田邊新之助

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田邊新之助
人物情報
生誕 (1862-01-08) 1862年1月8日
日本の旗 日本
死没 1944年1月1日(1944-01-01)(81歳)
学問
研究分野 漢学
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田邊 新之助(たなべ しんのすけ、文久2年(1862年)1月8日 - 昭和19年(1944年[1])は、日本の教育者、漢学者漢詩人としては田邊松坡(しょうは)と号した[2]逗子開成中学校鎌倉女学校を創設した。東京開成中学校の校長も務めた。東京府士族[3]。子に田辺元、孫に野沢協がいる。

略歴[編集]

唐津藩藩士の子として江戸深川の唐津藩邸で生まれ、6〜7歳頃に両親とともに唐津に転居[4]。教師速成のために1876年に設けられた唐津伝習所(元・藩校の耐恒寮。現・佐賀県立唐津東中学校・高等学校)を卒業[5]1878年に上京し、大学予備門に学び、その傍ら元昌平黌(昌平坂学問所)の学者からも学ぶ[6]。恩師・高橋是清の引き立てで、1882年2月に共立学校(現・開成中学校・高等学校)の漢文教師となる[4]。英語や地理も教えた。教え子の一人であった斎藤茂吉は、田邊の授業で英語が楽しくなったと回想している[2]1897年には、東京府立開成尋常中学校と改称した同校の校長となる(同校はのちに私立校に戻る)[4]

1900年神奈川県逗子市に第二開成中学校が設立され、田辺が校長兼任に、三島由紀夫の祖父である橋健三が幹事に就任した[7]。これは横須賀海軍兵学校を出た軍人の子供たちのため、東京の開成のような学校を横須賀に作りたい、という海軍の要請から準備されたもので、1903年4月に逗子開成中学校として開校した(1919年から太平洋戦争終戦までは退役海軍少将が三代続いて校長に就任)[8]。開校にあたっては各方面に手紙を送って援助を乞い、高橋是清のほか団琢磨服部金太郎ら財界人が応じた[2]1901年には開成中学に夜学校の併設を申請し、1904年10月には、鎌倉に鎌倉女学校を創設、初代校長となる。同女学校副校長に就任した星野天知の自叙伝によると、田辺が女学校設立を鎌倉町会に申請したところ、町議の大石平左衛門が田辺に信用がないとして反対したため、表面上は田辺を校長にしたが、実際の学内準備は星野が施行したとしている[9]

1910年に、逗子開成の学生12名が死亡するボート遭難事故が起こり、同年3月に開成中学校長を橋健三に譲り、引責辞任。被害者への賠償金支払いのため鎌倉女学校の土地を売却するなどして女学校経営が厳しくなったため、陸奥宗光の長男・陸奥廣吉が共同出資者となり、田辺に替わって校長に就任[10]。田辺は1914年2月に逗子開成の校長も辞し、鎌倉女学校の管理に専念する[4]1925年2月に同女学校を財団法人にし、校長兼理事となり、1934年に同校校長を辞した後は、漢書籍の研究に専念し、田邊松坡の名で漢詩や書を発表。時折、他校にて漢文の講義なども行なった[4]

漢学・漢詩を通じて文人との交流も多く、陸奥廣吉や黒田清輝らが1914年に史跡保存などのため結成した「鎌倉同人会」の命名、趣意書や市内各所の史跡を解説する碑文の執筆を担った。約6000冊と目される蔵書は、1947年に遺族により鎌倉市図書館に寄贈された。2018年に松坡文庫研究会が設立され、事績や蔵書の研究が進められている[2]

墓所は鎌倉の寿福寺にある。

脚注[編集]

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  1. ^ [1]
  2. ^ a b c d 袴田潤一「鎌倉に華 漢詩人・田辺松坡の魂◇逗子開成中創立や史跡保存に奔走した足跡◇」日本経済新聞』朝刊2019年5月29日(文化面)2019年6月1日閲覧。
  3. ^ 『万国地理新書』 (普通学全書 ; 第20編) / 田辺新之助 著 (冨山房, 1892)
  4. ^ a b c d e 東京開成中学校校史資料(東京開成中学校, 1936)
  5. ^ 唐津東高校母校百年史
  6. ^ 週刊朝日』第 4584〜4586 巻(大坂朝日新聞社刊) 133p
  7. ^ 東京開成中学校校史資料(東京開成中学校, 1936)
  8. ^ 海軍の町 横須賀『有鄰』第402号、平成13年5月10日
  9. ^ 『日本近代文学館資料叢書: 文学者の日記』星野天知・日本近代文学館著、博文館新社刊, 1999年
  10. ^ 下重暁子『純愛 エセルと陸奥廣吉』講談社