相良守典
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相良 守典(さがら もりつね、天保8年3月3日〈1837年4月7日〉 - 大正7年〈1918年〉6月22日)は、日本の官吏、郡長、庄内藩銃隊頭。
略歴
[編集]- 1837年(天保8年)4月7日 - 庄内藩士・相良守富の3男として生れる。
- 兄・相良守均の跡を次ぐ。
- 1855年(安政2年) - 江川英龍の塾で砲術を修業。
- 1868年(明治元年) - 銃隊頭として戊辰戦争に出陣。
- 1869年(明治2年)12月 - 明治新政府より、越後水原県権少属 兼 越後按察府権少主典 任官
- 1881年(明治14年)8月 - 飽海郡長 任官
- 1885年(明治18年) - 同職免官
- 1886年(明治19年)1月 - 山形師範学校校長 就任
- 1888年(明治21年)8月25日 - 同職免官、北会津郡長 任官、叙奏任官五等、賜下級俸[2]
- 1891年(明治24年)1月28日 - 同職免官、東田川郡長 任官、叙奏任官五等[3]
- 1892年(明治25年) - 中川堰普通水利組合 初代管理者に選任。
- 1898年(明治31年)8月31日 - 同職免官、西田川郡長 任官、叙高等官六等[4]
- 1899年(明治32年)12月9日 - 同職免官、南村山郡長 任官、叙高等官六等[5]
- 1902年(明治35年)11月10日 - 公職 依願免官[6]、一級俸下賜[7]
- 1918年(大正7年)6月22日 - 死去、山形県鶴岡市の禅竜寺に墓がある。
栄典
[編集]- 位階
- 1886年(明治19年)11月27日 - 従七位[8]
- 1892年(明治25年)3月14日 - 正七位[9]
- 1898年(明治31年)6月10日 - 従六位[10]
- 1902年(明治35年)12月27日 - 正六位[11]
- 勲章等
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ 『官報』第951号「叙任」1886年8月31日。
- ^ 『官報』第1549号「叙任及辞令」1888年8月27日。
- ^ 『官報』第2273号「叙任及辞令」1891年1月29日。
- ^ 『官報』第4553号「叙任及辞令」1898年9月1日。
- ^ 『官報』第4934号「叙任及辞令」1899年12月11日。
- ^ 『官報』第5807号「叙任及辞令」1902年11月11日。
- ^ 『官報』第5808号「叙任及辞令」1902年11月12日。
- ^ 『官報』第1031号「叙任」1886年12月6日。
- ^ 『官報』第2609号「叙任及辞令」1892年3月15日。
- ^ 『官報』第4483号「叙任及辞令」1898年6月11日。
- ^ 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。
- ^ 『官報』第3451号「叙任及辞令」1894年12月27日。
- ^ 『官報』第4494号「彙報‐褒賞」1898年6月24日。
- ^ 『官報』第5548号「叙任及辞令」1901年12月28日。
参考文献
[編集]- 庄内人名辞典刊行会 編(大瀬欽哉 代表編者)『新編 庄内人名辞典』庄内人名辞典刊行会(致道博物館)、1986年。NCID BN01280531。
- 北会津郡 編『北会津郡郷土誌』福島県北会津郡、1917年(大正6年)。NCID BN1044927X。
- 上山市史編纂委員会 編『上山市史編集資料 第5集 : 南村山郡会史 上巻』上山市(山形県)、1973年。NCID BN10889738。