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'''紫原 政文'''(しはら まさふみ、[[1968年]][[3月5日]]- )は、[[福岡県]][[久留米市]]出身の[[競輪選手]]。[[競輪選手#日本競輪選手会|日本競輪選手会]] |
'''紫原 政文'''(しはら まさふみ、[[1968年]][[3月5日]]- )は、[[福岡県]][[久留米市]]出身の[[競輪選手]]。[[日本競輪学校]]第61期生で同期には[[神山雄一郎]]、[[山田裕仁]]らがいる。[[競輪選手#日本競輪選手会|日本競輪選手会]]福岡支部に在籍。 |
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== 経歴 == |
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[[福岡県立八女工業高等学校]]在学中は陸上部に在籍していたが、これは師匠である[[中野浩一]]と全く同じ経歴であり、このことから在学中に中野から直々に声をかけられ、競輪へ転向することになった。 |
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師匠は[[中野浩一]]。[[福岡県立八女工業高等学校]]出身で、師匠の中野の後輩にあたる他、高校時代は中野と同じく、同校の[[陸上部]]に在籍していた。 |
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だが[[2008年]]は9月に[[一宮競輪場]]で開催された[[オールスター競輪]]で決勝2着に入り、11月に[[広島競輪場]]で開催された[[ふるさとダービー]]でも決勝2着となったことから、2008年の賞金獲得ランキング上位者となり、同ランキング上位18名が選出される翌年のS級S班格付けだけでなく、上位数名が選出される[[KEIRINグランプリ]]の出場まで争う活躍を見せている。 |
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また2008年[[10月13日]]現在、同年の賞金獲得ランキング第9位となっており、同ランキング上位18名が選出される、[[2009年]]のS級S班選手も間近に見えてきている。 |
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*[[1990年]] - [[競輪祭朝日新聞社杯争奪競輪王決定戦#全日本新人王戦|競輪祭新人王戦]]([[小倉競輪場]]) |
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デビューからは先行・捲りを主体とした自力戦法の選手として活躍していたが、30代あたりからは捲りをも併せ持つ追い込み選手となっている。 |
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その競走を40代となる現在も続けていること自体特筆だが、自ら捲りを放つタイミングや、直線での追い込みにかけるタイミングを判断する時など、競走の流れを読んで勝つために動く勘の良さは、競輪選手の中でも他に並ぶものがいないほど際立っている。 |
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== エピソード == |
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ところで、競輪学校の卒業式が終わり、他の生徒はその後地元へと戻る中、たまたま中野が、1988年の[[日本選手権競輪]]へ向けて、競輪学校で合宿練習に入っていたこともあり、紫原がじきじきに、「これからどうしましょう?」と中野に尋ねたところ、「いいからこのまま残って俺たちと一緒に合宿に入れ!」という指示を受け、その後1週間ほど中野らと共に練習を重ねたという。 |
ところで、競輪学校の卒業式が終わり、他の生徒はその後地元へと戻る中、たまたま中野が、1988年の[[日本選手権競輪]]へ向けて、競輪学校で合宿練習に入っていたこともあり、紫原がじきじきに、「これからどうしましょう?」と中野に尋ねたところ、「いいからこのまま残って俺たちと一緒に合宿に入れ!」という指示を受け、その後1週間ほど中野らと共に練習を重ねたという。 |
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すると、上述の通り、紫原は新人王を獲得したばかりでなく、現在もS級トップクラスの選手として活躍を続けているが、中野から見て劣等生だった紫原がこのような活躍ができたのは、競輪学校卒業後も気を緩めることなく練習を続けてさえいれば、競輪選手になってから十分活躍できるということを証明したと述べている。 |
す ると、上述の通り、紫原は新人王を獲得したばかりでなく、現在もS級トップクラスの選手として活躍を続けているが、中野から見て劣等生だった紫原がこのよ うな活躍ができたのは、競輪学校卒業後も気を緩めることなく練習を続けてさえいれば、競輪選手になってから十分活躍できるということを証明したと述べてい る。 |
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したがって師匠である中野もまた、努力することがいかに大事かということを、弟子の紫原の活躍を通じて改めて認識させられたという。 |
したがって師匠である中野もまた、努力することがいかに大事かということを、弟子の紫原の活躍を通じて改めて認識させられたという。 |
2008年11月3日 (月) 08:37時点における版
紫原 政文(しはら まさふみ、1968年3月5日- )は、福岡県久留米市出身の競輪選手。日本競輪学校第61期生で同期には神山雄一郎、山田裕仁らがいる。日本競輪選手会福岡支部に在籍。
経歴
福岡県立八女工業高等学校在学中は陸上部に在籍していたが、これは師匠である中野浩一と全く同じ経歴であり、このことから在学中に中野から直々に声をかけられ、競輪へ転向することになった。
やがて日本競輪学校に第61期生して入学し、1988年5月3日に京都向日町競輪場でデビューし2着。初勝利は翌5月4日。
1990年の競輪祭新人王戦で優勝し、中野の弟子でもあったことから大きな注目を浴びたが、1996年の競輪祭競輪王戦決勝3着の他に大きな成績を出すことはできなかった。しかしその後も息の長い活躍を続けており、現在でもほぼ常時特別競輪(現在のGI)に出場している。
だが2008年は9月に一宮競輪場で開催されたオールスター競輪で決勝2着に入り、11月に広島競輪場で開催されたふるさとダービーでも決勝2着となったことから、2008年の賞金獲得ランキング上位者となり、同ランキング上位18名が選出される翌年のS級S班格付けだけでなく、上位数名が選出されるKEIRINグランプリの出場まで争う活躍を見せている。
主な獲得タイトル
競走スタイル
デビューからは先行・捲りを主体とした自力戦法の選手として活躍していたが、30代あたりからは捲りをも併せ持つ追い込み選手となっている。
その競走を40代となる現在も続けていること自体特筆だが、自ら捲りを放つタイミングや、直線での追い込みにかけるタイミングを判断する時など、競走の流れを読んで勝つために動く勘の良さは、競輪選手の中でも他に並ぶものがいないほど際立っている。
エピソード
以下は、中野浩一著「競輪へ行こう」(ゴマブックス刊)を参考文献とした話である。
師匠の中野から見て、競輪学校の在校競走成績順位が低かった(全生徒98名中63位)ということもあり、競輪選手として、このままでは恐らく大成しないだろうと考えていたという。
ところで、競輪学校の卒業式が終わり、他の生徒はその後地元へと戻る中、たまたま中野が、1988年の日本選手権競輪へ向けて、競輪学校で合宿練習に入っていたこともあり、紫原がじきじきに、「これからどうしましょう?」と中野に尋ねたところ、「いいからこのまま残って俺たちと一緒に合宿に入れ!」という指示を受け、その後1週間ほど中野らと共に練習を重ねたという。
す ると、上述の通り、紫原は新人王を獲得したばかりでなく、現在もS級トップクラスの選手として活躍を続けているが、中野から見て劣等生だった紫原がこのよ うな活躍ができたのは、競輪学校卒業後も気を緩めることなく練習を続けてさえいれば、競輪選手になってから十分活躍できるということを証明したと述べてい る。
したがって師匠である中野もまた、努力することがいかに大事かということを、弟子の紫原の活躍を通じて改めて認識させられたという。