赤松光範
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時代 | 南北朝時代 |
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生誕 | 元応2年(1320年) |
死没 |
弘和元年/永徳元年10月3日 (1381年10月20日) |
別名 | 二郎(通称)[1]、七条光範 |
戒名 | 松林寺 |
官位 | 従五位下[1]、大夫判官、左衛門尉[1]、治部少輔、信濃守[1] |
幕府 | 室町幕府摂津守護[1] |
主君 | 足利尊氏 → 義詮 → 義満 |
氏族 | 赤松氏 → 七条氏 |
父母 | 父:赤松範資[1] |
兄弟 | 光範、朝範、直頼、師範、則弘、則春[1]、範実 |
子 | 満弘[1]、神出範次 |
赤松 光範(あかまつ みつのり)は、南北朝時代の武将、守護大名。摂津守護。赤松範資の嫡男で赤松則村(円心)の孫に当たる。京都七条の屋敷に住んでいたことから七条 光範(しちじょう みつのり)とも称される。
正平5年/観応元年(1350年)と翌正平6年/観応2年(1351年)に祖父と父が相次いで亡くなり、摂津守護職は光範に受け継がれたが、家督と播磨は叔父の則祐に移った。正平7年/観応3年(1352年)に南朝が京都を襲撃する事態が発生すると、近江に逃れた将軍足利義詮の召集命令に応じて叔父と共に北朝に味方し京都を奪回、男山包囲戦にも加わった(八幡の戦い)。
正平14年/延文4年(1359年)の南朝征討にも従軍したが、翌年に摂津守護職を佐々木道誉に交替させられた。正平18年/貞治2年(1363年)に摂津守護に再任されたが、文中3年/応安7年(1374年)に細川頼元に替えられた。弘和元年/永徳元年(1381年)10月3日に死去、享年62。
子孫は七条氏として存続、戦国時代に義村が惣領家の家督を継承した。また義村の弟義允の末裔は戦国期に石野氏を名乗って別所氏・豊臣氏に仕え、江戸時代には5000石の大身旗本として赤松家を再興した。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQ。ISBN 4404012403。 NCID BN00172373。OCLC 11260668。全国書誌番号:84023599。
- 高坂好 著、日本歴史学会 編『赤松円心・満祐』 155巻、吉川弘文館〈人物叢書〉、1970年3月。 NCID BN02378981。OCLC 29341608。全国書誌番号:73006025。
- 濱田浩一郎『播磨赤松一族』新人物往来社、2009年1月。ISBN 9784404035622。 NCID BA8896092X。OCLC 675723586。全国書誌番号:21558705。