鮭延氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

鮭延氏(さけのべし)は、日本の氏族のひとつ。宇多源氏佐々木氏のうち、六角氏鯰江氏[1]の一族を称した。

概要[編集]

近江鯰江城(現・滋賀県東近江市鯰江町)の城主、鯰江氏の一族であったという。応仁の乱以降の15世紀末頃か、新太郎綱村が一族を率いて出羽北部の仙北に下向する。沼館城(現・秋田県横手市雄物川町沼館)を居城としていた小野寺氏[2]の庇護を受け、関口(現・秋田県湯沢市関口)の番城を預けられた。

その後、当主は綱常、常孝と続き、大永から天文年間(1520~30年代)頃、小野寺氏の命で現在の山形県側の最上地方に岩鼻館(現・山形県戸沢村蔵岡岩花)を拠点として築いた。天文5年(1536年)には貞綱が菩提寺として正源寺(現・山形県真室川町新町)を開基している。永禄6年(1563年)に庄内地方大宝寺氏武藤氏)の侵攻に敗れ、鮭川のほとりに退いて鮭延城(現・山形県真室川町内町)を新たな拠点として築城した。これ以降、鮭延氏を名乗るようになる。小野寺氏と縁戚関係を結び、小野寺義道の母は貞綱の妹である。

貞綱の子秀綱が当主となって後、天正9年(1581年)に山形城(現・山形県山形市霞城町)城主最上義光の侵攻を受け、攻め手の氏家守棟の調略により内部の切り崩しを受けたため降伏、本領を安堵された。以後は最上氏に仕え、最上領北方の守護として旧主・小野寺氏を相手に和戦両面で活躍、文禄4年(1595年)には楯岡満茂の先鋒として湯沢城(現・秋田県湯沢市古館山)攻略に貢献するなどした。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに呼応して直江兼続率いる上杉軍が、最上氏の長谷堂城を包囲する(慶長出羽合戦)。秀綱は副将格として城主の志村光安を助け、楯岡光直清水義親らと共にこれを救援した。戦後に最上氏が出羽山形57万石に封じられると、秀綱には真室城(鮭延城)11,500石が与えられた。

元和3年(1617年)、年少の最上義俊が家督を継いだことに反対し、秀綱らは義光の四男・山野辺義忠を擁立したため、家臣団は分裂して対立した。このお家騒動最上騒動)が理由で元和8年(1622年)、最上氏は近江国大森1万石に転封。事実上、改易された。最上氏の家臣団は諸大名に預けられ、秀綱とその家臣も佐倉藩主・土井利勝預かりとなったが、後に最上騒動の不始末を許されてからは土井氏に仕えた。秀綱は正室と嫡男の秀義に先立だれていたが、元和9年(1623年)庶子を儲け、また秀義の妻子を引き取っている。庶子は森川弥五兵衛と名乗らせ家臣扱いとし、秀義の子は籠宮姓を名乗らせ別家とし、鮭延氏を断絶させた。森川氏は土井家臣として続いている[3]

秀綱は寛永10年(1633年)4月の土井家転封に伴って古河に移り、正保3年(1646年)死去。付き従っていた家臣たちはあらためて土井氏の家臣となった。遺徳を偲んだ家臣達によって鮭延寺(現・茨城県古河市大堤)が建立され、弔われた。鮭延氏の墓所は鮭延寺と正源寺の双方にある。

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ 鯰江氏自体は藤原三井家流だが、六角氏より養子をとった。
  2. ^ 横手城(現・秋田県横手市城山町)を居城としたのは1520年代からと推測されている。
  3. ^ 最上義光歴史館『古河藩土井家における鮭延越前とその家来達について』早川和見(古河郷土史研究会会員/山形県地域史研究協議会会員)

参考文献[編集]

  • 真室川町史編纂委員会『真室川町史』1997年
  • 山形市市史編纂委員会『山形市史 史料編1(最上氏関係史料)』1973年

外部リンク[編集]