西山彰
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西山彰 にしやま あきら | |
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生年月日 | 1860年6月26日 |
出生地 |
日本 阿波国美馬郡半田奥山村 (現・徳島県美馬郡つるぎ町) |
没年月日 | 1943年10月9日(83歳没) |
死没地 | 日本 東京都 |
前職 | 実業家 |
所属政党 | 立憲政友会 |
称号 | 勲四等 |
配偶者 | 西山静江 |
親族 | 義兄(義弟)・黒川幹太郎(貴族院議員) |
選挙区 | 香川県郡部選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1904年 - 1912年5月14日 |
第4代 観音寺町長 | |
在任期間 | 1932年1月15日 - 1936年1月14日 |
三豊郡会議長 | |
三豊郡会議員 | |
観音寺町会議員 | |
その他の職歴 | |
香川県会議員 (1889年 - ?) |
西山 彰(にしやま あきら、1860年6月26日(万延元年5月8日[1][2][3])- 1943(昭和18年)10月9日[4][注釈 1])は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、香川県三豊郡観音寺町長。旧姓・松浦。勲等は勲四等[3]。
経歴
[編集]阿波国美馬郡半田奥山村[3](現徳島県[2][3]美馬郡つるぎ町)で松浦庸吉[注釈 2]の四男として生まれる[2]。漢学を修めた[4]。1881年(明治14年)愛媛県豊田郡、のちの香川県三豊郡観音寺町[5](現観音寺市)の富豪・西山茂登彦の養子となり、1888年(明治21年)家督を相続した[1][2][3]。1889年(明治22年)、県会議員に選ばれる[6]。
1892年(明治25年)、西讃織物を設立して社長に就任し[1][3]、1895年(明治28年)、養蚕場を設け[1][3]、海外への輸出に尽力[1]。同年、西讃銀行頭取となった[3]。1896年(明治29年)、西讃醤油社長、西讃煉瓦社長になった[3]。西讃製糸社長なども務めた[1][2][4][5]。また、道路改修などへの寄付を行い、社会公共のために尽くした[1]。
政界では、観音寺町会議員、三豊郡会議員、同議長などを務めた[1][4]。1904年(明治37年)3月、第9回衆議院議員総選挙(香川県郡部、立憲政友会)で初当選し[7]、1908年(明治41年)5月、第10回総選挙(香川県郡部、立憲政友会)でも再選され[8]、衆議院議員に連続2期在任した[4][5]。1932年(昭和7年)1月15日から1936年(昭和11年)1月14日まで第4代観音寺町長を務めた[9]。東京都で死去した[6]。
親族
[編集]栄典
[編集]勲章等
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h 『大日本人物誌』に之部6-7頁。
- ^ a b c d e f 『人事興信録 第2版』201頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『大日本徳行録 第1巻』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』483頁。
- ^ a b c 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』343頁。
- ^ a b 『観音寺市誌 資料編 増補改訂版』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』32頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』72頁。
- ^ 『観音寺市誌』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
参考文献
[編集]- 成瀬麟、土屋周太郎編『大日本人物誌 : 一名・現代人名辞書』八紘社、1913年。
- 人事興信所編『人事興信録 第2版』人事興信所、1908年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。