馬込勘解由
馬込勘解由(まごめかげゆ)は、日本橋大伝馬町二丁目で代々伝馬役・名主役を務めた馬込家当主が代々名乗った名前。草創名主の中でも筆頭的存在であった。
概要
由緒書によれば、初代馬込平左衛門は遠江国敷知郡馬込村(静岡県浜松市中区馬込町)の伊東家に生まれ、幼少より時の領主徳川家康に仕え、兵站を担っていた。天正18年(1590年)家康に連れ立って江戸城に赴き、当初後の呉服橋御門内にあたる宝田村に居住し、伝馬役・名主役を務めた。その後江戸城下の整備が進み、慶長11年(1606年)大伝馬町・小伝馬町・中伝馬町が成立、宝田村は大伝馬町・南伝馬町へ移転となり、平左衛門は大伝馬町二丁目に移住し、同町の名主を務めた。以前より出身地に因み馬込と渾名されていたが、元和元年(1615年)、家康が大坂の陣を終え、東海道を帰城の折、平左衛門は浜松宿馬込橋で人足500人と共に迎えに上がった所、歓心を得て、正式に馬込の苗字を賜ったという。
一方、大伝馬町一丁目の木綿問屋川喜田久太夫家に伝わる文書によれば、三河国の土豪佐久間勘解由が、徳川家康に従って川喜田等伊勢国の木綿商人を引き連れて江戸に入り、馬込を名乗ったとするが、これは同じく隣町大伝馬町一丁目で名主・伝馬役を務めた佐久間善八家が廃絶後、同家と馬込家を混同したものと考えられている。
当初の支配町域は大伝馬二丁目一町のみであったが、その後拡大し、享保14年(1729年)の時点で大伝馬町一・二丁目、大伝馬塩町、通旅籠町、堀留町一・二丁目、伊勢町の計7町を受け持っており、これが幕末まで続いた。
また、江戸時代後期には金融業も手がけていたと見られ、小津屋清左衛門(小津産業)や大丸屋清右衛門(大丸)からの借入金を宇都宮藩戸田家などに貸し与え、利益を得ていた。特に宇都宮藩に関しては、藩士に禄を支給した文書も残っており、藩の財政に直接関与していた可能性が指摘されている。また、文政12年(1829年)から天保12年(1841年)にかけて、勘定奉行内藤矩佳の近習役を務めた。
菩提寺は当初増上寺だったが、善徳寺が独立後檀家となり、墓も移された。善徳寺は移転を繰り返し、現在は北区赤羽西六丁目にある。
歴代当主
- 馬込平左衛門(? - ?年9月27日)
- 馬込?(? - 慶安2年(1649年)9月29日)
- 馬込勘解由喜与(? - 正徳5年(1715年)4月4日)
- 大給松平家の末子。二代目の娘香へ婿入りするが、慶安4年(1651年)には死去し、大伝馬町一丁目名主佐久間善八より嫁を迎える。
- 馬込勘解由影盛(? - 正徳2年(1712年)6月19日)
- 馬込勘解由雅珍(? - 寛保2年(1742年)4月29日)
- 影盛の長男。日本橋西河岸町の両替商蔵田七郎右衛門の養女みよを娶る。
- 馬込勘解由興承(? - 明和9年(1772年)9月27日)
- 馬込勘解由忠興(享保18年(1733年) - 寛政10年(1798年)8月8日)
- 興承の子。
- 馬込勘解由是承(宝暦4年(1754年) - 文政3年(1820年)6月2日)
- 矢野大蔵の子。忠興長女りほへ婿入りする。寛政4年(1792年)両役を罷免される。
- 馬込勘解由惟賢(安永6年(1777年) -天保2年(1831年)9月20日)
- 馬込平八郎惟徳(文化5年(1808年) - 天保11年(1840年)4月10日)
- 惟賢の長男。
- 馬込惟長(文化11年(1814年)9月19日 - 明治17年(1884年)8月8日)
- 幕府代官手代浦島清五郎の次男。幼名格。惟徳の妻亀へ婿入りする。当初勘解由、後に彦一郎、明治6年(1873年)より惟長を名乗った。
参考文献
- 江戸東京博物館 『大伝馬町名主の馬込勘解由』 2009年
- 幸田成友 「馬込勘解由』東京商科大学研究年報『経済学研究』第4号、1935年
- 髙山慶子 「江戸町名主の金融 -大伝馬町名主馬込勘解由を事例として-」慶応義塾大学三田史学会『史学』第77巻、2008年