コンテンツにスキップ

藤田平太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Hskh1 (会話 | 投稿記録) による 2022年8月11日 (木) 22:45個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

藤田平太郎
大正全国富豪番付で西日本2位だった藤田平太郎

藤田 平太郎(ふじた へいたろう、明治2年10月7日1869年11月10日[1] - 昭和15年(1940年2月23日)は、日本の実業家政治家貴族院議員男爵公正会所属、従三位藤田財閥2代目総帥。号は江雪。

来歴

藤田財閥創始者藤田伝三郎の長男として大阪府に生まれる。1888年明治21年)、慶應義塾を卒業後、イギリスロンドンに留学しロイヤル・カレッジ・オブ・サイエンスにて鉱山学を修得。帰国後、藤田組副支配人、次いで支配人、更に藤田組副社長となった。

伝三郎の死後に藤田組社長となり1917年大正6年)には藤田銀行を創設し頭取に、富士生命保険社長にも就任する。鉱山などの実業の再編を行ってグループの基盤を作る。他、大阪商船監査役、大阪実業協会顧問、大阪工業会会長のほか、第5回内国勧業博覧会評議員、帝国経済会議議員等を歴任。大学などの教育施設や医療施設に寄付を行い、篤志家として知られている。労働環境の改善に努めた。

1912年(明治45年)、父の死去に伴い男爵を襲爵する。1918年(大正7年)12月14日に貴族院男爵議員補欠選挙で当選し[2]1929年昭和4年)9月25日まで在任した[3]

財界数寄物

父に似て美術品に造詣が深く、財界有数の収集家である。謡曲能楽茶道を嗜み号を江雪と称す(父は香雪で徳次郎は耕雪)。箱根にあった別荘や東京目白台の邸宅「椿山荘」(文京区関口)を山縣有朋から買い取って別邸とすると政界、財界関係者が多く訪れた。コレクションは大阪市藤田美術館に収蔵されている。

栄典

位階
勲章等

家族

父は藤田財閥創始者の藤田伝三郎男爵。弟は藤田徳次郎藤田彦三郎。妻の富子は政治家芳川顕正の三女[9]

男爵は甥の藤田光一(徳次郎の長男)が襲爵した。

脚注

  1. ^ 華族名簿. 大正6年3月31日調』(華族会館、1917年)p.161
  2. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、25頁。
  3. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、38頁。
  4. ^ 『官報』第1630号「叙任及辞令」1918年1月11日。
  5. ^ 『官報』第1827号「叙任及辞令」1933年2月3日。
  6. ^ 『官報』第1259号「叙任及辞令」1916年10月10日。
  7. ^ 『官報』第3440号「叙任及辞令」1924年2月14日。
  8. ^ 『官報』第1434号「彙報 - 褒章」1931年10月8日。
  9. ^ 藤田平太郎男『代表的人物及事業』時事通信社, 1913, p276

参考文献

  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
  • 奈良国立博物館『国宝の殿堂 藤田美術館曜変天目茶碗と仏教美術のきらめき』2019年。

関連項目

外部リンク


日本の爵位
先代
藤田伝三郎
男爵
藤田家第2代
1912年 - 1940年
次代
藤田光一