益田克徳
ますだ かつのり 益田 克徳 | |
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生誕 |
1852年1月25日 佐渡国相川 |
死没 | 1903年4月8日(51歳没) |
出身校 | 慶應義塾 |
職業 | 検事、実業家 |
益田 克徳(ますだ かつのり/こくとく、1852年1月25日(嘉永5年1月5日) - 1903年(明治36年)4月8日)は、幕末期の幕臣で明治期の官吏、実業家、政治家。東京海上保険創立者。幼名は荘作。号は無為庵、非黙。
経歴
[編集]代々土着与力をもって徳川に仕えた佐渡奉行所の役人・益田鷹之助の次男で、益田孝の弟。佐渡生まれ。
1854年(安政元年)に父が箱館奉行所へ異動となったのに伴って、1855年(安政2年)江戸の親戚の家に出て、1858年(安政5年)に箱館に移る。1859年(安政6年)に父が外国方支配目付役に異動となったため江戸に戻る。慶応年間、英漢学を修め海軍修業生となり榎本武揚・榎本軍に属する。箱館で捕らえられ、江戸に護送され禁固100日に処される。
明治維新後、1869年(明治2年)に高松藩に預けられ、慶應義塾に入り福澤諭吉に学ぶ。卒業後に高松藩の教育掛となる。明治4年(1871年)に山田顕義と欧米を視察し、司法省に出仕して検事となる。明治7年(1874年)に前島密と共に海上保険例を作成する。
その後、民間に下り、沼間守一の嚶鳴社に入って自由民権運動に参加する。1879年(明治12年)東京海上保険会社勤務となり支配人となる。東京米穀取引所、王子製紙、明治生命、石川島造船所、東京帽子の取締役を歴任する。
1889年の東京市会議員選挙に下谷区から立候補して当選した[1]。
「克徳」の読み
[編集]経済学者の鈴木邦夫は、白崎秀雄が著書『鈍翁・益田孝』のなかで、「『益田克徳』の読みは『こくとく』が正しく、『かつのり』とは読まない」と述べていることを挙げたうえで、この説が流布してしまっているが、実際には「こくとく」は通称で、正式の読みは「かつのり」であるとする。鈴木はその例証として、The Japan Directoryの1896・1897年版に掲載された東京海上保険(支配人は益田克徳)の英文広告にKatsunori Masudaと表記されていることを挙げている[2]。
『益田克徳翁伝』によれば、家族の者は"こくとく"と呼んでいたという[3]。
親族
[編集]- 兄・益田孝
- 妹・瓜生繁子
- 甥・益田太郎冠者
- 義弟・上田安三郎(三井物産幹部。妻の妹の夫[4])
- 子・益田達(東京帽子会長)
- 長女・きぬ - 三井物産常務・小田柿捨次郎(1865-1928)[5]の妻[6]
- 二女・しげ - 医師・林曄(山高信離二男で林鶯渓養子)の妻。子に松沢病院院長の林暲。
- 三女・なか - 建築家・平野勇造の妻[7][8]。
- 親戚・小笠原鑅次郎(達の娘の夫の父)
- 妾・福島なみ[9]
脚注
[編集]- ^ 制限選挙期における東京市会議員総選挙の結果について(櫻井良樹)
- ^ 鈴木邦夫「鈍翁コレクションのアルケオロジー」『鈍翁の眼 益田鈍翁の美の世界』(展覧会図録、五島美術館、1998)、p.144
- ^ 同書p.347
- ^ 益田克徳 - 谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー
- ^ 「小田柿捨次郎」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 。コトバンクより2023年2月12日閲覧。
- ^ 小田柿捨次郎 - 『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 益田克徳 - 『人事興信録』初版(1903年4月)
- ^ 山口勝治『三井物産技師平野勇造小伝―明治の実業家たちの肖像とともに―』西田書店、2011年、p.79(本書では名前を「仲」とする)
- ^ 黒岩涙香『弊風一班 蓄妾の実例』〈現代教養文庫〉社会思想社、1992年、p.146
参考文献
[編集]- 三田商業研究会編 編『慶應義塾出身名流列伝』実業之世界社、1909年(明治42年)6月、故人15-16頁頁 。(近代デジタルライブラリー)
- 益田克徳(ますだかつのり) - ウェイバックマシン(2016年3月4日アーカイブ分)
- 『益田克徳翁伝』大塚栄三著 益田恭尚・益田晃尚 編、東方出版、2004年(平成16年)11月。