山名豊暄
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 正徳4年6月25日(1714年8月5日) |
死没 | 明和6年8月1日(1769年8月31日) |
別名 | 隼之助、主殿(通称) |
戒名 | 即心院殿高山浄輝大居士 |
墓所 | 兵庫県美方郡香美町村岡区村岡の法雲寺(坪谷御廟) |
官位 | 従五位上中務少輔 |
幕府 | 江戸幕府 交代寄合 |
主君 | 徳川家重→家治 |
藩 | 但馬村岡領主 |
氏族 | 山名氏 |
父母 | 父∶山名豊就 |
兄弟 |
豊寛、豊暄、豊知、豊陽、喜蔵、佐助、 季豊、山名義安室ら |
妻 | 喜連川茂氏娘 |
子 |
栄之丞、山名義徳室 養子∶義徳 |
山名 豊暄(やまな とよあきら)は、江戸時代中期の交代寄合。但馬国村岡領主。
経歴
[編集]山名豊就の子。延享4年(1747年)、父の死去により、家督を継いだ。
寛延3年(1750年)の須原屋版武鑑に「七千石 但州志津見 てつほうす 山名主殿」とある。[1] 明和2年(1765年)4月、実子の栄之丞が早世していたため、柳川藩主立花鑑通の弟である立花致知(靱負。立花貞俶の八男)を婿養子とした。[2]。致知は山名家に入って豊貴、後に義徳に改名した。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 「大武鑑・中巻」。なお、同書には延享3年の武鑑の内容も掲載されているが、山名豊就が生存中の時と内容の更新がないので省略。なお延享3年の武鑑の内容は「七千石 但州志津見 てつほうす 山名因幡守 当時寺社御奉行」で元文6年のものと同じ
- ^ 「立花貞俶の八男の貞俊を婿養子とし、義徳と名乗らせ家督を継がせた(翌年5月入部)」とするものもあるが、少なくとも「柳川市別冊・図説立花家記」、「旧柳川藩志・上巻」、「寛政重修諸家譜」のいずれにも山名義徳が柳川藩立花家にいた頃に「立花貞俊」と称した旨の記述は見られない。山名家側史料にある可能性がなくはないので脚注とす。