松山市出身。
経歴
大阪で丁稚奉公を経て、メリヤス業を経営[1]。26歳の時に坂田三吉に入門[2]。
1920年四段、1923年五段と順調に昇段するが、この時期は実業家の業務に軸足を置いていた。39歳の時に棋士に本格的に転身。1932年六段。
1951年に引退後、神戸市三宮で将棋道場を開いてアマチュアへの将棋の普及に努めた。
引退後も棋士は昇段できるが、藤内の場合はなかなか昇段できず、1966年七段。死の間際の1968年にようやく八段に昇段し、その8日後に死去。
弟子
棋士となった弟子
名前 | 四段昇段日 | 段位、主な活躍 |
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高島一岐代 | 1936年 | 九段、A級在籍9期 |
内藤國雄 | 1958年10月1日 | 九段、王位2期、棋戦2期、一般棋戦優勝13回、A級在籍17期 |
若松政和 | 1967年10月1日 | 八段、一般棋戦優勝2回 |
森安秀光 | 1968年4月1日 | 九段、棋戦1期、一般棋戦優勝10回、A級在籍6期 |
森安正幸 | 1971年10月1日 | 七段 |
小阪昇 | 1973年10月1日 | 八段、一般棋戦優勝1回 |
淡路仁茂 | 1974年4月1日 | 九段、一般棋戦優勝1回、A級在籍1期 |
酒井順吉 | 1976年3月19日 | 七段 |
将棋道場の場所から、一門は「神戸組」とも呼ばれた。
とりわけ内藤國雄との関係は実の親子以上ではないかと言われる。将棋の対局で内藤が初めて上京するときは同行、成人するといろいろな遊びを教えた。内藤を弟子に取る際、将来を考えて升田幸三に預ける事も考えていたというほどの弟子想いであった[3]。また、内藤が四段になって2年目の1959年、各方面にお願いして会員50人の内藤後援会が誕生し、年に2度の将棋会を催し、その後に宴会を開いた(のちに内藤が七段の時、解散となった)[4]。また神戸新聞社と掛け合って、塚田正夫九段(当時)との内藤との記念対局を実現させた[4]。
なお、内藤は将棋道場の看板に右から横書きされた「内藤」の文字を左から読み、同じ苗字の人がやっている道場だと誤解、これが藤内の道場に通い始めるきっかけとなった。その後、内藤は藤内忍(とうない しのぶ、現・指導棋士)という弟子を持つ。
主な成績
在籍クラス
竜王戦と順位戦のクラスについては「将棋棋士の在籍クラス」を参照
開始 年度 |
順位戦 出典[5]
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竜王戦 出典[6]
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期 | 名人 | A級 | B級 | C級 | 期 | 竜王 | 1組 | 2組 | 3組 | 4組 | 5組 | 6組 | 決勝 T |
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1組 | 2組 | 1組 | 2組 | |||||||||||||||
1946 | 1 | 六・七段戦11位 | ||||||||||||||||
1947 | 2 | C級6位 | ||||||||||||||||
1948 | 3 | |||||||||||||||||
1949 | 4 | C級1組 | ||||||||||||||||
1950 | 5 | C級1組 | ||||||||||||||||
1951 | 6 | C108 | ||||||||||||||||
順位戦、竜王戦の 枠表記 は挑戦者。右欄の数字は勝-敗(番勝負/PO含まず)。 順位戦の右数字はクラス内順位 ( x当期降級点 / *累積降級点 / +降級点消去 ) 順位戦の「F編」はフリークラス編入 /「F宣」は宣言によるフリークラス転出。 竜王戦の 太字 はランキング戦優勝、竜王戦の 組(添字) は棋士以外の枠での出場。 |