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2006年3月9日 (木) 15:09時点における版
バルト帝国(バルトていこく、スウェーデン・バルト帝国)は、近世ヨーロッパのバルト海沿岸を支配した国家、スウェーデン王国が繁栄した大国時代の呼称。スウェーデン人自身はこの政体を帝国とは呼ばなかったが、複数の言語、民族の領域を支配した事から呼ばれる。グスタフ・アドルフのバルト帝国建国から、1700年代に始まった大北方戦争によってスウェーデンがロシア帝国に敗れるまでのおよそ一世紀間を、「スウェーデン・バルト帝国」と言う。
概要
「バルト」とは、中世以来バルト海沿岸地域全体を指し示す呼称として用いられて来た。この環バルト海の覇権を巡り、ロシア、デンマーク、プロイセン、ポーランドなどが争った。このバルト海を制す国が、後世バルト帝国と呼ばれる様になる。その為バルト海を意味する「マーレ・バルティクム」 Mare Balticum (羅)は、バルト帝国と同意義語として扱われる様になった。バルト海はまた、ヴァイキング時代の後に「スウェーデン海」、あるいはスウェーデン・ヴァイキングの名から付けられた「ヴァリャーグ海」とも呼ばれた事もあった。
マーレ・バルティクムがバルト帝国と同義とされるのは、バルト海の制海権も含めているからである。この制海権は、ハンザ同盟の支配から15世紀にデンマークに移り、16世紀半ばには事実上スウェーデンの支配に帰した事にある(最もバルト海南岸及びデンマーク近海は、依然デンマークの影響下にあった)。また17世紀後半には、プロイセン艦隊もバルト海南部に影響力を誇っていた。とは言え、バルト海全域を見ると、17世紀全般に渡り依然スウェーデンの影響が強く、バルト海の支配者は、スウェーデンにあると言えよう。しかしロシア帝国では、これに対抗する為、17世紀後半から港湾と艦隊建造に邁進し、18世紀に始まった大北方戦争でスウェーデン艦隊を撃破し、バルト海の制海権もロシアに移って行くのである。
前史
スウェーデンのバルト帝国の基礎となったのは、8世紀に始まったヴァイキングに遡る。9世紀から10世紀にかけて支配した、エストニアとクールラントが始まりとされるが、いずれもスウェーデンの統一以前で歴史的確証がある訳ではない。その後、統一を果たしたスウェーデンは、フィンランドに野心を持ち、13世紀には、ほぼフィンランド全土を自国領に組み込む事に成功した。この侵略に正当性を持たせる為、スウェーデンは「北方十字軍」と称しフィンランドをカトリック化させたのである。その後スウェーデンは王家が断絶し、カルマル同盟(1397年)に組み込まれた。しかし1523年にヴァーサ朝の元で独立。その後1558年に始まったリヴォニア戦争で得たエストニアを足掛かりにバルト帝国を築いて行くのである。
バルト帝国の建国
そして17世紀に入り、ついにスウェーデンは、グスタフ2世アドルフ(在位1611年-1632年)によってヨーロッパ史上にスウェーデンを北方の大国として君臨させるのである。彼はまずライバルであるデンマークを破り、スウェーデン王位を望むポーランド(ポーランドからはリガを奪い、事実上リヴォニアを領有する)、帝制を開始したロシアを撃破する(ロシア動乱に介入し、カレリア、インゲルマンラントを獲得する)。更にドイツ三十年戦争に介入し、プロテスタント(ルター派)の盟主にもなった。この三十年戦争によりドイツにも領土を得、スウェーデンは名実共にバルト帝国の座に君臨したのである(ヴェストファーレン条約)。
グスタフ・アドルフは1632年に戦死し、次代クリスティーナ女王は幼かっため、グスタフの重臣だった、オクセンシェルナが政治を取り仕切った。オクセンシェルナは、スウェーデン史上最大の名宰相と言われるほどの人物で、バルト帝国の裏の立役者と言える。この女王の時代にスウェーデンは、デンマークとの戦い(トルシュテンソン戦争)に勝利し、ゴットランドを獲得するなど、バルト海の制海権を得、北方の覇権を確実なものとする。
そしてグスタフ・アドルフが作り上げたバルト海国家を、更に拡げたのがプファルツ家出身の新国王カール10世(在位1654年-1660年)だった。彼は戦い続けた武威の王だった。北方戦争(1655年-1661年)を開始してポーランドに攻め込み、デンマークを屈服させ(氷上侵攻)、スウェーデン南部のスコーネ、ブレーキンゲとノルウェーの一部も奪った。これによって環バルト海の3分の2がスウェーデンに属する事となった。また1660年のオリヴァー条約により、ポーランドからの脅威も終りを告げた。バルト海沿岸国(リヴォニア、エストニア)の支配権を確立し、近隣諸国を圧倒するに至ったのである。また新大陸にも僅かだが植民地(ニュースウェーデン、今日のデラウェア州。後にオランダに奪われる)も得た。この時代がスウェーデン王国の絶頂期とされる。
17世紀はスウェーデン大国時代であった(1611年-1718年)。グスタフ2世アドルフに始り、クリスティーナ女王、王朝は変わったが、カール10世、11世、12世に至る。10世の死後、王国は膨張するのを止め、平和が戻った。1679年にブランデンブルク・プロイセンに、ポンメルンを一時領有されたが、大国の座は維持された。デンマークの復讐戦(スコーネ戦争、1675年-1679年)にも事実上勝利し、名実共に絶対主義は完成した。ただ海軍だけは17世紀半ばをピークに衰えを見せ、デンマーク、プロイセンに対し守勢に立っていた為、スウェーデンは典型的な大陸国家と言えた。
停滞期と斜陽の時代
しかし大国時代にもすでに斜陽の時期が訪れようとしていた。ブランデンブルク選帝侯とプロイセン公を同君連合とするブランデンブルク-プロイセンである。プロイセン地方の小領主に過ぎなかったこの国が、フリードリヒ・ヴィルヘルムと言う大選帝侯によってバルト帝国のくびきを自力で脱したのである。
プロイセン及びブランデンブルクは、一時期スウェーデンの宗主下におかれていたが、北方戦争の後、事実上、自立を果たす事となった。この大選帝侯によって、三十年戦争以来のドイツの領土を失ったのである。唯一残されたポンメルン(現在のメクレンブルク=フォアポンメルン州)も19世紀にプロイセン王国に引き渡される事になる。
さらにスウェーデン海軍は、プファルツ朝の下では、ほとんど更新されず、これもバルト帝国の致命的な弱点ともなった(このおかげで新大陸の植民地を失った他、バルト海の制海権を失う事になる)。その上、17世紀後半に即位したロシア帝国ツァーリ・ピョートル1世による近代化政策が着々と進み、バルト地方やフィンランドの支配にも軋みが生じ始めるのである。
とは言え、17世紀後半も様々な問題を抱えながらも、帝国は維持される事となった。この時代は単なる停滞期に留まらず、時の王、カール11世の安定した治世も行われており、戦争に明け暮れた前王と異なり、スウェーデン本土は、平和な時代で安定期であったとも言われている。このおかげで次王の時代に本格的な軍事行動を起こせたという評価もある。
バルト帝国の瓦解
しかし膨張し過ぎたツケは、10世の孫に巡り巡って帰ってくることになった。近隣諸国を敵に回し、恨みを買われてしまったのである。ロシア、デンマーク、ポーランドの三国は後に一致団結してスウェーデンの大国主義に対抗しだした。それはやがて大北方戦争(1700年-1721年)として現実のものとなる。スウェーデン・バルト帝国時代は終焉を告げ、ロシア帝国にその座を奪われる事となる。
北ヨーロッパ及びバルト海の覇者を巡る大戦で、スウェーデンはその戦争の初期に反スウェーデン勢力を圧倒したにもかかわらず、その力を過信し、ただ一度の敗戦でスウェーデンは全てを失う。特にバルト地方は全てロシアに帰した。しかもバルト海の制海権も失い、国力は衰微する。絶対主義の崩壊である。そして1718年のカール12世の死により、スウェーデンは、大国の座もバルト帝国の座も失った。
ただフィンランドだけが残されたが、失政の為にフィンランド人の反感を買い、この地すらロシアの脅威に曝されるのである。そして、大北方戦争終結後に締結されたニスタット条約は、スウェーデンに置ける「死亡診断書」となった。
※最も最近の評価では、カール12世の統治時代のスウェーデンは、国力を維持し続け、彼の生存中は、ロシアとの長期に渡る戦争にも耐え切れたとも言われている。つまりカール12世の死こそが、スウェーデンの衰退に繋がったとも言える。現実にカール12世の死には、暗殺説が唱えられ、21世紀に入った現在においても、戦死か暗殺かの決着は着いていない。
帝国の残光
その後のスウェーデンは国王ではなく、貴族、宰相によって国政を牛耳られ、ヨーロッパの中の小国へと転落した(自由の時代)。
しかし北方の強国はこのまま黙って没落を受け入れていた訳ではなかった。18世紀後半にホルシュタイン・ゴットルプ朝2代目のグスタフ3世アドルフはスウェーデンを復興させ、過去のバルト帝国の再興を目指した。しかし既にロシア帝国がバルト海の覇者であり、この超大国と一戦を交える事は国家の命運を賭す大博打でもあった為、スウェーデンの貴族は戦争に反対した。しかし、完全な勝利こそ得られなかったが、超大国ロシアの鼻を明かし、再びヨーロッパの一大強国としてスウェーデンは甦えることに成功した(ロシア・スウェーデン戦争)。
だが突然のグスタフ3世の暗殺(1792年)により大国再興への道は挫折した。そして1809年に残された自領フィンランドもロシアに奪われ、バルト帝国再興の夢は完全に潰え去った。その後スウェーデンは保守化し、スカンディナヴィアの一体化を目指す様になった。
関連項目
外部リンク
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