駒ヶ嶽國力
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| 基礎情報 | ||||
| 四股名 | 駒ヶ嶽 國力 | |||
| 本名 | 菊地 國力 | |||
| 愛称 | 玉転がし・幕下三人男・幕内三人男 | |||
| 生年月日 | 1880年12月13日 | |||
| 没年月日 | 1914年4月11日(33歳没) | |||
| 出身 | 宮城県遠田郡 | |||
| 身長 | 188cm | |||
| 体重 | 135kg | |||
| BMI | 38.20 | |||
| 所属部屋 | 井筒部屋→関ノ戸部屋→井筒部屋 | |||
| 成績 | ||||
| 現在の番付 | 引退 | |||
| 最高位 | 大関 | |||
| 幕内戦歴 | 105勝41敗22分7預45休 | |||
| データ | ||||
| 初土俵 | 1898年1月場所 | |||
| 入幕 | 1903年5月場所 | |||
| 引退 | 1914年1月場所 | |||
| 備考 | ||||
| 2012年6月7日現在 | ||||
駒ヶ嶽 國力(こまがたけ くにりき、1880年12月13日 - 1914年4月11日)は、宮城県出身の元大相撲力士。本名は菊地 國力(きくち くにりき)。
来歴[編集]
1880年12月13日に宮城県で生まれる。1897年に小錦八十吉・朝汐太郎の一行が巡業に来た際に、西ノ海嘉治郎に勧誘されて入門し、これ以降は巡業に同行した。1898年1月に初土俵を踏むが、四股名はこの時から駒ヶ嶽だった。順調な出世で、1899年1月に序二段で、1900年5月に三段目で全勝。1902年1月場所で新十両に昇進すると、1903年5月に新入幕を果たす。三段目時代から並び称された太刀山峯右エ門との対戦は常に好取組として人気があった。
1905年1月に小結、5月に関脇へ昇進し、太刀山と大関昇進を争ったが、太刀山峯右エ門の陣営には横綱級の実力を持つ荒岩亀之助・國見山悦吉が存在していたほか、横綱も大砲万右エ門・梅ヶ谷藤太郎が存在していたのに対し、駒ヶ嶽の陣営には大関が不在(荒岩または國見山が代わりに大関を務めたことがあった)ため、1907年1月場所で大関に昇進した。常陸山谷右エ門は駒ヶ嶽を特にかわいがり、熱心に稽古をつけていた。
横綱昇進を期待され果たした暁には、止め名であるはずの「谷風」を襲名するとも言われた。太刀山が大関の頃までは立派に好敵手を務めることが可能だったが、横綱を太刀山に先取されてからは勝負にならず、太刀山に「駒(ヶ嶽)関のほうが綱姿は似合うはずだ、次は駒(ヶ嶽)関の番だよ」と言われながらも、綱はますます遠のいた。
大食漢・大酒飲みで、実に日本酒を6升も飲んだ。しかし、晩年は酒の飲み過ぎで体を壊し、力が落ち負けると大酒を飲む、飲んでは悪化するという具合で負け越しも記録した。そして1914年4月11日、茨城県での巡業の際に立ち寄った酒屋でどぶろく3升を飲み、そのまま太陽が直に当たる荷車の上で寝ていたことにより、飲んだ酒が発酵したことにより腸穿孔・脳溢血により急死した[1]。33歳没[2][3]。
かつて並び称された太刀山が当時の力士には珍しい節食で、史上初となる還暦土俵入りまで行ったのとは対照的だった。
主な成績[編集]
- 幕内成績:105勝41敗22分7預45休
- 幕内在位:22場所
脚注[編集]
- ^ 荒井太郎『歴史ポケットスポーツ新聞 相撲』(2008年5月大空出版)27頁
- ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p37
- ^ 荒井太郎『歴史ポケットスポーツ新聞 相撲』(2008年5月大空出版)27頁