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鈴木田登満留

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鈴木田 登満留
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 熊本県[1]
生年月日 1918年1月9日
没年月日 不明[注釈 1]
身長
体重
173 cm
71 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1939年[1]
初出場 1939年
最終出場 1940年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

鈴木田 登満留(すずきだ とまる、1918年1月9日 - 1951年以前[注釈 1])は、熊本県出身のプロ野球選手

来歴

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熊本工時代は中堅手1936年選抜1937年選手権に出場[1]。卒業後、チームメイトの吉原正喜川上哲治の翌年の1939年東京巨人軍に入団。巨人では主に左翼手を務め、2年目の1940年には左翼手として10試合の先発出場を果たすが、打率.154、1打点に終わり、同年引退[1]

巨人退団後は北海道の函館太洋倶楽部に移った[2][3][4][5][6]。戦争の心的外傷後ストレス障害(PTSD)で薬物中毒となり[7][信頼性要検証]、戦後になってから自転車に乗って熊本の市電と衝突する事故を起こして死亡した[8]

プレースタイル

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俊足の上に外野守備も及第点で、打撃の方は後年の淡口憲治を右打ちにしたようなタイプだった。非常に力持ちで重いバットを振り回して、当たると飛距離は凄かったが、特に変化球を苦手とし、三振が多かった。

力があり余りすぎたことから何をやらせても強引そのもので、理論とヘッドワークが不足していたためプロ野球選手としては大成しなかったとの評価がある(千葉茂[9]

人物

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非常なる怪力と食欲で巨人時代はチームメイトからポンプと呼ばれた。巨人時代に以下のエピソードがある[9]

  • 遠征先の宿舎で鉄製火鉢の持ち上げ大会を開催した際、他の選手が顔を真っ赤にして力を入れてもなかなか持ち上がらない中、涼しい顔でヒョイヒョイと何度も火鉢を持ち上げた。
  • 遠征先の宿舎で、花瓶の水がドロドロに腐っているのを見つけた中島治康から「全部飲んだら10円やるがどうだ」[10]と持ちかけられたところ、瞬く間に全部飲み干してしまい(1分もたたないうちにもどしてしまったが)、まんまと10円をせしめた。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1939 巨人 127702000200--000--02--.286.286.286.571
1940 284239560201010--003--015--.154.214.256.471
通算:2年 404946580201210--003--017--.174.224.261.485

背番号

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  • 28 (1939年 - 1940年)[11]

脚注

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注釈

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  1. 1 2 1951年に出版された『新・肥後人国記』という書籍に、鈴木田は既に死亡したとの記述がある[2]

出典

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  1. 1 2 3 4 プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、298ページ
  2. 1 2 豊福一喜『新・肥後人国記』稲本報徳舎出版部、1951年、274-275頁。NDLJP:2986467/149
  3. 竹中半平『背番号への愛着』日本出版協同、1952年、159頁。NDLJP:2460870/83
  4. 読売新聞社 編「巨人軍二十年史 昭和十六年」『読売野球年鑑 1954年版』読売新聞社、1954年、330頁。NDLJP:2474454/177選手の異動」節に「大橋智干、鈴木田登満留の両選手はシーズンに先立って函館大洋クラブの招請に応じて去り」とある。
  5. 大道文『プロ野球人国記』恒文社、1977年、511頁。NDLJP:12444312/259
  6. 函館太洋倶楽部『スコアボードが見ていた。 函館太洋倶楽部80年のあゆみ』幻洋社、1986年、75頁。NDLJP:13193909/39昭和17年度太洋倶楽部メンバー」の表に鈴木田の名前がある。
  7. 戦没野球慰霊(沢村栄治記念館のページ)[信頼性要検証]
  8. 『巨人軍の男たち』79頁
  9. 1 2 『巨人軍の男たち』78頁
  10. 当時の主力選手の月給は140円程度であったという。
  11. YOMIURI GIANTS OFFICIAL WEBSITE 背番号変遷

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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