山名義徳
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 元文5年3月8日(1740年4月4日) |
死没 | 文政3年2月8日(1820年3月21日) |
改名 | 隼之助(幼名)→立花致知(初名)→山名豊貴→義徳 |
戒名 | 宝相院殿真如常覚大居士 |
墓所 | 兵庫県美方郡香美町村岡区村岡の法雲寺(坪谷御廟) |
官位 | 従五位上靱負 |
幕府 | 江戸幕府 交代寄合 |
主君 | 徳川家重→家治 |
藩 | 筑後柳川藩士→但馬村岡領主 |
氏族 | 立花氏→山名氏 |
父母 |
父∶立花貞俶 母∶角田六郎左衛門娘もん 養父∶山名豊暄 |
兄弟 |
立花貞則、立花鑑通、きせ、立花致傳、 立花致真、登代、みき、戸次通孝、義徳、矢島通経、伝姫、まき、立花通堅、みつ ら |
妻 | 山名豊暄娘 |
子 |
義方、義矩、柳生久知、義丈、義峯、 小笠原長世室、松田貞丈室 |
山名 義徳(やまな よしのり)は、江戸時代中期の交代寄合。但馬国村岡領主。
経歴
元文5年3月8日(1740年4月4日)に 筑後柳川藩第5代藩主・立花貞俶の八男として柳川藩江戸藩邸において出生した。立花氏時代は、同藩第7代藩主となった兄の立花鑑通(初め鑑致)から1字を賜り、立花致知(よしとも)[1]と名乗っていた。宝暦5年(1755年)から通称を靱負と称した。
宝暦12年(1762年)- 山名豊暄の婿養子となり、山名豊貴(とよたか、のち義徳)[2]と改名した。
寛政6年(1794年)に隠居した。文政3年2月8日(1820年3月21日)に死去した。
人物
- 実兄(同母兄)は柳川藩一門の立花監物家2代目・立花致真(よしざね)。致真の娘・天寿院は立花鑑寿(鑑通五男)の正室であった。
- 甥にあたる柳川藩家老の立花通栄(織衛)との文書のやりとりが、「立花織衛家文書」に残っている。
- 家川念流剣術を習得しており、織衛文書に拠れば柳川藩士に念流剣術奥義を相伝している[3]。
- 書画の才にも造詣が深く、狩野派・加藤文麗に付き画を学んでいた。雅号は文鶴と名乗っていた。
系譜
脚注
- ^ 寛政重修諸家譜の立花家系図及び「柳川市別冊・図説立花家記」。兄・鑑通は藩主になった延享3年(1746年)から宝暦5年(1765年)は諱を鑑致と名乗っており、この間に一字拝領されたと思われる。
- ^ 豊貴が「義徳」と改名以降、山名持豊(宗全)世代以降通字であった「豊」の字に代わって、「義」の字が山名氏嫡流家の通字として用いられるようになった。この字は山名氏の祖先にあたる清和源氏由来の字であり、創始者の山名義範をはじめ、山名氏一門でも一部の者が使用していたものである。
- ^ 「立花織衛家文書目録」参照。なお、資料番号はC-71-36-1とC-71-36-2