逢坂藍水

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逢坂 藍水(おうさか らんすい、1878年明治11年〉11月13日 - 1949年昭和24年〉2月11日)は、日本医師歌人政治家。本名は逢坂 佐馬之助(おうさか さまのすけ)[注釈 1]。他の筆名逢坂 蘭翠がある。

来歴・人物[編集]

1878年11月13日[注釈 2]徳島県美馬郡半田町(現・つるぎ町)に、熊八の三男として生まれる[注釈 3]1879年10月20日、熊八が病死し、それ以降は伯父の真佐八を「父」と呼ぶ[1]

1883年4月、半田口山小学校初等科(後の半田尋常小学校)に入学する。1888年3月、半田尋常小学校を卒業する。同年4月、半田簡易小学校において1年間の補習を受ける。1889年5月から1890年4月まで、半田簡易小学校の補助教員に、1895年1月から4月まで、久保尋常小学校の補助教員に、同年5月から12月まで、半田尋常高等小学校の補助教員になる[1]

1896年9月、岡山県に遊学する。1897年1月、私立関西尋常中学校3学年2学期に受験入学する。1898年9月、第三高等学校医学部(後の岡山医学専門学校)へ入学する。1900年与謝野鉄幹の東京新詩社創立に参加し、6年間和歌の指導を受け[1]、与謝野鉄幹の高弟として初期の『明星』において活動する[2]1902年1月17日、岡山医学専門学校を卒業する[1]日露戦争に際して、志願兵として入隊し陸軍三等軍医となる[3]

1910年、半田村青年会を組織し、副会長となる[1][注釈 4]

1911年洗礼を受ける[1]

1919年、半田町長に選ばれる。1927年10月から徳島県会議員に四期重任する。1936年、再度半田町長となる[3]

1931年4月から1932年5月まで、官立東京高等歯科医学校附属病院において歯科専修となる[1]

1948年11月、小西英夫が創刊した『徳島短歌』に毎号作品を寄せる[4]

1949年2月4日中風が再発し、2月11日に没する。享年72歳[4]

著作[編集]

  • 逢坂佐馬之助 著「久原壽君への追憶」、守谷英次・片山徹 編『久原君の思ひ出』片山徹、1939年8月、16-24頁。 NCID BA64644255全国書誌番号:44006464 
  • 逢坂佐馬之助 著、金沢治 編『逢坂蘭翠歌集(抄)』金沢治、1949年4月。 
  • 逢坂左馬之助『半田町史』半田町史出版委員会、1950年2月。 NCID BN08777618 
  • 逢坂佐馬之助 著、金沢治 編『逢坂佐馬之助遺稿(文学編)』逢坂和子、1974年2月。 

関連史跡[編集]

  • 逢坂医院跡
  • 逢坂佐馬之助像
    • いづれも徳島県美馬郡つるぎ町半田にある[5]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 馬之助」と間違えられる場合がある。
  2. ^ 戸籍上は1879年1月1日[1]
  3. ^ 戸籍上は真佐八(熊八の兄)の三男[1]
  4. ^ 会長は木村佐吉、もう1人の副会長に北室直一が就く[1]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j 逢坂佐馬之助 著「自叙略伝」、金沢治編 編『逢坂佐馬之助遺稿(文学編)』逢坂和子、1974年2月11日、2-13頁。 
  2. ^ 金沢治 著「跋」、金沢治編 編『逢坂蘭翠歌集(抄)』金沢治、1949年4月23日、15頁。 
  3. ^ a b 藤井喬「阿波人物志」、原田印刷出版、1973年8月1日。 
  4. ^ a b 金沢治編 編「故逢坂蘭翠先生略伝」『逢坂蘭翠歌集(抄)』金沢治、1949年4月23日。 
  5. ^ 半田の先賢に学ぼう 6年生の取り組み” (PDF). 半田小学校. 2021年12月17日閲覧。

参考文献[編集]

  • 逢坂佐馬之助 著、金沢治編 編『逢坂蘭翠歌集(抄)』金沢治、1949年4月23日。 
  • 逢坂佐馬之助 著、金沢治編 編『逢坂佐馬之助遺稿(文学編)』逢坂和子、1974年2月11日。 

外部リンク[編集]