神社合祀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

神社合祀(じんじゃごうし)とは、神社の合併政策のことである。神社整理ともいう。複数の神社の祭神を一つの神社に合祀(いわゆる稲八金天神社)させるか、もしくは一つの神社の摂末社にまとめて遷座させ、その他の神社を廃することによって、神社の数を減らすというもの。主に明治時代末期に行われたものをさす。

前近代の神社合祀[編集]

岡山藩の神社合祀[編集]

水戸藩の神社合祀[編集]

津和野藩の神社合祀[編集]

明治初年の神社合祀[編集]

明治末期の神社合祀[編集]

目的[編集]

神社合祀の目的は、神社の数を減らし残った神社に経費を集中させることで一定基準以上の設備・財産を備えさせ、神社の威厳を保たせて、神社の継続的経営を確立させることにあった。また、教派神道は宗教として認めるが、神社は宗教ではなく「国家の宗祀」であるという明治政府の国家原則(宗・政・祭体制[1])に従って、地方公共団体から府県社以下神社に公費の供進を実現させるために、財政が負担できるまでに神社の数を減らすことにもあった。

この政策は内務省神社局が主導したが、同省地方局の関与もあったらしい。というのも、地方局は合祀の目的の一つである地方公共団体からの府県社以下神社への公費供進を認めるのを地方公共団体にさらなる財政負担を求めるものとして消極的だったが、それを認める代わりに地方自治政策の一環としての神社中心説を神社合祀政策に盛り込んだのであった。

神社中心説とは地方の自治は神社を中心に行なわれるべきだという考えのことで、これにより合祀政策に一町村一神社の基準が当てはめられることとなった。神社の氏子区域と行政区画を一致させることで、唯一の神社を地域活動の中心にさせようとしたのである。

合祀政策の経緯[編集]

神社合祀政策は1906年(明治39年)の勅令によって進められ、全国で1914年までに約20万社あった神社の7万社が取り壊された。特に合祀政策が甚だしかったのは三重県で、県下全神社のおよそ9割が廃されることとなった。和歌山県愛媛県もそれについで合祀政策が進められた。しかし、この政策を進めるのは知事の裁量に任されたため、その実行の程度は地域差が出るものとなり、京都府では1割程度ですんだ。

この官僚的合理主義に基づいた神社合祀政策は、必ずしも氏子崇敬者の意に即して行なわれなかった。当然のことながら、生活集落と行政区画は一致するとは限らず、ところによっては合祀で氏神が居住地からはほど遠い場所に移されて、氏子が氏神参拝に行くことができなくなった地域もある。合祀を拒んだ神社もあったが、所によってはなかば強制的に合祀が行なわれた。

合祀反対運動[編集]

氏子・崇敬者の側としては、反対集会を開くこともあったが、主として大きな運動もできず、合祀によって廃された神社の祭神が祟りを起こしたなどと語る形でしか不満を示すことはできなかった。

とはいうものの、この合祀政策は、博物学者・民俗学者で粘菌の研究で知られる南方熊楠ら知識人が言論によって強い反対を示した。南方は、合祀によって①敬神思想を弱める、②民の和融を妨げる、③地方を衰微する、④民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を害する、⑤愛国心を損なう、⑥土地の治安と利益に大害がある、⑦史跡と古伝を滅却する、⑧天然風景と天然記念物を亡滅すると批判した[1]。こうした反対運動によって次第に収束して、帝国議会での答弁などを通して、1910年(明治43年)以降には急激な合祀は一応収まった。しかし、時既に遅く、この合祀政策が残した爪跡は大きく、多数の祭礼習俗が消えてしまい、宗教的信仰心に損傷を与える結果となった。

合祀された神社の復祀[編集]

戦後になると、戦前の神社非宗教体制は解体され、すべてが宗教法人となった[1]。一度合祀されたもののちに復祀された神社も少なくなかった。名目上合祀された後も、社殿などの設備を残したところもあり、そういったところでは復祀が行なわれ易かった。全般的にみて、合祀以前の崇敬基盤がその後も維持されたところでは復祀が行なわれ易かったが、行政区画の統廃合や状況の変化で崇敬基盤となった共同体が消滅や変化をした場合は復祀されない傾向にあった。

研究書籍・論文[編集]

  • 西川順士「神社整理問題の史的考察」(『神道研究』3巻4号、1942年)
  • 土岐昌訓「明治以降に於ける神社整理の問題」(『神道宗教』17号、1958年)
  • 萩原龍夫「神社祭祀」(和歌森太郎編『宇和地帯の民俗』吉川弘文館、1961年)
  • 桜井徳太郎「斎忌習俗の解体過程」(伊東多三郎編『国民生活史研究』5集、吉川弘文館、1962年)
  • 桜井徳太郎『神仏交渉史研究:民俗における文化接触の問題』吉川弘文館、1968年
  • 楠本慎平「明治末期の神社合併について:富田郷を中心として」(『田辺文化財』6号、1962年)
  • 原田敏明「神社合併と宮座の変化」(原田敏明『村祭と座』中央公論社、1976年)
  • 千葉正士「一市町村一神社の理念と総鎮守の制」(『社会と伝承』8巻1号、1964年)
  • 森岡清美「明治末期における集落神社の整理:三重県下の合祀過程とその結末」(東京大学東洋文化研究所『東洋文化』40号、1966年)
  • 森岡清美「明治末期における集落神社の整理(2):その全国的経緯」(東京教育大学文学部『社会科学論集』16号、1969年)
  • 森岡清美『近代の集落神社と国家統制:明治末期の神社整理』(日本宗教史研究叢書)吉川弘文館、1987年
  • 森岡清美「明治初年における小祠処分と無格社」(下出積與編『日本宗教史論纂』桜楓社、1988年)
  • Wilbur M. Fridell,Japanese shrine mergers, 1906-12 : State Shinto moves to the grassroots,Sophia University,1973
  • 米地実「明治末期の神社整理:長野県における通牒などを中心として」(慶應義塾大学『法学研究』41巻9号、1968年)
  • 米地実「明治末期神社行政に関する覚書:いわゆる神社整理について」(『日本女子大学紀要・文学部』22号、1972年)
  • 米地実「明治末期神社整理に関する一事例:長野県諏訪郡湖南南真志野の場合」(『日本女子大学紀要・文学部』23号、1973年)
  • 米地実『村落祭祀と国家体制』御茶の水書房、1977年
  • 孝本貢「神社合祀:国家神道化政策の展開」(田丸徳善ほか編『近代との邂逅』(日本人の宗教3)佼成出版社、1973年)
  • 孝本貢「神社整理と地域社会:神奈川県相模原市の事例」(笠原一男編『日本における政治と宗教』吉川弘文館、1974年)
  • 桜井治男・森安仁「神社合併と村祭の変化:三重県度会郡穂原村」(『社会と伝承』12巻4号、1971年)
  • 桜井治男「神社合併と村祭の変化:北伊勢地方の事例」(『皇學館大学紀要』14輯、1976年)
  • 桜井治男「神社合祀と山の神:参宮街道の事例」(『皇學館論叢』12巻5号、1979年)
  • 桜井治男「神社整理と神社復祀」(宗教社会学研究会編『宗教・その日常性と非日常性』雄山閣、1982年)
  • 桜井治男「明治末期の神社整理と御頭神事:三重県下の事例」(『皇學館大学神道研究所所報』22号、1982年)
  • 桜井治男「神撰幣帛料供進社の指定をめぐる諸問題」(『神道宗教』117号、1984年)
  • 桜井治男「神社整理と村落融合」(『宗教研究』263号、1985年)
  • 桜井治男『蘇るムラの神々』大明堂、1992年
  • 沼部春友「神社合祀に関する一考察」(『宗教研究』214号、1973年)
  • 岸本昌良「神社合祀・再考」(駒澤大学大学院社会学研究会『ソキエタス』6、1979年)
  • 岸本昌良「神社合祀の論理」(駒澤大学大学院社会学研究会『ソキエタス』7、1980年)
  • 岸本昌良「神社合祀の実態」(『史潮』新9号、1981年)
  • 鈴木通大「神社合祀後における<分祀>について:神奈川県下の民俗事例をもとに」(『神奈川県立博物館研究報告』10、1982年)
  • 田中宣一「一村落における明治末期の神社整理:神奈川県川崎市麻生区岡上の場合」(『成城文芸』103号、1983年)
  • 山本悠二「宮城県における神社統合政策の展開」(『歴史』64輯、1985年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 「日本的霊性」を問い直す鎌田東二、千葉大学公共研究 第3巻第1号(2006 年6月)