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== 経歴 == |
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===クラブ=== |
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ラカトゥシュは[[1981年]]に[[FCブラショフ]]で選手経歴を開始すると、[[1983年]]に[[FCステアウア・ブカレスト|ステアウア・ブカレスト]]へ移籍。ステアウアでは[[1986年]]5月に[[UEFAチャンピオンズカップ 1985-86]]決勝で[[FCバルセロナ]]をPK戦の末に下し優勝に貢献。同年12月のトヨタカップにも出場した。[[東欧革命]]後の[[1990年]]に国外へ活躍の場を求め、[[イタリア]]の[[フィオレンティーナ]]へ移籍、翌[[1991年]]には[[スペイン]]の[[レアル・オビエド]]へ移籍した。[[1993年]]に古巣のステアウアに復帰を果たし7シーズン在籍、[[2000年]]に[[FCプログレッスル・ブカレスト|ナシオナル・ブカレスト]]で短期間プレーした後に現役を引退した。ラカトゥシュはルーマニアリーグ通算414試合に出場し103得点を記録、[[欧州サッカー連盟]]主催の国際大会において72試合に出場し16得点を記録した。 |
ラカトゥシュは[[1981年]]に[[FCブラショフ]]で選手経歴を開始すると、[[1983年]]に[[FCステアウア・ブカレスト|ステアウア・ブカレスト]]へ移籍。ステアウアでは[[1986年]]5月に[[UEFAチャンピオンズカップ 1985-86]]決勝で[[FCバルセロナ]]をPK戦の末に下し優勝に貢献。同年12月のトヨタカップにも出場した。[[東欧革命]]後の[[1990年]]に国外へ活躍の場を求め、[[イタリア]]の[[ACFフィオレンティーナ|フィオレンティーナ]]へ移籍、翌[[1991年]]には[[スペイン]]の[[レアル・オビエド]]へ移籍した。[[1993年]]に古巣のステアウアに復帰を果たし7シーズン在籍、[[2000年]]に[[FCプログレッスル・ブカレスト|ナシオナル・ブカレスト]]で短期間プレーした後に現役を引退した。ラカトゥシュはルーマニアリーグ通算414試合に出場し103得点を記録、[[欧州サッカー連盟]]主催の国際大会において72試合に出場し16得点を記録した。 |
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===ルーマニア代表=== |
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2023年5月28日 (日) 13:33時点における最新版
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名前 | ||||||
本名 | マリウス・ミハイ・ラカトゥシュ | |||||
愛称 | Fiara、The Beast | |||||
ラテン文字 | Marius Lăcătuş | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
![]() | |||||
生年月日 | 1964年4月4日(60歳) | |||||
出身地 | ブラショフ | |||||
身長 | 181 cm | |||||
体重 | 76 kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
利き足 | 右足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1981-1983 |
![]() | 45 | (5) | |||
1983-1989 |
![]() | 200 | (59) | |||
1990-1991 |
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1991-1993 |
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1993-2000 |
![]() | 157 | (39) | |||
2000 |
![]() | 12 | (0) | |||
代表歴 | ||||||
1984-1998 |
![]() | 83 | (13) | |||
監督歴 | ||||||
2000-2001 |
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2001 |
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2001-2002 |
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2002-2003 |
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2003 |
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2004 |
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2005 |
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2006-2007 |
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2007-2008 |
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2009 |
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2009-2010 |
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2010-2011 |
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2012 |
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2013-2014 |
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1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
マリウス・ラカトゥシュ(Marius Lăcătuş、1964年4月5日 -)は、ルーマニア出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFW。
経歴[編集]
クラブ[編集]
ラカトゥシュは1981年にFCブラショフで選手経歴を開始すると、1983年にステアウア・ブカレストへ移籍。ステアウアでは1986年5月にUEFAチャンピオンズカップ 1985-86決勝でFCバルセロナをPK戦の末に下し優勝に貢献。同年12月のトヨタカップにも出場した。東欧革命後の1990年に国外へ活躍の場を求め、イタリアのフィオレンティーナへ移籍、翌1991年にはスペインのレアル・オビエドへ移籍した。1993年に古巣のステアウアに復帰を果たし7シーズン在籍、2000年にナシオナル・ブカレストで短期間プレーした後に現役を引退した。ラカトゥシュはルーマニアリーグ通算414試合に出場し103得点を記録、欧州サッカー連盟主催の国際大会において72試合に出場し16得点を記録した。
ルーマニア代表[編集]
ルーマニア代表としては、1990年のFIFAワールドカップ・イタリア大会代表メンバーに選出。初戦のソビエト連邦戦では前半40分にスルーパスから抜け出し、セルゲイ・アレイニコフを振り切り右足のミドルシュートで先制。後半9分には巧妙なドリブル突破から相手のハンドを誘い、獲得したPKを自ら決めて2-0の勝利に貢献した。この大会では4試合に出場し同国の決勝トーナメント進出に貢献した。
1994年のFIFAワールドカップ・アメリカ大会代表からは落選したが、その後は1996年のUEFA EURO '96と、1998年のFIFAワールドカップ・フランス大会では代表に選出された。ラカトゥシュはルーマニア代表として国際Aマッチ84試合に出場し13得点を記録した。1997年FIFA欧州選抜に選出し世界選抜との対戦で1得点を挙げる活躍を見せた。
引退後[編集]
引退後は指導者の道へ進み、2000年にナシオナル・ブカレストのヘッドコーチに就任。パナマ代表のコーチや古巣のFCブラショフの監督などを歴任し、2004年にはサッカールーマニア代表のコーチを短期間務めた。2005年にステアウア・ブカレストの会長に就任したが、現場での仕事を求め、再び監督業に復帰し、2006年から2007年にUTAアラドの監督を務めた。2007年10月28日にシーズン途中に解任されたマッシモ・ペドラッツィーニの後任としてステアウア・ブカレストの監督に就任し、2007-08シーズンを2位で終えた。しかし、2008年10月21日に行われたUEFAチャンピオンズリーグ 2008-09第3節、対オリンピック・リヨン戦の敗戦(3-5でステアウアの敗退)の責任をとり、翌22日に監督を辞任した[2]。
その後、後任のドリネル・ムンテアヌが同年12月16日に成績不振により解任されると、ラカトゥシュが監督に復帰することが、オーナーのゲオルゲ・ベカリにより発表された[3]。同年5月に監督を退任した。2009年10月、FCヴァスルイ監督に任命され、リーグ3位、カップ戦準優勝の好成績を収めたが2010年5月に退任。
2010年9月27日、ステアウアの監督に三度目の就任を果たした[4] 。2011年3月7日、FCブラショフ戦での大敗を受けて辞任した。2012年初め、トゥルグ・ムレシュ監督に就任するが、3試合を指揮して2分け1敗と、未勝利のまま辞任。
脚注[編集]
- ^ “Marius Mihai Lacatus - International Appearances” (英語). The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation
- ^ ステアウアのラカトゥシュ監督が辞任 - UEFA.com 2008年10月24日閲覧
- ^ ステアウア、ラカトゥシュ前監督が復帰 - UEFA.com 2009年1月15日閲覧
- ^ ラカトゥシュ氏がステアウアの監督に復帰- UEFA.com 2010年10月1日閲覧
外部リンク[編集]
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