「八百屋お七」の版間の差分

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[[File:Tukiokayositosi-YaoyaOsichi.png|thumb|280px|[[月岡芳年]] 松竹梅湯嶋掛額(八百屋お七)]]
'''八百屋お七'''(やおやおしち、<!--{{jdate}}は不要-->[[寛文]]8年([[16<!--{{和暦}}や{{jdate}}は不要-->68年]])<!--{{jdate}}は不要-->? -旧暦 [[天和 (日本)|天和]]3年[[3月28日 (旧暦)|3月28日]]<!--{{jdate}}は不要-->(西暦[[168<!--{{和暦}}や{{jdate}}は不要-->3年]][[4月24日]])生年、命日に関して諸説ある)は、[[江戸時代]]前期、[[江戸]][[本郷 (文京区)|本郷]]の[[八百屋]]の娘。
恋人に会いたい一心で放火未遂事件を起こし火あぶりにされたとされ[[井原西鶴]]の[[好色五人女]]に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など多岐にわたる分野でさまざまに趣向がこらされた作品の主人公になっている。尚、これより本稿では日付表記は各原典に合わせて断らない限り原則旧暦表記としている。
== 概要 ==
[[Image:Yaoya_Oshichi_by_Utagawa_Kuniteru_1867.jpg|thumb|240px|八百屋お七。歌川国輝画(1867)]]
[[Image:Yaoya_Oshichi_by_Utagawa_Kuniteru_1867.jpg|thumb|240px|八百屋お七。歌川国輝画(1867)]]
お七の生涯については伝記・作品によって諸説あるが、比較的信憑性が高いとされる『天和笑委集』によるとお七の家は[[天和 (日本)|天和]]2年<!--{{和暦}}や{{jdate}}は不要-->12月28日(新暦16<!--{{和暦}}や{{jdate}}は不要-->83年1月25日)の大火([[天和の大火]])で焼け出され、お七は[[正仙院]]に親と共に避難した。寺での避難生活の中でお七は、寺の小姓'''生田庄之介'''<ref group="注">天和笑委集の写本である新燕石十種では生田庄之介である。庄之助ではない。</ref>と恋仲になる。やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払ったが、お七の庄之介への想いは募るばかり。そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、庄之介に会いたい一心で自宅に放火した。火はすぐに消し止められぼやにとどまったが、お七は放火の罪で捕縛されて、[[鈴ヶ森刑場]]で[[火あぶり]]に処された。


お七の恋人の名は井原西鶴の好色五人女や西鶴を参考にした作品では'''吉三郎'''とするものが多く、そのほかには山田左兵衛、落語などでは吉三(きっさ、きちざ)などさまざまである。
'''八百屋お七'''(やおやおしち、[[寛文]]8年([[1668年]])? - [[天和 (日本)|天和]]3年[[3月29日 (旧暦)|3月29日]]([[1683年]][[4月25日]]))は、[[江戸時代]]前期、[[江戸]][[本郷 (文京区)|本郷]]の[[八百屋]]太郎兵衛の娘。


お七の処刑(天和3<!--{{和暦}}や{{jdate}}は不要-->年1683<!--{{和暦}}や{{jdate}}は不要-->年)<!--{{jdate}}は不要-->のわずか数年後には実録体小説である『天和笑委集』が出され、相前後して3年後の貞<!--{{和暦}}や{{jdate}}は不要-->享3年(1686年)<!--{{jdate}}は不要-->には井原西鶴が[[好色五人女]]で八百屋お七の物語を取り上げている。井原西鶴によって広く知られることになったお七の物語はその後、[[浄瑠璃]]や[[歌舞伎]]などの芝居の題材となり、さらに後年、浮世絵、文楽(人形浄瑠璃)、小説、落語や映画、演劇、人形劇、漫画、歌謡曲等さまざまな形で取り上げられている。よく知られているにもかかわらず、お七の史実は不明であり、ほぼ唯一の歴史史料である[[戸田茂睡]]の『御当代記』で語られているのは「お七という名前の娘が放火し処刑されたこと」のみである。それだけに後年の作家はさまざまな想像を働かせている。
幼い恋慕の挙げ句に放火未遂事件を起こしたことで知られる。一途な悲恋として[[井原西鶴]]によって取り上げられ、後に[[浄瑠璃]]など芝居の題材となった。


多数ある八百屋お七の物語では恋人の名や登場人物、寺の名やストーリーなど設定はさまざまであり、すべてに共通しているのは「お七という名の八百屋の娘が恋のために大罪を犯す物語」であり、小説などの「読むお七」、落語などの「語るお七」ではお七は恋人に会いたいために放火をするが、歌舞伎や文楽(人形浄瑠璃)、浮世絵などの「見せるお七」ではお七は放火はせず、代わりに恋人の危機を救うために[[振袖]]姿で[[火の見櫓]]に登り火事の知らせの半鐘もしくは太鼓を打つストーリーに変更される(火事でないのに火の見櫓の半鐘・太鼓を打つことも重罪である)。歌舞伎や文楽では振袖姿のお七が火の見櫓に登る場面はもっとも重要な見せ場となっていて、現代では喜劇仕立ての松竹梅湯嶋掛額/ 松竹梅雪曙以外には櫓の場面だけを1幕物「櫓のお七」にして上演する事が多い。月岡芳年のお七は火付けと櫓の両方を取り入れ美しい場面を演出している。
== 生涯 ==
[[下総国]][[千葉郡]][[萱田]](現・[[千葉県]][[八千代市]])で生まれ、後に江戸の八百屋太郎兵衛の[[養女]]となった。生年については[[1666年]]([[丙午]]の年)とする説があり、それが丙午の迷信を広げる事となった。(後述する、お七が提出した記録によれば、生年は[[1669年]]。<!--丙午の迷信が先(原因)、生年の異説誕生が後(結果)と考えられるが、これは独自研究である。調査よろしく。-->)


==あらすじ==
お七は[[天和 (日本)|天和]]2年12月28日(西暦1683年1月25日)の大火([[天和の大火]])で[[菩提寺|檀那寺]](駒込の[[円乗寺]]、正仙寺とする説もある)に避難した際、そこの寺小姓'''生田庄之助'''(吉三もしくは吉三郎とも、または武士であり'''左兵衛'''とする説もあり)と恋仲となった。翌年、彼女は恋慕の余り、その寺小姓との再会を願って放火未遂を起した罪で捕らえられ、[[鈴ヶ森刑場]]で[[火刑]]に処された。遺体は、お七の実母が哀れに思い、故郷の[[長妙寺]]に埋葬したといわれ、[[過去帳]]にも簡単な記載があるという。
[[File:西鶴「好色五人女」挿絵「お七と吉三郎出会い」の場面.jpg|thumb|250px|井原西鶴「好色五人女」中の挿絵 吉三郎(左)の指に刺さったトゲをお七の母(中央)が抜こうとしている。母は老眼で抜く事が出来ず、お七(右)が代わって吉三郎のトゲを抜く。庭には避難してきたお七の家の家財道具が並べられている。]]
[[File:井原西鶴「好色五人女」挿絵「吉三郎の部屋を訪れるお七」の場面.jpg|thumb|250px|同じく井原西鶴「好色五人女」中の挿絵 吉祥寺で吉三郎の部屋を訪れようとするお七(右)眠る吉三郎の部屋には小坊主がいる 絵柄が王朝文学風であることに注意]]
===井原西鶴『好色五人女』の八百屋お七のあらすじ===
ー副題 「恋草からげし八百屋物語」ー


師走28日の江戸の火事で本郷の八百屋八兵衛の一家は焼けだされ、駒込吉祥寺に避難する。避難生活の中で寺小姓小野川吉三郎の指に刺さったとげを抜いてやったことが縁でお七と吉三郎はお互いを意識するが時節を得ずに時間がたっていく。正月15日、寺の僧達が葬いに出かけて寺の人数が少なくなる。折りしも雷がなり、女たちは恐れるが、寺の人数が少なくなった今夜が吉三郎の部屋に忍び込む機会だと思ったお七は他人に構われたくないゆえに強がりを言い他の女たちに憎まれる。その夜、お七は吉三郎の部屋をこっそり訪れる。訳知りの下女に吉三郎の部屋を教えてもらい、吉三郎の部屋にいた小坊主を物をくれてやるからとなだめすかして、やっとお七は吉三郎と2人きりになる。ふたりは『吉三郎せつなく「わたくしは十六になります」といえば、お七「わたくしも十六になります」といえば、吉三郎かさねて「長老様が怖や」という。「おれも長老様は怖し」という。』という西鶴が「なんとも此恋はじめもどかし」というように十六歳の恋らしい初々しい契りだった。翌朝吉三郎といるところを母に見つかり引き立てられる。八百屋の新宅が完成しお七一家は本郷に帰る。ふたりは会えなくなるが、ある雪の日、吉三郎は松露・土筆売りに変装して八百屋を訪ね、雪の為帰れなくなったと土間に泊まる。折りしも親戚の子の誕生の知らせで両親が出かける。両親が出かけた後でお七は土間で寝ている松露・土筆売りが実は吉三郎だと気が付いて部屋に上げ、存分に語ろうとするが、そこに親が帰宅。吉三郎を自分の部屋に隠し、隣室に寝る両親に気がつかれないようにお七の部屋でふたりは筆談で恋を語る。こののちになかなか会えぬ吉三郎の事を思いつめたお七は家が火事になればまた吉三郎がいる寺にいけると思い火付けをするが近所の人がすぐに気が付き、ぼやで消し止められる。その場にいたお七は問い詰められて自白し捕縛され、市中引き回しの上火あぶりになる。吉三郎はこのとき病の床にありお七の出来事を知らない。お七の死後100日に吉三郎は起きれるようになり、真新しい卒塔婆にお七の名を見つけて悲しみ自害しようとするが、お七の両親や人々に説得されて吉三郎は出家し、お七の霊を供養する<ref name="吉行淳之介">井原西鶴 原著、吉行淳之介 現代語訳『好色五人女』河出書房新社、1979年、pp.66-86</ref>。
その時彼女はまだ16歳(当時は[[数え年]]が使われており、現代で通常使われている満年齢だと14歳)になったばかりであったため[[町奉行]]・[[甲斐庄正親]]は哀れみ、何とか命を助けようとした。当時、15歳以下の者は罪一等を減じられて死刑にはならないと言う規定が存在したため、甲斐庄はこれを適用しようとしたのである。厳格な[[戸籍]]制度が完備されていない当時は、役所が行う[[町人]]に対する年齢の確認は本人の申告で十分であった。


===『天和笑委集』による八百屋お七のあらすじ===
[[Image:Grave of Yaoya Oshichi.jpg|200px|thumb|八百屋お七の墓 (東京都文京区・円乗寺)]]
江戸は本郷森川宿<ref group="注">現在の文京区本郷6丁目</ref>の八百屋市左衛門の子は男子2人女子1人。娘お七は小さい頃から勉強が出来、色白の美人である。両親は身分の高い男と結婚させる事を望んでいた。天和2年師走28日(新暦[[1683年]][[1月25日]])の火事で八百屋市左衛門は家を失い正仙院に避難する。正仙院には生田庄之介という17歳の美少年がいた。庄之介はお七をみて心引かれお七の家の下女のゆきに文を託してそれからふたりは手紙のやり取りをする。やがてゆきの仲人によって、正月10日人々が寝静まった頃に、お七が待つ部屋にゆきが庄之介を案内する。ゆきは2人を引き合わせ2人を同衾させて引き下がり、翌朝、ゆきはまだ早い時間に寝むる両親の部屋にお七をこっそり帰したのでこの密会は誰にも知られる事はなかった。その後も2人は密会を重ねるがやがて正月中旬新宅が出来てお七一家は森川宿に帰ることになった。お七は庄之介との別れを惜しむが25日ついに森川宿に帰る。帰ったあともゆきを介して手紙のやり取りをし、あるとき庄之介が忍んでくることもあったが、日がたつにつれお七の思いは強くなるばかり。思い悩んでお七は病の床に就く。3月2日夜風が吹く日にお七は古綿や反故をわらで包んで持ち出し、商家の軒の板間の空いたところに炭火とともに入れて放火に及ぶが近所の人が気が付きすぐに火を消す。お七は放火に使った綿・反故を手に持ったままだったのでその場で捕まった。奉行所の調べで、若く美しい、悪事などしそうにないこの娘がなぜ放火などしようとしたのか奉行は不思議がり、やさしい言葉使いで「女の身で誰をうらんで、どのようなわけでこのような恐ろしいことをしたのか?正直に白状すれば場合によっては命を助けてもよいぞ」と言うがお七は庄之介に迷惑かけまいと庄之介の名前は一切出さず<ref group="注">お七が庄之介との交際を親にも内緒にしていたのは、身分の高い男との結婚を両親が望んでいたからである。庄之介への配慮と親への孝行で本当のことを言えないお七であった-出典 丹羽みさと「天和笑委集の特徴」『立教大学日本文学』89号、立教大学日本文学会、2003年、pp.90-101。</ref>、「恐ろしい男達が来て、得物<ref group="注">刀や槍、棍棒など武器になる道具</ref>を持って取り囲み、火をつけるように脅迫し、断れば害すると言って打ちつけるので」と答える。奉行が男達の様子を細かく尋ねると要領の得ない話ばかりする。これでは助けることは出来ないとお七は火あぶりとなることになった。お七は3月18日から他の悪人達と共に晒し者にされるが、その衣装は豪華な振袖で鮮やかな化粧と島田に結い上げ蒔絵のついた玳瑁の櫛で押えた髪<ref group="注">天和笑委集では「肌には羽二重の白小袖、甲州郡内の碁盤縞、浅黄の糸にて縫いたる定紋の三つ柏五ッ所に桃色の裏付けて一尺五寸の大振袖上に重ね、横幅広き紫帯二重にきりきりと引き回し後ろにて結び留め、襟際少し押し広げ、たけなる黒髪島田に結い上げ、銀覆輪に蒔絵書いたる玳瑁(タイマイ)の櫛にて前髪押さえ、紅粉を以って表(顔)をいろどる」と記述している。</ref>で、これは多くの人目に恥ずかしくないようにせめてもと下女と乳母が牢屋に通って整えたのだと言う。お七および一緒に死罪になる6人は3月28日やせ馬に乗せられて前後左右を役人達に取り囲まれて鈴が森に引き立てられ、大勢の見物人が見守る中で処刑される。大人の4人の最後は見苦しかったが、お七と少年喜三郎はおとなしく処刑されている。お七の家族は縁者を頼って甲州に行きそこで農民となり、2人の仲が知れ渡る事になった生田庄之介は4月13日夜にまぎれて旅に出て、終いには高野山の僧になっている<ref name="天和笑委集">天和笑委集『新燕石十種』第七巻、中央公論社、1982年、pp.191-223</ref>。
甲斐庄は[[評定]]の場において「お七、お前の歳は十五であろう」と謎を掛けた。それに対し彼女は正直に16歳であると答えた。甲斐庄は彼女が自分の意図を理解出来てないのではと考え、「'''いや、十五にちがいなかろう'''」と重ねて問いただした。ところが彼女は再度正直に年齢を述べ、かつ証拠としてお宮参りの記録を提出することまでした。これではもはや甲斐庄は定法どおりの判決を下さざるを得なかった<ref>年齢については異説がある。覗きからくりの歌の中では「十四と云えば助かるに 十五というたひと言で 百日百夜は牢住まい」と歌われる。</ref>。


== 八百屋お七を題材にした作品 ==
===馬場文耕『近世江都著聞集』の八百屋お七のあらすじ===
元は加賀前田家の足軽だった八百屋太郎兵衛の娘お七は類の無い美人であった。天和元年丸山本妙寺から出火した火事で八百屋太郎兵衛一家も焼け出され小石川円乗寺<ref group="注">現在の住所表示では文京区白山1丁目である</ref>に避難する。円乗寺には継母との間柄が悪く実家にいられない旗本の次男で美男の山田左兵衛が滞在していた。お七と山田左兵衛は互いが気になり、人目を忍びつつも深い仲になっていた。焼け跡に新宅が建ち一家は寺を引き払うが、八百屋に出入りしていたあぶれ者で素性の悪い吉三郎というものがお七の気持ちに気が付いて、自分が博打に使う金銀を要求する代わりに二人の間の手紙の仲立ちをしていた。やがて吉三郎に渡す金銀に尽きたお七に対して吉三郎は「また火事で家が焼ければ左兵衛のもとに行けるぞ」とそそのかす(吉三郎はお七に火事をおこさせて自分は火事場泥棒をする気でいる)お七は火事が起きないかと願うが火事は起こらず、ついに自ら放火する気になったお七に吉三郎は「焼けるのが自分の家だけなら罪にならん、恋の悪事は仏も許すだろう」と言い放火の仕方を教える。風の強い日にお七は自分の家に火をつけ、八百屋太郎兵衛夫妻は驚きお七を連れて逃げ出す。吉三郎はこの隙にと泥棒を働くが、駆けつけてきた火付盗賊改役の[[中山直房|中山勘解由]]に捕縛された。拷問された吉三郎は火を付けたのは自分では無く八百屋太郎兵衛の娘お七だという。中山勘解由がお七を召しだして尋ねるとたしかに自分が火をつけたと自白するので牢に入れ、火あぶりにしようと老中に伺いをたてる。そのときに幕府の賢人土井大炊頭利勝<ref group="注">史実では天和元年の数十年前に亡くなっている人物</ref>が「悲しきかな。罪人が多いのは政治が悪いからだとも言う。放火は大罪で火あぶりにするべきだが、か弱い娘がこのような事をする国だと朝鮮・明国に知れると日本は恐ろしい国だと笑われるだろう。」といい中山に「もう一度調べよ、遠島などにはできないか?」と命ずる。15歳以下ならば罪を一段引き下げる事が出来るので、中山はお七が14歳だということにして牢を出し部下に預ける。しかし、このことを聞いた吉三郎は自分だけが刑されるのをねたみ、中山を糾弾する。中山は怒り口論するが、吉三郎は谷中感応寺の額にお七が16歳の証拠があると言い、実際に感応寺の額を取り寄せたら吉三郎の言うとおりだったので中山も仕方なく天和2年2月<ref group="注">近世江都著聞集以外の八百屋お七物語では処刑は天和3年3月である。近世江都著聞集だけ、他の作品群とは年月が異なる。</ref>吉三郎と一緒にお七を火あぶりにする<ref name="文耕">馬場文耕「近世江都著聞集」収録『燕石十種』第5巻、中央公論社、1980年、pp.10-18</ref>。
=== お七の作品化 ===
お七処刑から3年後の[[貞享]]3年(1686年)、[[井原西鶴]]がこの事件を『[[好色五人女]]』の巻四に取り上げたことで、お七は有名となった。以後、[[浄瑠璃]]・[[歌舞伎]]の題材として度々脚色された。


===『櫓のお七』のあらすじ===
お七を題材とする作品には、[[紀海音]]の『八百屋お七』、[[菅専助]]らの『伊達娘恋緋鹿子』、[[為永太郎兵衛]]らの『潤色江戸紫』、[[鶴屋南北 (4代目)|四代目鶴屋南北]]の『敵討櫓太鼓』、[[河竹黙阿弥|二代目河竹新七(黙阿弥)]]の『松竹梅雪曙』などがある。芝居では寺小姓と再会するため、[[火の見櫓]]の太鼓を叩こうとする姿が劇的に演じられる場面が著名である。「櫓の場」といわれる。寛政年間にこのお七の役で知られた[[岩井半四郎 (4代目)|四代目岩井半四郎]]が、お七の墓を小石川の[[円乗寺]]に建立した。<!--『新撰東京名所図会』によると円乗寺そばの「指ヶ谷町より東に向かい駒込の方にる坂」、浄心寺坂が、別名「於七坂」とも呼ばれている。--><!--場違い-->
[[File:歌川豊国 櫓のお七2.png|thumb|240px|歌川豊国 櫓のお七]]
(場面の前提。八百屋お七は火事で焼け出されて避難した寺で吉三郎と恋仲になる。やがて家が再建され寺を出るが、吉三郎は主君の宝刀を紛失したことで切腹となることになり、それを聞いたお七は嘆き悲しむ。その宝刀を下女お杉の協力で武兵衛から取り戻す、あるいは自ら取り戻さないまでも宝刀のありかを知ったお七は吉三郎のもとに行きたいが、夜間の事ゆえ町の木戸は固く閉まっている。今夜の内に宝刀を取り戻さないと吉三郎の命は救えない。)


お杉とお七は町の木戸を開けてくれるよう番人に頼むが、夜は火事のとき以外は開けられないと固く断られる。目の前に火の見櫓はあるが、火事でもないのに火事の知らせの太鼓(あるいは半鐘)を打つのは重罪であるとお杉は恐れる。やがてお杉は主人に呼ばれる。一人になったお七は決心し櫓に登って太鼓を打つ。太鼓を聞いて木戸が開く。木戸を通ってお七は吉三郎のもとに走っていく<ref name="水落">水落 潔 著『歌舞伎鑑賞辞典』東京堂、1993年、p.195</ref><ref name="目代">目代 清 著『近世歌舞伎舞踊作品-恋多き娘達』邦楽と舞踊社、2003年、pp.62-71</ref>。
=== お七の伝説 ===
「八百屋お七」を題材とするさまざまな創作が展開されるのに伴い、多くの異説や伝説もあらわれるようになった。


==史料、伝記==
お七の[[幽霊]]が、[[ニワトリ|鶏]]の体に少女の頭を持った姿で現れ、菩提を弔うよう請うたという伝説もある。[[大田蜀山人]]が「一話一言」に書き留めたこの伝説をもとに、[[岡本綺堂]]が「夢のお七」という小説を著している<ref>岡本綺堂[http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/45493_23371.html 「夢のお七」]、[[青空文庫]]</ref>。
===御当代記===
戸田茂睡(1629-1706)によって書かれた政治・社会記録。延宝8年(1680年)-元禄15年(1702年)までの記録で信憑性の高い史料とされている<ref>吉川弘文館『国史大辞典』5巻、p.915</ref>。お七に関しては「駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分よりさらされし也」と記録されている<ref name="矢野"/>。
===武江年表===
武江年表は正編が嘉永3年(1850年)、続編が明治15年(1882年)に出版された江戸幕府三百年の歴史を編年体で綴った年表。武功年表では「天和三年(1683年)三月二十九日駒込片町八百屋九兵衛の娘お七火刑 墳墓は駒込円乗寺」とある<ref name="加瀬">加瀬 順一 著『振袖火事と八百屋お七と水戸様火事の江戸雑学』2006年、p.68-76</ref>
===天和笑委集===
天和笑委集は貞享年間に成立した実録体の小説で、作者は不明<ref name="高橋p64">高橋圭一「八百屋お七とお奉行様」『江戸文学』29号、ペリカン社、2003年、p.64</ref>。西鶴と並んでお七の物語としては最初期、お七の処刑後数年以内に成立し、古来より実説(実話)とされてきた。しかし、現代では比較的信憑性は高いものの[[巷説]]を含むものとされている<ref name="浮世絵芸術162号p6">国際浮世絵学会『浮世絵芸術』162号、2011年、p.6</ref>。13章からなり、1-9章はこの時代の火災の記録、10-13章は放火犯の記録となっており、お七の物語は11-13章で語られ全体の1/5を占めている。1-9章で書かれた火災の記録は史実と照らし合わせると極めて信憑性が高く、またお七とは別の放火犯である赤坂田町の商家に住む「春」という少女が放火の罪で火あぶりになった10章の記述が、江戸幕府の記録である『御仕置裁許帳』に記された史実と一部に違いはあるもののほぼ同じであることから人物の記述についても信憑性が高いものとされてきた<ref name="丹羽、特徴">丹羽みさと「天和笑委集の特徴」『立教大学日本文学』89号、立教大学日本文学会、2002年、pp.90-101</ref>。しかし現在では天和笑委集は当時の記録に当たって詳細に作られているが、お七の記録に関してだけは著しい誇張や潤色(脚色)が入っているとされている。例えば天和笑委集では火あぶりの前に江戸市中でさらし者にされるお七は華麗な振袖を着ていることにしているが、放火という大罪を犯して火あぶりになる罪人に華麗な振袖を着せることが許されるはずもないと専門家に指摘されている<ref name="矢野">矢野公和「八百屋お七は実在したのか」『西鶴と浮世草子』Vol.4、笠間書院、2010年、pp.200-213</ref>。
===近世江都著聞集===
近世江都著聞集は講釈師[[馬場文耕]]がお七の死の74年後の宝暦7年 (1757年)に書いたお七の伝記で、古来、天和笑委集と並んで実説(実話)とされてきた<ref name="高橋"/>。近世江都著聞集の序文に「お七を裁いた奉行中山勘解由の日記をその部下から私は見せてもらって本にしたのだ」とあり、自分以外の八百屋お七物語は旗本の山田家の身分に憚って、悪党の吉三郎の名をお七の恋人の名にすりかえたのだと言う<ref name="文耕"/>。しかし、後年の研究で文耕の近世江都著聞集にはほとんど信憑性がない事が立証されている<ref name="矢野"/>。しかし、近年に至るまで多くの作品が文耕を参考にしており、天和笑委集よりも重んじられてきた<ref name="竹野"/>。その影響力は現代に残る丙午の迷信にまで及んでいる-[[#お七の現代への影響力]]参照。


==お七は実在人物か?==
「八百屋お七」のモデルとして、[[大和国]]高田本郷(現在の[[大和高田市]]本郷町)のお七(志ち)を挙げる説もある。高田本郷のお七の墓と彼女の遺品の数珠は[[常光寺 (大和高田市)|常光寺]]に現存する。地元では、西鶴が高田本郷のお七をモデルに、舞台を江戸に置き換えて「八百屋お七」の物語を記したと伝えている<ref>[http://www.city.yamatotakada.nara.jp/jinkenmap/jinken_ma_07_jyoukou.htm 常光寺]、[[大和高田市]]公式サイト内</ref>。
[[File:豊国八百屋お七.png|thumb|240px|歌川豊国 八百屋お七 丸に封じ文の紋、麻の葉段鹿の子柄の振袖で典型的な八百屋お七の衣装である。]]
お七の存在には疑問を投げかける専門家もいる。古来よりお七の実説として天和笑委集や馬場文耕の近世江戸著聞集があげられていたが、たとえば東京女子大学教授で日本近世文学が専門の矢野公和は論文のなか天和笑委集や馬場文耕の近世江戸著聞集を詳しく検討し、これらが誇張や脚色に満ち溢れたものである事を立証している。この時代の江戸幕府の処罰の記録『御仕置裁許張』にはお七の名を見つけることができない。当時の資料でも、信頼に値する史料では戸田茂睡の『御当代記』にわずかに「駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分よりさらされし也」とあるだけでその記述は後から書き加えられたものであり恐らくはあいまいな記憶で書かれたものであろうと矢野は推定している。お七の年齢も放火の動機も処刑の様子も知る事ができない<ref name="矢野"/>。しかし大谷女子大学教授で日本近世文学が専門の高橋圭一は『御当代記』は後から書き入れられた注釈を含め戸田茂睡自身の筆で書かれ、少なくとも天和3年お七という女性が江戸の町で放火したということだけは疑わなくてよいとしている。お七処刑のわずか数年後、事件の当事者が生きているときに作者不明なれど江戸で発行された天和笑委集と大阪の西鶴が書いた好色五人女に違いはあれどお七の恋ゆえの放火という点で一致しているのは偶然ではないとしている<ref name="高橋">高橋圭一「八百屋お七とお奉行様」『江戸文学』29号、ペリカン社、2003年</ref>。お七に関する資料の信憑性に懐疑的な江戸災害史研究家の黒木喬も好色五人女がお七の処刑からわずか3年後に出版されている事から少なくともお七のモデルになった女性はいるのだろうとしている。もしもお七のことがまったくの絵空事だったら、事件が実在しないことを知っている人が多くいるはずのお七の事件からわずか3年後の貞享3年(執筆は貞享2年)にあれほど同情を集めるはずが無いとしている<ref>黒木 喬 著『お七火事の謎を解く』教育出版、2001年、pp.153-154</ref>


=== 第二次世界大戦後の作品 ===
==作品==
===浄瑠璃===
1979年、[[青二プロダクション|青二プロ]]設立10周年イベント「VOICE VOICE VOICE」において、青二プロの[[声優]]たちによる朗読劇「お七炎上」が行われた。総監督は[[柴田秀勝]]。お七役は[[増山江威子]]、吉三郎は[[富山敬]]が演じた。この模様を収録したLPが[[日本コロムビア]]から発売されていた。
====紀海音 八百屋お七恋緋桜====
[[浄瑠璃]]でもお七物の作品は多数あるが、お七が処刑されてからほぼ20年後の宝<!--和暦テンプレートは不要-->永元年(17<!--和暦テンプレートは不要-->04年)に紀海音が『八百屋お七歌祭文』を上演しているが<ref name="利根川pp.179-181">利根川 裕『歌舞伎ヒロインの誕生』右文書院、2007年、pp.179-181</ref>、もっとも影響が強かったのが正徳五年(17<!--和暦テンプレートは不要-->15年)から享保初年(1716年)ごろに成立した[[紀海音]]の『八百やお七』(『八百屋お七恋緋桜』)である<ref name="竹野13">竹野 静男「西鶴-海音の遺産 八百屋お七物の展開」『日本文学』Vol.32、日本文学協会編集、1983年、p.13</ref>。
紀海音の浄瑠璃は西鶴の好色五人女を下地にしながらも大胆に変え、より悲劇性を強くしている。
海音のお七では吉三郎は千石の旗本の息子、親からは出家するように遺言され、親の忠実な家来の十内が遺言を守らせにくる。またお七にも町人武兵衛が恋心を抱いている。
火事の避難先の吉祥寺で出会ったお七と吉三郎の恋は武兵衛と十内の邪魔によって打ちひしがれ、再建した八百屋の普請代二百両をお七の親に貸し付けた武兵衛がそれの代わりにお七を嫁に要求し、家と親への義理の為お七は吉三郎に会えなくなる。西鶴が用意した吉三郎の八百屋への忍び込みを海音も用意はするが海音作では下女のお杉の手引きで軒下に身を隠す吉三郎は武兵衛との結婚をすすめる母親の話を聞いてしまいお七に会わないまま立ち去ってしまう。お杉の話で吉三郎とすれ違ってしまったことを知ったお七は吉三郎に立てた操を破らなければならない定めに絶望し火をつけてしまう。お七の処刑の日、両親は悲嘆にくれ、西鶴では出家する吉三郎を海音はお七の処刑の直前にお七の刑場で切腹・自殺させてしまう<ref name="横山・浄瑠璃集">日本古典文学全集『浄瑠璃集』横山正 校注・訳。小学館、1971年、pp.21-23,191</ref>。この紀海音が考案した二人、主人に忠実で生真面目な侍ゆえに吉三郎の行動に枠をはめたがる十内と、お七に恋心を抱く金持ちの町人武兵衛の2人はその後の浄瑠璃、歌舞伎でも二人の恋の障害になる人物となり、現代に上演されることが多い歌舞伎・[[#松竹梅湯島掛額|松竹梅湯島掛額]]でもその設定は変わらない。また西鶴や天和笑委集では高くは無かった恋人の身分を海音は引き上げて良家の子としたが、その設定も現代の歌舞伎に継続されている<ref name="歌舞伎座さよなら公演 歌舞伎座さよなら公演16か月全記録. 第5巻"> 歌舞伎座DVD book『歌舞伎座さよなら公演 歌舞伎座さよなら公演16か月全記録. 第5巻 九月大歌舞伎・芸術祭十月大歌舞伎』小学館、2011年、付属解説書 pp.60-64およびDVD DISC 6</ref>。


====伊達娘恋緋鹿子====
浄瑠璃では紀海音以降、これに手を加えた作品が続出するが、安永2年(1773)菅専吉らの合作で『伊達娘恋緋鹿子』が書かれる。『伊達娘恋緋鹿子』ではお七は放火はせずに、代わりに火の見櫓に登って半鐘を打つ。この菅専吉らの新機軸を歌舞伎でも取り入れて現代では文楽や歌舞伎では火の見櫓に登るお七が定番となる。<ref>大曾根章助 他 編集『研究資料日本古典文学第10巻 劇文学』明治書院、1983年、p.288</ref>


(あらすじ)八百屋久兵衛の娘お七は避難先の寺で吉三郎と恋仲になる。分かれた後も恋心は募るばかりだが、吉三郎の主人の左門の助は天国の剣を無くしたことで明日に切腹となる。吉三郎は主人が切腹したらただちに殉死しなければならない。恋人の危急を知ったお七は天国の剣があれば吉三郎の命を救えると知る。たまたま八百屋の奥に来ていた釜屋武兵衛が天国の剣を持っていたので、下女のお杉と下男の弥作が盗み出す。しかしすでに夜間になり町の木戸は閉まっている。今夜のうちに吉三郎のもとに剣を届けなければ吉三郎は切腹してしまう。今夜のうちに届けるには夜間は固く閉ざされた町の木戸を開かせなければならないが、夜間に木戸が開くのは火事のときだけ。目の前に火の見櫓はあるが火の見櫓の半鐘を偽りで打つと死罪になる。しかし、吉三郎が死んだら自分だけが生きていても仕方ないとお七は火の見櫓に登って半鐘を打つ。火の見櫓の下では天国の剣を取り返そうとする武兵衛とお杉たちが争っている。<ref name="渡辺保">渡辺 保 編集『カブキ101物語』新書館、2004年、pp.206-207</ref>
2011年、日本の[[メタル]]バンド[[LIGHT BRINGER]]が、お七を題材にした楽曲[[Burned 07]]を発表、シングルCDとして発売した。作詞はボーカルの[[Fuki]]。


== 関連項目 ==
===歌舞伎===
[[File:松竹梅雪曙火の見櫓の段.png|thumb|180px|歌川豊国 松竹梅雪曙火の見櫓の段 櫓の上にお七 下ではお杉と釜屋武兵衛が宝刀をめぐって争っている]]
* [[江戸の火事]]
[[File:歌川豊国 櫓のお七人形振り.png|thumb|180px|歌川豊国 櫓のお七人形振りの場面]]
* [[3月29日]] - この日は「八百屋お七の日」となっている<ref>2008年4月号「[[3040]]」</ref>
====八百屋お七恋緋桜====
* [[大円寺 (目黒区)]] - 「吉三」がのちに出家し、明王院の僧となったとする由来を伝える。明王院はのちに大円寺と合併。
歌舞伎では宝永3年(1706年)に紀海音を改作した『八百屋お七歌祭文』が上演されている<ref name="利根川pp.179-181"/>。この作品の時点1706年では櫓に登るお七は着想されていない。 
* [[BU・SU]] - 主人公が文化祭の舞台で八百屋お七を舞う場面がある。

====松竹梅雪曙====
前述したようにれ、浄瑠璃の菅専吉らの新機軸「火の見櫓に登るお七」を歌舞伎でも取り入れて『其往昔恋江戸染』が上演されるが<ref name="利根川pp.179-181"/>、さらに作家黙阿弥が安政3年(1856年)『伊達娘恋緋鹿子』の火の見櫓の場面を舞踊劇にした歌舞伎『松竹梅雪曙』を書き、これが現代でも上演されている『櫓のお七』の外題である<ref name="水落"/>。この松竹梅雪曙に四代目市川小団次が人形振りを取り入れた<ref name="渡辺">渡辺保編『カブキハンドブック』新書館、1998年、p.53</ref>。現代演じられている松竹梅雪曙のストーリーは後に解説する[[#松竹梅湯島掛額|松竹梅湯島掛額]]とほぼ同じである<ref name="国立劇場松竹梅雪曙">『国立劇場歌舞伎公演上演台本 135巻』国立劇場、1986年</ref><ref name="歌舞伎座さよなら公演 歌舞伎座さよなら公演16か月全記録. 第5巻"> 歌舞伎座DVD book『歌舞伎座さよなら公演 歌舞伎座さよなら公演16か月全記録. 第5巻 九月大歌舞伎・芸術祭十月大歌舞伎』小学館、2011年、付属解説書 pp.60-64およびDVD DISC 6</ref> 。

====櫓のお七====
現代では歌舞伎や文楽では喜劇仕立ての物『松竹梅湯島掛額』や見立て物『三人吉三』以外には八百屋お七が全幕で上演される事は少なく、『伊達娘恋緋鹿子』を黙阿弥が改作した『松竹梅雪曙』の火の見櫓の場面だけを一幕物『櫓のお七』として人形振りの所作仕立てで上演する事が多い<ref name="渡辺"/><ref name="目代">目代 清 著『近世歌舞伎舞踊作品-恋多き娘達』邦楽と舞踊社、2003年、p.85</ref>。
=====人形振り=====
櫓のお七では前半のお七と下女お杉の場面ではお七を演じている役者は普通に人間として演じている。しかし、現代の櫓のお七ではお杉が主人に呼ばれお七が一人になるところから、黒衣が二人もしくは三人出てきて役者の後ろに付き、お七を演ずる役者は人形のような動きで演ずるようになる。黒衣は人形を動かしているかのように振舞う。お七役の役者は人間でありながらあたかも操られている人形のように手や首を動かす。これは様式美を追求し追い詰められたお七の姿を表しているのである。文楽を取り入れたものだが、追い詰められたお七の心を描くには、人形の誇張の動きが適しているからだと言われている。やがて木戸が開きお杉が戻ってくると役者は人間に戻る<ref name="水落"/><ref name="目代"/><ref name="衛星劇場">[http://www.eigeki.co.jp/eigeki/program;jsessionid=78F9C646AC8FA68C25A2CCB900F499C5?action=showProgramDetail&oa_prg_frm_cd=112073114200533060 衛星劇場・伊達娘恋緋鹿子~櫓のお七]20120919閲覧]</ref>。
====松竹梅湯島掛額====
松竹梅湯島掛額は福森久助作「其往昔恋江戸染」の「吉祥院お土砂の場」と、河竹黙阿弥の「松竹梅雪曙」の「火の見櫓の場」を繋ぎ合わせた2幕物で松竹梅湯島掛額の1幕目の「吉祥院お土砂の場」は歌舞伎では珍しいドタバタ喜劇であり、八百屋お七物の全幕物のなかで現代上演される数少ない八百屋お七物である。(松竹梅湯島掛額/
松竹梅雪曙以外には、それの後段だけを上演する1幕もの「櫓のお七」くらいしか現代では歌舞伎で八百屋お七が上演される事は少ない)松竹梅湯島掛額/松竹梅雪曙では「お土砂」が大事な小道具だが、お土砂は真言密教の秘密の加持を施した砂でこれを死体にかけると死体が柔らかくなると言われている。この物語では人間にお土砂をかけるとかけられた人間は体が柔らかくなり力が抜けて「ぐんにゃり」となってしまうことになっている。また、主役がお七と吉三郎ではなく、紅長こと紅屋長兵衛とお七である<ref name="歌舞伎座さよなら公演 歌舞伎座さよなら公演16か月全記録. 第5巻"/>。

(吉祥院お土砂の場のあらすじ)舞台は鎌倉時代の江戸の町。江戸に[[源義仲|木曽義仲]]が攻めてくるともっぱらのうわさで人々はざわついている。駒込・吉祥院は本堂の欄間の[[左甚五郎]]作とされる天女像で有名で天女は美しく、またお七は天女そっくりの美人である。町の娘達の人気者の紅屋長兵衛(紅長・べんちょう)はお七ととても仲のよい紅(化粧品)売りである。吉祥院の寺小姓吉三郎に恋するお七は吉三郎と夫婦になりたいと母に願うが釜屋武兵衛から借金しているお七の家は返済の代わりにお七と武兵衛の縁談を進めていると言われお七は悲しみ、紅長が慰める。そこに吉三郎の家来の十内がやってきて、吉三郎の帰参がかなって国許に帰り家老の娘と結婚するのだと言い、お七はまた悲しむ。母は十内にお七と吉三郎の結婚を願うが身分違いでとんでもないと断られる。そこに吉三郎がやってくるが実は吉三郎は天国の剣を探さなければならない身、吉三郎は十内に女にうつつを抜かしている場合ではないと怒られる。釜屋武兵衛に案内されて[[源範頼]]公の家来長沼六郎がお七を探しにやってくる。
源範頼公がお七の美しさを聞いて愛妾にしたがっているのだという。長沼六郎にお七の居場所を問い詰められた寺の住職は困るが、紅長の発案で欄間の天女像を外してそこにお七を入れる。長沼六郎は欄間の天女像の美しさに感心するが実はそれがお七本人だとは気が付かない。その騒ぎを聞いてきた吉三郎とお七は紅長の入れ知恵で恋仲になる。さて、長沼六郎と釜屋武兵衛はお七を探して寺中を調べるが、お七は死んだと聞かされる。長沼六郎と釜屋武兵衛は疑い、やってきた棺桶の中を調べるが、棺桶から出てきたのは死者に扮した紅長。紅長が釜屋武兵衛を投げ飛ばし、釜屋武兵衛が紅長にかけようとした「お土砂」を奪って逆に釜屋武兵衛にかけると釜屋武兵衛は「ぐんにゃり」となる。紅長は長沼六郎たちにもお土砂をかけてぐんにゃりとさせて、お七を逃がす。調子に乗った紅長は寺中の人々に楽しそうにお土砂をかけてお七以外の登場人物全員をぐんにゃりとさせる。そこにハプニングがおこり洋服の観客が舞台に乱入してくる。観客を引き止めに劇場の女性従業員も舞台に上がる。紅長は観客や女性従業員にもお土砂をかけてぐんにゃりさせる(闖入者の観客や女性従業員は実は役者)。さらに調子に乗った紅長は舞台の裏方や幕を引きに来た幕引きにもお土砂をかけてぐんにゃりさせる。幕引きまでぐんにゃりさせた紅長は楽しそうに自ら幕を引く<ref name="歌舞伎座さよなら公演 歌舞伎座さよなら公演16か月全記録. 第5巻"/>。

2幕目の「火の見櫓の場」のあらすじは上記「[[#『櫓のお七』のあらすじ|『櫓のお七』のあらすじ]]」参照。ただし、文楽(人形浄瑠璃)の半鐘は歌舞伎では太鼓になり、人間が演じる歌舞伎では[[#人形振り|人形振り]]が入る。また演出で瑣末な部分は必ずしも一致しない<ref name="歌舞伎座さよなら公演 歌舞伎座さよなら公演16か月全記録. 第5巻"/>。

====三人吉三廓初買====
歌舞伎『[[三人吉三廓初買]]』、通称『三人吉三』は同じ名を持つ三人の盗賊がおりなす物語。「月も朧に白魚の、篝も霞む春の空。冷てえ風も微酔に心持よくうかうかと、浮かれ烏のただ一羽塒(ねぐら)へ帰る川端で……(中略)こいつぁ春から縁起がいいわえ」と有名な台詞を朗々と唄い上げる女装の盗賊「お嬢吉三」は八百屋お七の[[見立て]](パロディ)である。序幕で「八百屋の娘でお七と申します」と名乗り、大詰では、お嬢吉三が櫓に登って太鼓を打ち、木戸が開いて櫓の前に三人の吉三が集合する。三人吉三は役人に取り囲まれて自らの悪行に観念する。パロディであっても歌舞伎のお七物では振袖姿で櫓に登り太鼓を打つのが「お約束」<ref>田口 章子 著『歌舞伎ギャラリー50』学研、2008年、ISBN 4054034993 、p.145</ref><ref>双葉社ス-パ-ムック『歌舞伎がわかる本』、双葉社、2012年、ISBN 9784575452716、pp.74-75</ref>。

===落語(八百屋お七)===
落語で八百屋お七物にはいくつか有り、名人十代目桂文治などによって知られている噺では、お七は町内でも評判の美人、婿になりたがる男の行列が本郷から上野広小路まで並ぶほどである。火事で店が焼けたためお七は駒込の吉祥寺に預けられ、そこで美男の寺小姓吉三(きっさ)と恋仲になる。家が再建され寺を去るお七は吉三に「あたしゃ、本郷へ行くわいな」とあいさつする。以降の展開は多くのお七物と同じだが、幕府の老中土井大炊頭が可憐な娘を丸焼きにするのを気の毒がる。当時の江戸では火付け犯は15歳を過ぎれば火あぶり、15歳未満は罪を減じて遠島の定めだったため、土井大炊頭はなんとかお七の命を救おうと奉行に命じ「お七、そちは十四であろう」と謎をかけさせる。しかし、お七が正直に「十六でございます」と答えてしまったために火あぶりとなる。死後にお七は幽霊となり人々を悩ます。それを聞きつけて来た武士に因縁つけて逆に手足を切られて1本足になり、こりゃかなわんと逃げるとき武士に一本足でどこに行くかと聞かれて答え「片足ゃ、本郷へ行くわいな」の台詞で締めくくる<ref name="サライ・十代目桂文治">サライ責任編集『十代目桂文治』昭和の名人完結編、小学館、2011年、pp.11-12および付属CD「八百屋お七」</ref>。

別の八百屋お七物は「お七の十」の通称で知られていて、火あぶりになったお七と悲しんで川へ身投げし水死した吉三があの世で出会って抱き合ったらジュウと音がした、火と水でジュウ(七+三で十)というネタがつく噺もある<ref name="保田">日本コロンビア制作CD『NHK 落語名人集(五)「昭和30年3月23日放送 柳亭痴楽 ライブCD」』及び保田 武宏 著付属説明文、日本コロンビア</ref>。

===漫画(ガラスの仮面)===
漫画『ガラスの仮面』では劇中劇で櫓のお七の場が取り上げられる。北島マヤ演じるお七は町に火をつけ櫓に登り、燃え盛る町を見下ろしながら半鐘を打ち鳴らす。燃え盛っているのは家屋ばかりではない。お七の心にもお七自身にはどうにも出来ない恋の炎が燃え盛り、燃える町を見ながらお七の心も燃え尽きる<ref>美内すずえ『ガラスの仮面』第36巻「火のエチュード」、白泉社、1989年</ref>。
==登場人物==
[[File:歌川豊国 吉三郎、お七、お杉.png|thumb|200px|歌川豊国 寺での吉三郎とお七の出会い 右に下女お杉がいる。 吉三郎は菱型の吉の字の紋、お七は丸に封じ文の紋]]
===恋人===
恋人の名は 天和笑委集では生田庄之介<ref name="天和笑委集">天和笑委集『新燕石十種』第七巻、中央公論社、1982年、pp.191-223</ref>好色五人女では小野川吉三郎<ref name="吉行淳之介"/>、近世江戸著聞集では山田左兵衛<ref name="文耕"/>、紀海音では安森吉三郎<ref name="横山・浄瑠璃集">日本古典文学全集『浄瑠璃集』横山正 校注・訳。小学館、1971年、pp.21-23,191</ref>、現代の歌舞伎「櫓のお七」では吉三郎<ref name="水落"/>、松田定次監督の映画『八百屋お七 ふり袖月夜』<ref>[http://eiga.com/movie/71682/ 映画.com・八百屋お七 ふり袖月夜]2012.9.27閲覧</ref>では生田吉三郎とさまざまであるが吉三郎とするものが比較的多い。前述したように文耕は自分以外の八百屋お七物語は旗本の山田家の身分に憚って、悪党の吉三郎の名をお七の恋人の名にすりかえたのだと言う<ref name="文耕"/>が、しかし文耕はほぼ虚構である事が立証されているので<ref name="矢野"/>、恐らくは西鶴と、西鶴を下地にした紀海音、さらに紀海音に影響を受けた歌舞伎などの影響力であろうとされている<ref name="竹野">竹野 静男「西鶴-海音の遺産 八百屋お七物の展開」『日本文学』Vol.32、日本文学協会編集、1983年、pp.10-20</ref>。

恋人の身分は初期の作品ではあまり高くはなく、西鶴では吉三郎は浪人で兄分(同性愛の恋人)がいる<ref group="注">寺は北海道松前に出張中の兄分から吉三郎を預かっている。吉三郎は若衆として兄分を持つ身(同性愛者として恋人をもつ身)でありながら女の情にほだされてしまったと自白する。-谷脇 理史 訳注『好色五人女』角川文庫、2008年、pp.272-275</ref><ref name="谷脇p272-275">谷脇 理史 訳注『好色五人女』角川文庫、2008年、pp.272-275注釈</ref>、天和笑委集でも生田庄之介がそれほど身分が高くないのでお七に高い身分の男との結婚を望んでいる両親にお七は生田庄之介との交際を言い出せない<ref name="丹羽、特徴"/>。しかし、紀海音が吉三郎を1000石の旗本の息子<ref name="竹野p11">竹野 静男「西鶴-海音の遺産 八百屋お七物の展開」『日本文学』vol.32、日本文学協会編集刊行、1983年、pp.10-11</ref>、親の忠実な家来の十内が親の遺言を守らせに来るようにある程度身分の高い武士の子弟と設定してからは<ref name="横山・浄瑠璃集"/>、浄瑠璃や歌舞伎ではある程度身分の高い武士階級にされている。お七が櫓に登るわけは、木戸を開けさせ宝刀を今夜のうちに届けないと吉三郎が切腹するからだが<ref name="目代"/><ref name="渡辺保"/><ref name="衛星劇場"/>、切腹するのは武士階級だけなので吉三郎は武士階級の設定としれる。文耕の近世江都著聞集では吉三郎の親は2500石の旗本である<ref name="文耕"/>。現代の歌舞伎では吉三郎は武家の中でも身分が高い家の子で八百屋の娘とは身分が違いすぎて結婚の対象ではないことにされる<ref name="歌舞伎座さよなら公演 歌舞伎座さよなら公演16か月全記録. 第5巻"/>。

===下女===
八百屋で働く下女の名は天和笑委集では「ゆき」<ref name="天和笑委集"/>、紀海音の浄瑠璃や歌舞伎では「杉」<ref name="横山・浄瑠璃集"/><ref name="水落"/>。八百屋の下女は二人の恋の仲立ちをする役割で<ref name="天和笑委集"/><ref name="横山・浄瑠璃集"/>、櫓のお七の設定では宝刀を武兵衛のもとから取り返してくる役割をはたす<ref name="水落"/>。
===父===
お七の父の名も作品によってさまざまである。天和笑委集では市左衛門<ref name="天和笑委集">天和笑委集『新燕石十種』第七巻、中央公論社、1982年、pp.191-223</ref> 好色五人女では八兵衛<ref name="吉行淳之介"/>近世江戸著聞集では太郎兵衛<ref name="文耕"/>、紀海音では久兵衛<ref name="横山・浄瑠璃集">日本古典文学全集『浄瑠璃集』横山正 校注・訳。小学館、1971年、pp.21-23,191</ref>、落語では久四郎<ref name="保田"/>と作品ではそれぞれが違う。お七の父の名前も素性もうかがい知ることはできないが、江戸災害史研究家の黒木は加賀藩邸(今の東京大学本郷キャンパス)がすぐ近くであったことからお七の家は加賀藩出入りの商人の可能性を指摘している<ref name="黒木130">黒木 喬 著『お七火事の謎を解く』教育出版、2001年、pp.130-132</ref>。

===役人===
====中山勘解由====
[[中山直房|中山勘解由]]<ref group="注">豊臣秀吉による[[小田原攻め]]の際、[[後北条氏]]の重臣であり[[八王子城]]落城のときに戦死を遂げた[[中山家範|中山勘解由家範]]とはまったくの別人</ref>は史実では[[先手組|先手頭]]で天和3年正月23日に[[火付盗賊改方|火付改]]<ref group="注">一般には[[鬼平犯科帳]]の[[長谷川平蔵]]の火付盗賊改方で知られる役職であるが、天和3年の時点では火付改と盗賊改は分離していて、中山勘解由は初の火付改-出典 吉川弘文堂『国史大辞典』11巻p.938</ref>に着任<ref>吉川弘文館『国史大辞典』11巻、p.938</ref>。
西鶴や天和笑委集によるお七の処刑時天和3年3月には、史実としてはこの人物が放火犯の捜査・処罰の責任者であり、しかもかなり厳しく取り調べ、この人物が着任している間は放火の罪で処刑される人数が増加している。[[海老責]]という拷問方法を考案もし、拷問を含む厳しい取調べで恐らくは[[冤罪]]も多かったであろうと推定されている<ref>黒木 喬 著『お七火事の謎を解く』教育出版、2001年、pp.156-157</ref>。

しかし史実とは反対に八百屋お七の物語ではお七の命を何とか救おうとする奉行として登場することが多い人物で、文耕の近世江戸著聞集のなかでもお七の年齢をごまかして助けようとする奉行中山殿の名前が出てくる<ref name="文耕"/>。

狩野文庫『恋蛍夜話』では奉行中山勘解由はお七に「火付けはしてないな?」と聞き、もしもお七が「はい」と答えたら助けるつもりが、お七が正直に「火を付けた」と答えてしまったために仕方なく火あぶりにせざるをえなくなったとしている<ref name="高橋"/>。落語でも[[土井利勝|土井大炊頭]]の意を汲んでお七の年齢をごまかして助けようとする<ref name="サライ・十代目桂文治"/>。ただし、中山勘解由がまだ存命中に書かれた最初期の作品である西鶴の好色五人女では奉行は登場しない<ref name="吉行淳之介"/>、またやはり西鶴とならんで最初期のお七の伝記である天和笑委集ではなんとかお七の命を救ってやりたい奉行が登場するが、天和笑委集でも奉行の個人名は出していない<ref name="天和笑委集"/>。

尚、お七の事件の数年前の延宝8年(1680年) 、『江戸方角安見図』では中山勘解由配下の組屋敷は本郷(今の東京大学本郷キャンパスの農学部と工学部・法学部の通りに面した最西側部分)にあり、お七の家の至近にある<ref name="江戸方角安見図p80-81">朝倉治彦編『江戸方角安見図』東京堂出版、pp.80-81</ref><ref>[http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru11/ru11_01312/ru11_01312_0001/ru11_01312_0001_p0041.jpg 早稲田大学図書館・江戸方角安見図・本郷]2012.9.26閲覧</ref>

====甲斐庄正親====
史実ではお七の事件時天和3年3月、南町奉行を務めている人物<ref>吉川弘文館『国史大辞典』13巻、p.81</ref>。作品によっては八百屋お七物の登場人物として前述の中山勘解由ではなく、甲斐庄正親がお七の裁きの奉行を務めることがある。甲斐庄もやはりお七が正直に放火を自白したのでやむなく火あぶりにする奉行と設定される<ref>笹沢佐保『狂乱春の夜の夢 松尾芭蕉と八百屋お七』光文社文庫、1992年、p.389</ref>。
====土井大炊頭利勝====
史実では家康・秀忠・家光の三代に仕えた武士で、江戸幕府の老中・大老までつとめた[[古河藩]]16万石の大名(1574-1644)<ref>吉川弘文館『国史大辞典』11巻、p.938</ref>。お七の事件の約40年前に亡くなっているので、史実でお七と絡むことはありえないが、馬場文耕や文耕を参考にした物語、落語などでは奉行に命じてお七の年を14歳だとごまかして何とか救おうとする人物となっている<ref name="文耕"/><ref name="サライ・十代目桂文治"/>。

==放火するお七、しないお七==
最初のお七の物語、西鶴や天和笑委集、あるいはそれらを受け継いだ初期のお七物語では「お七は火事で焼け出され、火事が縁で恋仲になり、恋人に会いたい一心で放火をして自身が火あぶりになる」と徹頭徹尾「火」にまつわる燃え盛る恋物語である。しかし、江戸時代中期、[[安政]]2年 ([[1773年]])の浄瑠璃『伊達娘恋緋鹿子』でお七が火の見櫓に登って半鐘を打つようになり、やがて半鐘は歌舞伎では太鼓に代わる事もあったものの、歌舞伎や文楽(人形浄瑠璃)などの見せる作品では、八百屋お七といえば火の見櫓にのぼる場面が大事な見せ場になり、放火などはしなくなる。放火するお七は火事で家が無くなれば、恋人のいる寺に避難するする事が出来るが、放火をせずに櫓に登るお七では、恋人の火急のピンチを救うために、火事以外では夜間は固く閉じられている町木戸を開けさせるために偽りの火事の知らせを叩くのである。当時、木造家屋が密集している江戸は火事が多く幕府も放火には神経を尖らせていた。また、芝居小屋自身も火災に会うことが多かったので放火の演出は避けたかったのだろうと推測されている。しかし、お七と火を完全に切り離す事もできない。そのぎりぎりの接点が火の見櫓であったのだろうと考えられている<ref name="利根川pp.186">利根川 裕『歌舞伎ヒロインの誕生』右文書院、2007年、pp.186</ref>。

==お七の衣装==
[[File:麻の葉文様.png|thumb|60px||left|麻の葉文様 お七の衣装にはこの文様が入ることが多い]]
[[File:麻の葉段文様.png|thumb|120px|麻の葉文様段染め、お七の着物でよく使われる絵柄と色である。実際の着物では模様は直線ではなく鹿子柄やさらに複雑なデザインになる]]
[[宝永]]3年([[1706年]])に八百屋お七を演じた初代嵐喜世三郎が「丸に封じ文」紋をつけた衣装で可愛らしいお七を演じて評判になり以降「丸に封じ文」紋がお七の紋として定着する<ref name="加茂">加茂瑞穂「八百屋お七からお嬢吉三へ衣装デザインの創造について」『アートリサーチ』Vol.11、立命館大学アートリサーチセンター、2011年</ref>。[[文化 (元号)|文化]]6年([[1809年]])其往昔恋江戸染で八百屋お七役の歌舞伎役者の岩井半四郎が麻の葉段鹿子の振袖を着たことから大流行し麻の葉文様は若い娘の代表的な着物柄になり<ref>長崎巌監修、弓岡勝美編集『きものの文様図鑑』平凡社、2005年、p.196</ref><ref name="君野">市川 染五郎 監修、君野倫子 著『歌舞伎のびっくり満喫図鑑』小学館、2010年、pp.6-7</ref>、岩井半四郎以降は歌舞伎や文楽でもお七の櫓の場では麻の葉の段の振袖が定番になっている<ref name="加茂"/><ref name="君野"/>。八百屋お七のパロディでもある三人吉三でも、お嬢吉三の衣装は「封じ文」と似て非なる「結び文」紋と櫓の場での衣装は麻の葉段鹿子染めであり<ref name="加茂"/>、最初に提示した月岡芳年の八百屋お七の絵でも一部に麻の葉の鹿子柄が見える。

平成21年の歌舞伎座公演『松竹梅湯嶋掛軸』の「櫓の場」ではお七と下女お杉二人の前半ではお七の衣装は黄色格子縞の町娘の普段着風の着物、お杉が退場しお七一人の人形振りの場になると着物が[[浅黄色]]と紅色の麻の葉の段鹿子の振袖に変わる<ref name="歌舞伎座さよなら公演 歌舞伎座さよなら公演16か月全記録. 第5巻"/>。

文学では西鶴は避難した先の寺でお七に貸し与えられた振袖を黒羽二重の大振袖、桐と銀杏の比翼紋で紅絹裏の裾を山道形にふさをつけ色めいた小袖の仕立て、焚き込めた香の薫もまだ残っているとしている<ref name="吉行淳之介"/>。

天和笑委集では火あぶりの前に江戸市中でさらし者にされているお七には「肌には羽二重の白小袖、甲州郡内の碁盤縞、浅黄の糸にて縫いたる定紋の三つ柏五ッ所に桃色の裏付けて一尺五寸の大振袖上に重ね、横幅広き紫帯二重にきりきりと引き回し後ろにて結び留め、襟際少し押し広げ、たけなる黒髪島田に結い上げ、銀覆輪に蒔絵書いたる玳瑁(タイマイ)の櫛にて前髪押さえ、紅粉を以って表(顔)をいろどる」と豪華な装いをさせている<ref name="天和笑委集">天和笑委集『新燕石十種』第七巻、中央公論社、1982年、pp.191-223</ref>。

==お七一家が避難した寺==
『天和笑委集』でお七一家が避難したとされる「正仙院」という寺を実在の寺として見つけることはできないが、[[延宝]]8年([[1680年]])の『江戸方角安見図』では本郷森川宿の近くに「正泉院」という寺を見つけることが出来る<ref name="黒木130">黒木 喬 著『お七火事の謎を解く』教育出版、2001年、pp.130-132</ref><ref name="江戸方角安見図p78">朝倉 治彦 編『江戸方角安見図』東京堂出版、p.78右下隅</ref>。江戸災害史研究家の黒木によると正泉院はお七一家が焼け出された天和2年師走28日(新暦1683年1月25日)の火事の火元となった大円寺の裏にある寺だが火元でありながら大円寺自身は大して焼けなかったように正泉院も焼けなかったのだろうとして、黒木はこれが天和笑委集でいう正仙院ではないか?としている<ref name="黒木130"/>。『江戸方角安見図』はインターネットで公開もされているが江戸方角安見図の駒込一の右下隅に「正泉院」が見える<ref>[http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru11/ru11_01312/ru11_01312_0001/ru11_01312_0001_p0040.jpg 早稲田大学図書館・江戸方角安見図・駒込一]右下隅 2012.9.26閲覧 文京区向丘2丁目であり同じ区画内の十方寺は現存する</ref>。

西鶴が二人の恋の場の寺の名を駒込・吉祥寺とし、西鶴の流れを汲む多くの作品でも吉祥寺が避難先の寺とされるが、お七一家が家財道具を持って逃げるには少し遠い(西鶴の好色五人女の挿絵ではタンスなどの家具を持って避難している)。黒木は西鶴が大阪なので大阪でも名の知られている寺を物語の舞台に選んだのだろうとしている<ref name="黒木130"/>。

近世江都著聞集や加藤曳尾庵の『我衣』([[文政]]8年[[1825年]])などでは円乗寺としている<ref name="黒木130"/>。

==お七の墓==
[[Image:Grave of Yaoya Oshichi.jpg|200px|thumb|八百屋お七の墓 (東京都文京区・円乗寺)]]
円乗寺のお七の墓は、元々は天和3年3月29日に亡くなった法名妙栄禅尼の墓である。これがお七の墓とされて、後年に歌舞伎役者の[[岩井半四郎]]がお七の墓として墓石を追加している。
しかし、東京女子大学教授で日本近世文学が専門の矢野公和はこれに疑問を呈している。単なる死罪でも死体は俵に入れて本所回向院の千住の寮に埋めるが、単なる死罪よりも重罪である火刑者が墓を作ることを許されるはずも無いと矢野は指摘している。仮に家族がこっそり弔うにしても、寺に堂々と墓石を立てることはありえない。また、お七の命日を3月29日とする資料は逆に墓碑を根拠としたものであろうとも指摘されている<ref name="矢野"/>。(お七の刑死後数年で発行された天和笑委集ではお七の命日を3月28日としている)

円乗寺の他にも千葉八千代の長妙寺にもお七のゆかりの話しと墓があり<ref>[http://tenjusan.choumyouji.nichiren-shu.jp/link04/link04.htm 境内散歩]20120918閲覧</ref>、また岡山県[[御津|御津町]]にもお七の物とされる墓がある。岡山のお七の墓ではお七の両親が[[美作国]]誕生寺の第十五代通誉上人に位牌と振袖を託し供養を頼んだのだと言う。さらに吉三郎の物とされる墓は、[[大円寺 (目黒区)|目黒大円寺]]や東海道[[島田宿]]、そのほかにも北は岩手から西は島根まで全国各地にある。また、お七と吉三郎を共に祭る比翼塚も目黒大円寺や駒込吉祥寺などにある<ref>渡辺憲司「江戸サブカル紀行」『大衆文化』創刊準備号、立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター、2008年、pp.57-62</ref>。

== お七の伝説 ==
「八百屋お七」を題材とするさまざまな創作が展開されるのに伴い、多くの異説や伝説もあらわれるようになった。

お七の[[幽霊]]が、[[ニワトリ|鶏]]の体に少女の頭を持った姿で現れ、菩提を弔うよう請うたという伝説もある。[[大田蜀山人]]が「一話一言」に書き留めたこの伝説をもとに、[[岡本綺堂]]が『夢のお七』という小説を著している<ref>岡本綺堂[http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/45493_23371.html 「夢のお七」]、[[青空文庫]]</ref>。

後述するようにつじつまが合わないものの大和高田市には「八百屋お七」のモデルとして、[[大和国]]高田本郷(現在の[[大和高田市]]本郷町)のお七(志ち)を挙げる説もある。高田本郷のお七の墓と彼女の遺品の数珠は[[常光寺 (大和高田市)|常光寺]]に現存する。地元では、西鶴が高田本郷のお七をモデルに、舞台を江戸に置き換えて「八百屋お七」の物語を記した可能性があるとしている<ref>[http://www.city.yamatotakada.nara.jp/city/rekishi/densetsu.html 大和高田市HP・伝説民話・八百屋お七]2012.9.23閲覧</ref>。ただし、大和高田市のお七の数珠には[[享保]]10年([[1725年]])とあり、これは井原西鶴の好色五人女が書かれた[[貞享]]3年([[1686年]])の39年後である。また、常光寺の享保年間の過去帳には 死刑囚「しち」という名が見えるともされているが、同じく[[享保]]年間は井原西鶴よりも後の年代である。

==お七の現代への影響力==
干支の[[丙午]](ひのえうま)年の生まれの女性は気性が激しく夫の命を縮めるという迷信は、丙午の年には火災が多いという江戸時代の初期の迷信が、八百屋お七が[[1666年]]の丙午生まれだとされたことから女性の結婚に関する迷信に変化して広まって行ったとされる<ref>[http://doraku.asahi.com/earth/showashi/120118_02.html 朝日新聞・昭和史再訪セレクション・ひのえうま]2012.9.20閲覧</ref><ref>[http://www.tfd.metro.tokyo.jp/libr/qa/qa_35.htm 東京消防庁・消防雑学]2012.9.20閲覧</ref>。この迷信は昭和になってすら強く[[1966年]]の出生率は前年に比べて25%も下がる影響があった<ref>[http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2007/12/pdf/017-028.pdf 慶應大学教授赤林英夫「丙午世代のその後-統計から分かること」]2012.9.20閲覧</ref>。しかし、江戸時代には人の年齢はすべて数え年であったため<ref>[http://tatemonoen.jp/special/past_2007.html 江戸東京たてもの園・2007年初春の雅]2012.9.20閲覧</ref>、もしも八百屋お七が1666年の丙午生まれならば放火し火あぶりにされた天和3年(西暦1683年)には18歳になってしまう。西鶴などの各種の伝記では16歳となっている<ref name="吉行淳之介"/><ref name="サライ・十代目桂文治"/>。紀海音が『八百やお七』でお七を丙午生まれとし、それに影響された為長太郎兵衛らの『潤色江戸紫』がそれを引き継ぎ、また文耕は谷中感応寺にお七が延宝4年(1676年)に掛けた額が11歳としたことが生年を寛文6年(1666年)とする根拠となった。海音は強い影響力を持ち、馬場文耕の『近世江都著聞集』も現代では否定されているものの長く実説(実話)とされてきた物語で有り、数多くの作品が文耕をもとにしていて、お七の丙午年生まれ説はこのあたりから生じている<ref name="竹野p11"/>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
書籍
*井原西鶴 原著、吉行淳之介 現代語訳『好色五人女』河出書房新社、1979年
*天和笑委集『新燕石十種』第七巻、中央公論社、1982年
*市川 染五郎 監修、君野倫子 著『歌舞伎のびっくり満喫図鑑』小学館、2010年、ISBN 978-4-09-310768-6
*大曾根 章助 他 編集『研究資料日本古典文学第10巻 劇文学』明治書院、1983年
*歌舞伎座DVD book『歌舞伎座さよなら公演 歌舞伎座さよなら公演16か月全記録. 第5巻 九月大歌舞伎・芸術祭十月大歌舞伎』小学館、2011年、付属解説書 およびDVD DISC 6
*黒木 喬 著『お七火事の謎を解く』教育出版、2001年、ISBN 4-316-35860-X
*国立劇場 編集『国立劇場歌舞伎公演上演台本 135巻』1986年
*サライ責任編集『十代目桂文治』昭和の名人完結編、小学館、2011年、pp.11-12および付属CD「八百屋お七」
*田口 章子 著『歌舞伎ギャラリー50』学研、2008年、ISBN 4-054-03499-3
*谷脇 理史 訳注『好色五人女』角川文庫、2008年、ISBN 978-4-04-408201-7
*利根川 裕『歌舞伎ヒロインの誕生』右文書院、2007年、ISBN 978-4-8421-0087-6
*長崎 巌監修、弓岡勝美編集『きもの文様図鑑』平凡社、2005年、ISBN 4-582-62039-6
*日本古典文学全集『浄瑠璃集』横山正 校注・訳。小学館、1971年
*馬場文耕「近世江都著聞集」収録『燕石十種』第5巻、中央公論社、1980年
*藤田 洋 編集『文楽ハンドブック』第三版、三省堂、2011年、ISBN 978-4-385-41067-8
*双葉社ス-パ-ムック『歌舞伎がわかる本』、双葉社、2012年、ISBN 978-4-575-45271-6
*美内すずえ『ガラスの仮面』第36巻「火のエチュード」、白泉社、1989年
*水落 潔 著『歌舞伎鑑賞辞典』東京堂、1993年、ISBN 4-490-10352-2
*目代 清 著『近世歌舞伎舞踊作品-恋多き娘達』邦楽と舞踊社、2003年、ISBN 4-938401-03-7
*吉川弘文館『国史大辞典』5巻
*吉川弘文館『国史大辞典』11巻
*吉川弘文館『国史大辞典』13巻
*渡辺保編『カブキハンドブック』新書館、1998年、ISBN 4-403-25035-1
*渡辺 保 編集『カブキ101物語』新書館、2004年、ISBN 978-4-403-25079-8

論文,記事
*加茂 瑞穂「八百屋お七からお嬢吉三へ衣装デザインの創造について」『アートリサーチ』Vol.11、立命館大学アートリサーチセンター、2011年
*国際浮世絵学会『浮世絵芸術』162号、2011年、
*高橋 圭一「八百屋お七とお奉行様」『江戸文学』29号、ペリカン社、2003年、
*丹羽 みさと「天和笑委集の特徴」『立教大学日本文学』89号、立教大学日本文学会、2002年、
*矢野 公和「八百屋お七は実在したのか」『西鶴と浮世草子』Vol.4、笠間書院、2010年、
*竹野 静男「西鶴-海音の遺産 八百屋お七物の展開」『日本文学』Vol.32、日本文学協会編集、1983年
*渡辺憲司「江戸サブカル紀行」『大衆文化』創刊準備号、立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター、2008年



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2012年9月30日 (日) 12:12時点における版

月岡芳年 松竹梅湯嶋掛額(八百屋お七)

八百屋お七(やおやおしち、寛文8年(1668年)? -旧暦 天和3年3月28日(西暦1683年4月24日)生年、命日に関して諸説ある)は、江戸時代前期、江戸本郷八百屋の娘。 恋人に会いたい一心で放火未遂事件を起こし火あぶりにされたとされ井原西鶴好色五人女に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など多岐にわたる分野でさまざまに趣向がこらされた作品の主人公になっている。尚、これより本稿では日付表記は各原典に合わせて断らない限り原則旧暦表記としている。

概要

八百屋お七。歌川国輝画(1867)

お七の生涯については伝記・作品によって諸説あるが、比較的信憑性が高いとされる『天和笑委集』によるとお七の家は天和2年12月28日(新暦1683年1月25日)の大火(天和の大火)で焼け出され、お七は正仙院に親と共に避難した。寺での避難生活の中でお七は、寺の小姓生田庄之介[注 1]と恋仲になる。やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払ったが、お七の庄之介への想いは募るばかり。そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、庄之介に会いたい一心で自宅に放火した。火はすぐに消し止められぼやにとどまったが、お七は放火の罪で捕縛されて、鈴ヶ森刑場火あぶりに処された。

お七の恋人の名は井原西鶴の好色五人女や西鶴を参考にした作品では吉三郎とするものが多く、そのほかには山田左兵衛、落語などでは吉三(きっさ、きちざ)などさまざまである。

お七の処刑(天和3年1683年)のわずか数年後には実録体小説である『天和笑委集』が出され、相前後して3年後の貞享3年(1686年)には井原西鶴が好色五人女で八百屋お七の物語を取り上げている。井原西鶴によって広く知られることになったお七の物語はその後、浄瑠璃歌舞伎などの芝居の題材となり、さらに後年、浮世絵、文楽(人形浄瑠璃)、小説、落語や映画、演劇、人形劇、漫画、歌謡曲等さまざまな形で取り上げられている。よく知られているにもかかわらず、お七の史実は不明であり、ほぼ唯一の歴史史料である戸田茂睡の『御当代記』で語られているのは「お七という名前の娘が放火し処刑されたこと」のみである。それだけに後年の作家はさまざまな想像を働かせている。

多数ある八百屋お七の物語では恋人の名や登場人物、寺の名やストーリーなど設定はさまざまであり、すべてに共通しているのは「お七という名の八百屋の娘が恋のために大罪を犯す物語」であり、小説などの「読むお七」、落語などの「語るお七」ではお七は恋人に会いたいために放火をするが、歌舞伎や文楽(人形浄瑠璃)、浮世絵などの「見せるお七」ではお七は放火はせず、代わりに恋人の危機を救うために振袖姿で火の見櫓に登り火事の知らせの半鐘もしくは太鼓を打つストーリーに変更される(火事でないのに火の見櫓の半鐘・太鼓を打つことも重罪である)。歌舞伎や文楽では振袖姿のお七が火の見櫓に登る場面はもっとも重要な見せ場となっていて、現代では喜劇仕立ての松竹梅湯嶋掛額/ 松竹梅雪曙以外には櫓の場面だけを1幕物「櫓のお七」にして上演する事が多い。月岡芳年のお七は火付けと櫓の両方を取り入れ美しい場面を演出している。

あらすじ

井原西鶴「好色五人女」中の挿絵 吉三郎(左)の指に刺さったトゲをお七の母(中央)が抜こうとしている。母は老眼で抜く事が出来ず、お七(右)が代わって吉三郎のトゲを抜く。庭には避難してきたお七の家の家財道具が並べられている。
同じく井原西鶴「好色五人女」中の挿絵 吉祥寺で吉三郎の部屋を訪れようとするお七(右)眠る吉三郎の部屋には小坊主がいる 絵柄が王朝文学風であることに注意

井原西鶴『好色五人女』の八百屋お七のあらすじ

ー副題 「恋草からげし八百屋物語」ー

師走28日の江戸の火事で本郷の八百屋八兵衛の一家は焼けだされ、駒込吉祥寺に避難する。避難生活の中で寺小姓小野川吉三郎の指に刺さったとげを抜いてやったことが縁でお七と吉三郎はお互いを意識するが時節を得ずに時間がたっていく。正月15日、寺の僧達が葬いに出かけて寺の人数が少なくなる。折りしも雷がなり、女たちは恐れるが、寺の人数が少なくなった今夜が吉三郎の部屋に忍び込む機会だと思ったお七は他人に構われたくないゆえに強がりを言い他の女たちに憎まれる。その夜、お七は吉三郎の部屋をこっそり訪れる。訳知りの下女に吉三郎の部屋を教えてもらい、吉三郎の部屋にいた小坊主を物をくれてやるからとなだめすかして、やっとお七は吉三郎と2人きりになる。ふたりは『吉三郎せつなく「わたくしは十六になります」といえば、お七「わたくしも十六になります」といえば、吉三郎かさねて「長老様が怖や」という。「おれも長老様は怖し」という。』という西鶴が「なんとも此恋はじめもどかし」というように十六歳の恋らしい初々しい契りだった。翌朝吉三郎といるところを母に見つかり引き立てられる。八百屋の新宅が完成しお七一家は本郷に帰る。ふたりは会えなくなるが、ある雪の日、吉三郎は松露・土筆売りに変装して八百屋を訪ね、雪の為帰れなくなったと土間に泊まる。折りしも親戚の子の誕生の知らせで両親が出かける。両親が出かけた後でお七は土間で寝ている松露・土筆売りが実は吉三郎だと気が付いて部屋に上げ、存分に語ろうとするが、そこに親が帰宅。吉三郎を自分の部屋に隠し、隣室に寝る両親に気がつかれないようにお七の部屋でふたりは筆談で恋を語る。こののちになかなか会えぬ吉三郎の事を思いつめたお七は家が火事になればまた吉三郎がいる寺にいけると思い火付けをするが近所の人がすぐに気が付き、ぼやで消し止められる。その場にいたお七は問い詰められて自白し捕縛され、市中引き回しの上火あぶりになる。吉三郎はこのとき病の床にありお七の出来事を知らない。お七の死後100日に吉三郎は起きれるようになり、真新しい卒塔婆にお七の名を見つけて悲しみ自害しようとするが、お七の両親や人々に説得されて吉三郎は出家し、お七の霊を供養する[1]

『天和笑委集』による八百屋お七のあらすじ

江戸は本郷森川宿[注 2]の八百屋市左衛門の子は男子2人女子1人。娘お七は小さい頃から勉強が出来、色白の美人である。両親は身分の高い男と結婚させる事を望んでいた。天和2年師走28日(新暦1683年1月25日)の火事で八百屋市左衛門は家を失い正仙院に避難する。正仙院には生田庄之介という17歳の美少年がいた。庄之介はお七をみて心引かれお七の家の下女のゆきに文を託してそれからふたりは手紙のやり取りをする。やがてゆきの仲人によって、正月10日人々が寝静まった頃に、お七が待つ部屋にゆきが庄之介を案内する。ゆきは2人を引き合わせ2人を同衾させて引き下がり、翌朝、ゆきはまだ早い時間に寝むる両親の部屋にお七をこっそり帰したのでこの密会は誰にも知られる事はなかった。その後も2人は密会を重ねるがやがて正月中旬新宅が出来てお七一家は森川宿に帰ることになった。お七は庄之介との別れを惜しむが25日ついに森川宿に帰る。帰ったあともゆきを介して手紙のやり取りをし、あるとき庄之介が忍んでくることもあったが、日がたつにつれお七の思いは強くなるばかり。思い悩んでお七は病の床に就く。3月2日夜風が吹く日にお七は古綿や反故をわらで包んで持ち出し、商家の軒の板間の空いたところに炭火とともに入れて放火に及ぶが近所の人が気が付きすぐに火を消す。お七は放火に使った綿・反故を手に持ったままだったのでその場で捕まった。奉行所の調べで、若く美しい、悪事などしそうにないこの娘がなぜ放火などしようとしたのか奉行は不思議がり、やさしい言葉使いで「女の身で誰をうらんで、どのようなわけでこのような恐ろしいことをしたのか?正直に白状すれば場合によっては命を助けてもよいぞ」と言うがお七は庄之介に迷惑かけまいと庄之介の名前は一切出さず[注 3]、「恐ろしい男達が来て、得物[注 4]を持って取り囲み、火をつけるように脅迫し、断れば害すると言って打ちつけるので」と答える。奉行が男達の様子を細かく尋ねると要領の得ない話ばかりする。これでは助けることは出来ないとお七は火あぶりとなることになった。お七は3月18日から他の悪人達と共に晒し者にされるが、その衣装は豪華な振袖で鮮やかな化粧と島田に結い上げ蒔絵のついた玳瑁の櫛で押えた髪[注 5]で、これは多くの人目に恥ずかしくないようにせめてもと下女と乳母が牢屋に通って整えたのだと言う。お七および一緒に死罪になる6人は3月28日やせ馬に乗せられて前後左右を役人達に取り囲まれて鈴が森に引き立てられ、大勢の見物人が見守る中で処刑される。大人の4人の最後は見苦しかったが、お七と少年喜三郎はおとなしく処刑されている。お七の家族は縁者を頼って甲州に行きそこで農民となり、2人の仲が知れ渡る事になった生田庄之介は4月13日夜にまぎれて旅に出て、終いには高野山の僧になっている[2]

馬場文耕『近世江都著聞集』の八百屋お七のあらすじ

元は加賀前田家の足軽だった八百屋太郎兵衛の娘お七は類の無い美人であった。天和元年丸山本妙寺から出火した火事で八百屋太郎兵衛一家も焼け出され小石川円乗寺[注 6]に避難する。円乗寺には継母との間柄が悪く実家にいられない旗本の次男で美男の山田左兵衛が滞在していた。お七と山田左兵衛は互いが気になり、人目を忍びつつも深い仲になっていた。焼け跡に新宅が建ち一家は寺を引き払うが、八百屋に出入りしていたあぶれ者で素性の悪い吉三郎というものがお七の気持ちに気が付いて、自分が博打に使う金銀を要求する代わりに二人の間の手紙の仲立ちをしていた。やがて吉三郎に渡す金銀に尽きたお七に対して吉三郎は「また火事で家が焼ければ左兵衛のもとに行けるぞ」とそそのかす(吉三郎はお七に火事をおこさせて自分は火事場泥棒をする気でいる)お七は火事が起きないかと願うが火事は起こらず、ついに自ら放火する気になったお七に吉三郎は「焼けるのが自分の家だけなら罪にならん、恋の悪事は仏も許すだろう」と言い放火の仕方を教える。風の強い日にお七は自分の家に火をつけ、八百屋太郎兵衛夫妻は驚きお七を連れて逃げ出す。吉三郎はこの隙にと泥棒を働くが、駆けつけてきた火付盗賊改役の中山勘解由に捕縛された。拷問された吉三郎は火を付けたのは自分では無く八百屋太郎兵衛の娘お七だという。中山勘解由がお七を召しだして尋ねるとたしかに自分が火をつけたと自白するので牢に入れ、火あぶりにしようと老中に伺いをたてる。そのときに幕府の賢人土井大炊頭利勝[注 7]が「悲しきかな。罪人が多いのは政治が悪いからだとも言う。放火は大罪で火あぶりにするべきだが、か弱い娘がこのような事をする国だと朝鮮・明国に知れると日本は恐ろしい国だと笑われるだろう。」といい中山に「もう一度調べよ、遠島などにはできないか?」と命ずる。15歳以下ならば罪を一段引き下げる事が出来るので、中山はお七が14歳だということにして牢を出し部下に預ける。しかし、このことを聞いた吉三郎は自分だけが刑されるのをねたみ、中山を糾弾する。中山は怒り口論するが、吉三郎は谷中感応寺の額にお七が16歳の証拠があると言い、実際に感応寺の額を取り寄せたら吉三郎の言うとおりだったので中山も仕方なく天和2年2月[注 8]吉三郎と一緒にお七を火あぶりにする[3]

『櫓のお七』のあらすじ

歌川豊国 櫓のお七

(場面の前提。八百屋お七は火事で焼け出されて避難した寺で吉三郎と恋仲になる。やがて家が再建され寺を出るが、吉三郎は主君の宝刀を紛失したことで切腹となることになり、それを聞いたお七は嘆き悲しむ。その宝刀を下女お杉の協力で武兵衛から取り戻す、あるいは自ら取り戻さないまでも宝刀のありかを知ったお七は吉三郎のもとに行きたいが、夜間の事ゆえ町の木戸は固く閉まっている。今夜の内に宝刀を取り戻さないと吉三郎の命は救えない。)

お杉とお七は町の木戸を開けてくれるよう番人に頼むが、夜は火事のとき以外は開けられないと固く断られる。目の前に火の見櫓はあるが、火事でもないのに火事の知らせの太鼓(あるいは半鐘)を打つのは重罪であるとお杉は恐れる。やがてお杉は主人に呼ばれる。一人になったお七は決心し櫓に登って太鼓を打つ。太鼓を聞いて木戸が開く。木戸を通ってお七は吉三郎のもとに走っていく[4][5]

史料、伝記

御当代記

戸田茂睡(1629-1706)によって書かれた政治・社会記録。延宝8年(1680年)-元禄15年(1702年)までの記録で信憑性の高い史料とされている[6]。お七に関しては「駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分よりさらされし也」と記録されている[7]

武江年表

武江年表は正編が嘉永3年(1850年)、続編が明治15年(1882年)に出版された江戸幕府三百年の歴史を編年体で綴った年表。武功年表では「天和三年(1683年)三月二十九日駒込片町八百屋九兵衛の娘お七火刑 墳墓は駒込円乗寺」とある[8]

天和笑委集

天和笑委集は貞享年間に成立した実録体の小説で、作者は不明[9]。西鶴と並んでお七の物語としては最初期、お七の処刑後数年以内に成立し、古来より実説(実話)とされてきた。しかし、現代では比較的信憑性は高いものの巷説を含むものとされている[10]。13章からなり、1-9章はこの時代の火災の記録、10-13章は放火犯の記録となっており、お七の物語は11-13章で語られ全体の1/5を占めている。1-9章で書かれた火災の記録は史実と照らし合わせると極めて信憑性が高く、またお七とは別の放火犯である赤坂田町の商家に住む「春」という少女が放火の罪で火あぶりになった10章の記述が、江戸幕府の記録である『御仕置裁許帳』に記された史実と一部に違いはあるもののほぼ同じであることから人物の記述についても信憑性が高いものとされてきた[11]。しかし現在では天和笑委集は当時の記録に当たって詳細に作られているが、お七の記録に関してだけは著しい誇張や潤色(脚色)が入っているとされている。例えば天和笑委集では火あぶりの前に江戸市中でさらし者にされるお七は華麗な振袖を着ていることにしているが、放火という大罪を犯して火あぶりになる罪人に華麗な振袖を着せることが許されるはずもないと専門家に指摘されている[7]

近世江都著聞集

近世江都著聞集は講釈師馬場文耕がお七の死の74年後の宝暦7年 (1757年)に書いたお七の伝記で、古来、天和笑委集と並んで実説(実話)とされてきた[12]。近世江都著聞集の序文に「お七を裁いた奉行中山勘解由の日記をその部下から私は見せてもらって本にしたのだ」とあり、自分以外の八百屋お七物語は旗本の山田家の身分に憚って、悪党の吉三郎の名をお七の恋人の名にすりかえたのだと言う[3]。しかし、後年の研究で文耕の近世江都著聞集にはほとんど信憑性がない事が立証されている[7]。しかし、近年に至るまで多くの作品が文耕を参考にしており、天和笑委集よりも重んじられてきた[13]。その影響力は現代に残る丙午の迷信にまで及んでいる-#お七の現代への影響力参照。

お七は実在人物か?

歌川豊国 八百屋お七 丸に封じ文の紋、麻の葉段鹿の子柄の振袖で典型的な八百屋お七の衣装である。

お七の存在には疑問を投げかける専門家もいる。古来よりお七の実説として天和笑委集や馬場文耕の近世江戸著聞集があげられていたが、たとえば東京女子大学教授で日本近世文学が専門の矢野公和は論文のなか天和笑委集や馬場文耕の近世江戸著聞集を詳しく検討し、これらが誇張や脚色に満ち溢れたものである事を立証している。この時代の江戸幕府の処罰の記録『御仕置裁許張』にはお七の名を見つけることができない。当時の資料でも、信頼に値する史料では戸田茂睡の『御当代記』にわずかに「駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分よりさらされし也」とあるだけでその記述は後から書き加えられたものであり恐らくはあいまいな記憶で書かれたものであろうと矢野は推定している。お七の年齢も放火の動機も処刑の様子も知る事ができない[7]。しかし大谷女子大学教授で日本近世文学が専門の高橋圭一は『御当代記』は後から書き入れられた注釈を含め戸田茂睡自身の筆で書かれ、少なくとも天和3年お七という女性が江戸の町で放火したということだけは疑わなくてよいとしている。お七処刑のわずか数年後、事件の当事者が生きているときに作者不明なれど江戸で発行された天和笑委集と大阪の西鶴が書いた好色五人女に違いはあれどお七の恋ゆえの放火という点で一致しているのは偶然ではないとしている[12]。お七に関する資料の信憑性に懐疑的な江戸災害史研究家の黒木喬も好色五人女がお七の処刑からわずか3年後に出版されている事から少なくともお七のモデルになった女性はいるのだろうとしている。もしもお七のことがまったくの絵空事だったら、事件が実在しないことを知っている人が多くいるはずのお七の事件からわずか3年後の貞享3年(執筆は貞享2年)にあれほど同情を集めるはずが無いとしている[14]

作品

浄瑠璃

紀海音 八百屋お七恋緋桜

浄瑠璃でもお七物の作品は多数あるが、お七が処刑されてからほぼ20年後の宝永元年(1704年)に紀海音が『八百屋お七歌祭文』を上演しているが[15]、もっとも影響が強かったのが正徳五年(1715年)から享保初年(1716年)ごろに成立した紀海音の『八百やお七』(『八百屋お七恋緋桜』)である[16]。 紀海音の浄瑠璃は西鶴の好色五人女を下地にしながらも大胆に変え、より悲劇性を強くしている。 海音のお七では吉三郎は千石の旗本の息子、親からは出家するように遺言され、親の忠実な家来の十内が遺言を守らせにくる。またお七にも町人武兵衛が恋心を抱いている。 火事の避難先の吉祥寺で出会ったお七と吉三郎の恋は武兵衛と十内の邪魔によって打ちひしがれ、再建した八百屋の普請代二百両をお七の親に貸し付けた武兵衛がそれの代わりにお七を嫁に要求し、家と親への義理の為お七は吉三郎に会えなくなる。西鶴が用意した吉三郎の八百屋への忍び込みを海音も用意はするが海音作では下女のお杉の手引きで軒下に身を隠す吉三郎は武兵衛との結婚をすすめる母親の話を聞いてしまいお七に会わないまま立ち去ってしまう。お杉の話で吉三郎とすれ違ってしまったことを知ったお七は吉三郎に立てた操を破らなければならない定めに絶望し火をつけてしまう。お七の処刑の日、両親は悲嘆にくれ、西鶴では出家する吉三郎を海音はお七の処刑の直前にお七の刑場で切腹・自殺させてしまう[17]。この紀海音が考案した二人、主人に忠実で生真面目な侍ゆえに吉三郎の行動に枠をはめたがる十内と、お七に恋心を抱く金持ちの町人武兵衛の2人はその後の浄瑠璃、歌舞伎でも二人の恋の障害になる人物となり、現代に上演されることが多い歌舞伎・松竹梅湯島掛額でもその設定は変わらない。また西鶴や天和笑委集では高くは無かった恋人の身分を海音は引き上げて良家の子としたが、その設定も現代の歌舞伎に継続されている[18]

伊達娘恋緋鹿子

浄瑠璃では紀海音以降、これに手を加えた作品が続出するが、安永2年(1773)菅専吉らの合作で『伊達娘恋緋鹿子』が書かれる。『伊達娘恋緋鹿子』ではお七は放火はせずに、代わりに火の見櫓に登って半鐘を打つ。この菅専吉らの新機軸を歌舞伎でも取り入れて現代では文楽や歌舞伎では火の見櫓に登るお七が定番となる。[19]

(あらすじ)八百屋久兵衛の娘お七は避難先の寺で吉三郎と恋仲になる。分かれた後も恋心は募るばかりだが、吉三郎の主人の左門の助は天国の剣を無くしたことで明日に切腹となる。吉三郎は主人が切腹したらただちに殉死しなければならない。恋人の危急を知ったお七は天国の剣があれば吉三郎の命を救えると知る。たまたま八百屋の奥に来ていた釜屋武兵衛が天国の剣を持っていたので、下女のお杉と下男の弥作が盗み出す。しかしすでに夜間になり町の木戸は閉まっている。今夜のうちに吉三郎のもとに剣を届けなければ吉三郎は切腹してしまう。今夜のうちに届けるには夜間は固く閉ざされた町の木戸を開かせなければならないが、夜間に木戸が開くのは火事のときだけ。目の前に火の見櫓はあるが火の見櫓の半鐘を偽りで打つと死罪になる。しかし、吉三郎が死んだら自分だけが生きていても仕方ないとお七は火の見櫓に登って半鐘を打つ。火の見櫓の下では天国の剣を取り返そうとする武兵衛とお杉たちが争っている。[20]

歌舞伎

歌川豊国 松竹梅雪曙火の見櫓の段 櫓の上にお七 下ではお杉と釜屋武兵衛が宝刀をめぐって争っている
歌川豊国 櫓のお七人形振りの場面

八百屋お七恋緋桜

歌舞伎では宝永3年(1706年)に紀海音を改作した『八百屋お七歌祭文』が上演されている[15]。この作品の時点1706年では櫓に登るお七は着想されていない。 

松竹梅雪曙

前述したようにれ、浄瑠璃の菅専吉らの新機軸「火の見櫓に登るお七」を歌舞伎でも取り入れて『其往昔恋江戸染』が上演されるが[15]、さらに作家黙阿弥が安政3年(1856年)『伊達娘恋緋鹿子』の火の見櫓の場面を舞踊劇にした歌舞伎『松竹梅雪曙』を書き、これが現代でも上演されている『櫓のお七』の外題である[4]。この松竹梅雪曙に四代目市川小団次が人形振りを取り入れた[21]。現代演じられている松竹梅雪曙のストーリーは後に解説する松竹梅湯島掛額とほぼ同じである[22][18] 。

櫓のお七

現代では歌舞伎や文楽では喜劇仕立ての物『松竹梅湯島掛額』や見立て物『三人吉三』以外には八百屋お七が全幕で上演される事は少なく、『伊達娘恋緋鹿子』を黙阿弥が改作した『松竹梅雪曙』の火の見櫓の場面だけを一幕物『櫓のお七』として人形振りの所作仕立てで上演する事が多い[21][5]

人形振り

櫓のお七では前半のお七と下女お杉の場面ではお七を演じている役者は普通に人間として演じている。しかし、現代の櫓のお七ではお杉が主人に呼ばれお七が一人になるところから、黒衣が二人もしくは三人出てきて役者の後ろに付き、お七を演ずる役者は人形のような動きで演ずるようになる。黒衣は人形を動かしているかのように振舞う。お七役の役者は人間でありながらあたかも操られている人形のように手や首を動かす。これは様式美を追求し追い詰められたお七の姿を表しているのである。文楽を取り入れたものだが、追い詰められたお七の心を描くには、人形の誇張の動きが適しているからだと言われている。やがて木戸が開きお杉が戻ってくると役者は人間に戻る[4][5][23]

松竹梅湯島掛額

松竹梅湯島掛額は福森久助作「其往昔恋江戸染」の「吉祥院お土砂の場」と、河竹黙阿弥の「松竹梅雪曙」の「火の見櫓の場」を繋ぎ合わせた2幕物で松竹梅湯島掛額の1幕目の「吉祥院お土砂の場」は歌舞伎では珍しいドタバタ喜劇であり、八百屋お七物の全幕物のなかで現代上演される数少ない八百屋お七物である。(松竹梅湯島掛額/ 松竹梅雪曙以外には、それの後段だけを上演する1幕もの「櫓のお七」くらいしか現代では歌舞伎で八百屋お七が上演される事は少ない)松竹梅湯島掛額/松竹梅雪曙では「お土砂」が大事な小道具だが、お土砂は真言密教の秘密の加持を施した砂でこれを死体にかけると死体が柔らかくなると言われている。この物語では人間にお土砂をかけるとかけられた人間は体が柔らかくなり力が抜けて「ぐんにゃり」となってしまうことになっている。また、主役がお七と吉三郎ではなく、紅長こと紅屋長兵衛とお七である[18]

(吉祥院お土砂の場のあらすじ)舞台は鎌倉時代の江戸の町。江戸に木曽義仲が攻めてくるともっぱらのうわさで人々はざわついている。駒込・吉祥院は本堂の欄間の左甚五郎作とされる天女像で有名で天女は美しく、またお七は天女そっくりの美人である。町の娘達の人気者の紅屋長兵衛(紅長・べんちょう)はお七ととても仲のよい紅(化粧品)売りである。吉祥院の寺小姓吉三郎に恋するお七は吉三郎と夫婦になりたいと母に願うが釜屋武兵衛から借金しているお七の家は返済の代わりにお七と武兵衛の縁談を進めていると言われお七は悲しみ、紅長が慰める。そこに吉三郎の家来の十内がやってきて、吉三郎の帰参がかなって国許に帰り家老の娘と結婚するのだと言い、お七はまた悲しむ。母は十内にお七と吉三郎の結婚を願うが身分違いでとんでもないと断られる。そこに吉三郎がやってくるが実は吉三郎は天国の剣を探さなければならない身、吉三郎は十内に女にうつつを抜かしている場合ではないと怒られる。釜屋武兵衛に案内されて源範頼公の家来長沼六郎がお七を探しにやってくる。 源範頼公がお七の美しさを聞いて愛妾にしたがっているのだという。長沼六郎にお七の居場所を問い詰められた寺の住職は困るが、紅長の発案で欄間の天女像を外してそこにお七を入れる。長沼六郎は欄間の天女像の美しさに感心するが実はそれがお七本人だとは気が付かない。その騒ぎを聞いてきた吉三郎とお七は紅長の入れ知恵で恋仲になる。さて、長沼六郎と釜屋武兵衛はお七を探して寺中を調べるが、お七は死んだと聞かされる。長沼六郎と釜屋武兵衛は疑い、やってきた棺桶の中を調べるが、棺桶から出てきたのは死者に扮した紅長。紅長が釜屋武兵衛を投げ飛ばし、釜屋武兵衛が紅長にかけようとした「お土砂」を奪って逆に釜屋武兵衛にかけると釜屋武兵衛は「ぐんにゃり」となる。紅長は長沼六郎たちにもお土砂をかけてぐんにゃりとさせて、お七を逃がす。調子に乗った紅長は寺中の人々に楽しそうにお土砂をかけてお七以外の登場人物全員をぐんにゃりとさせる。そこにハプニングがおこり洋服の観客が舞台に乱入してくる。観客を引き止めに劇場の女性従業員も舞台に上がる。紅長は観客や女性従業員にもお土砂をかけてぐんにゃりさせる(闖入者の観客や女性従業員は実は役者)。さらに調子に乗った紅長は舞台の裏方や幕を引きに来た幕引きにもお土砂をかけてぐんにゃりさせる。幕引きまでぐんにゃりさせた紅長は楽しそうに自ら幕を引く[18]

2幕目の「火の見櫓の場」のあらすじは上記「『櫓のお七』のあらすじ」参照。ただし、文楽(人形浄瑠璃)の半鐘は歌舞伎では太鼓になり、人間が演じる歌舞伎では人形振りが入る。また演出で瑣末な部分は必ずしも一致しない[18]

三人吉三廓初買

歌舞伎『三人吉三廓初買』、通称『三人吉三』は同じ名を持つ三人の盗賊がおりなす物語。「月も朧に白魚の、篝も霞む春の空。冷てえ風も微酔に心持よくうかうかと、浮かれ烏のただ一羽塒(ねぐら)へ帰る川端で……(中略)こいつぁ春から縁起がいいわえ」と有名な台詞を朗々と唄い上げる女装の盗賊「お嬢吉三」は八百屋お七の見立て(パロディ)である。序幕で「八百屋の娘でお七と申します」と名乗り、大詰では、お嬢吉三が櫓に登って太鼓を打ち、木戸が開いて櫓の前に三人の吉三が集合する。三人吉三は役人に取り囲まれて自らの悪行に観念する。パロディであっても歌舞伎のお七物では振袖姿で櫓に登り太鼓を打つのが「お約束」[24][25]

落語(八百屋お七)

落語で八百屋お七物にはいくつか有り、名人十代目桂文治などによって知られている噺では、お七は町内でも評判の美人、婿になりたがる男の行列が本郷から上野広小路まで並ぶほどである。火事で店が焼けたためお七は駒込の吉祥寺に預けられ、そこで美男の寺小姓吉三(きっさ)と恋仲になる。家が再建され寺を去るお七は吉三に「あたしゃ、本郷へ行くわいな」とあいさつする。以降の展開は多くのお七物と同じだが、幕府の老中土井大炊頭が可憐な娘を丸焼きにするのを気の毒がる。当時の江戸では火付け犯は15歳を過ぎれば火あぶり、15歳未満は罪を減じて遠島の定めだったため、土井大炊頭はなんとかお七の命を救おうと奉行に命じ「お七、そちは十四であろう」と謎をかけさせる。しかし、お七が正直に「十六でございます」と答えてしまったために火あぶりとなる。死後にお七は幽霊となり人々を悩ます。それを聞きつけて来た武士に因縁つけて逆に手足を切られて1本足になり、こりゃかなわんと逃げるとき武士に一本足でどこに行くかと聞かれて答え「片足ゃ、本郷へ行くわいな」の台詞で締めくくる[26]

別の八百屋お七物は「お七の十」の通称で知られていて、火あぶりになったお七と悲しんで川へ身投げし水死した吉三があの世で出会って抱き合ったらジュウと音がした、火と水でジュウ(七+三で十)というネタがつく噺もある[27]

漫画(ガラスの仮面)

漫画『ガラスの仮面』では劇中劇で櫓のお七の場が取り上げられる。北島マヤ演じるお七は町に火をつけ櫓に登り、燃え盛る町を見下ろしながら半鐘を打ち鳴らす。燃え盛っているのは家屋ばかりではない。お七の心にもお七自身にはどうにも出来ない恋の炎が燃え盛り、燃える町を見ながらお七の心も燃え尽きる[28]

登場人物

歌川豊国 寺での吉三郎とお七の出会い 右に下女お杉がいる。 吉三郎は菱型の吉の字の紋、お七は丸に封じ文の紋

恋人

恋人の名は 天和笑委集では生田庄之介[2]好色五人女では小野川吉三郎[1]、近世江戸著聞集では山田左兵衛[3]、紀海音では安森吉三郎[17]、現代の歌舞伎「櫓のお七」では吉三郎[4]、松田定次監督の映画『八百屋お七 ふり袖月夜』[29]では生田吉三郎とさまざまであるが吉三郎とするものが比較的多い。前述したように文耕は自分以外の八百屋お七物語は旗本の山田家の身分に憚って、悪党の吉三郎の名をお七の恋人の名にすりかえたのだと言う[3]が、しかし文耕はほぼ虚構である事が立証されているので[7]、恐らくは西鶴と、西鶴を下地にした紀海音、さらに紀海音に影響を受けた歌舞伎などの影響力であろうとされている[13]

恋人の身分は初期の作品ではあまり高くはなく、西鶴では吉三郎は浪人で兄分(同性愛の恋人)がいる[注 9][30]、天和笑委集でも生田庄之介がそれほど身分が高くないのでお七に高い身分の男との結婚を望んでいる両親にお七は生田庄之介との交際を言い出せない[11]。しかし、紀海音が吉三郎を1000石の旗本の息子[31]、親の忠実な家来の十内が親の遺言を守らせに来るようにある程度身分の高い武士の子弟と設定してからは[17]、浄瑠璃や歌舞伎ではある程度身分の高い武士階級にされている。お七が櫓に登るわけは、木戸を開けさせ宝刀を今夜のうちに届けないと吉三郎が切腹するからだが[5][20][23]、切腹するのは武士階級だけなので吉三郎は武士階級の設定としれる。文耕の近世江都著聞集では吉三郎の親は2500石の旗本である[3]。現代の歌舞伎では吉三郎は武家の中でも身分が高い家の子で八百屋の娘とは身分が違いすぎて結婚の対象ではないことにされる[18]

下女

八百屋で働く下女の名は天和笑委集では「ゆき」[2]、紀海音の浄瑠璃や歌舞伎では「杉」[17][4]。八百屋の下女は二人の恋の仲立ちをする役割で[2][17]、櫓のお七の設定では宝刀を武兵衛のもとから取り返してくる役割をはたす[4]

お七の父の名も作品によってさまざまである。天和笑委集では市左衛門[2] 好色五人女では八兵衛[1]近世江戸著聞集では太郎兵衛[3]、紀海音では久兵衛[17]、落語では久四郎[27]と作品ではそれぞれが違う。お七の父の名前も素性もうかがい知ることはできないが、江戸災害史研究家の黒木は加賀藩邸(今の東京大学本郷キャンパス)がすぐ近くであったことからお七の家は加賀藩出入りの商人の可能性を指摘している[32]

役人

中山勘解由

中山勘解由[注 10]は史実では先手頭で天和3年正月23日に火付改[注 11]に着任[33]。 西鶴や天和笑委集によるお七の処刑時天和3年3月には、史実としてはこの人物が放火犯の捜査・処罰の責任者であり、しかもかなり厳しく取り調べ、この人物が着任している間は放火の罪で処刑される人数が増加している。海老責という拷問方法を考案もし、拷問を含む厳しい取調べで恐らくは冤罪も多かったであろうと推定されている[34]

しかし史実とは反対に八百屋お七の物語ではお七の命を何とか救おうとする奉行として登場することが多い人物で、文耕の近世江戸著聞集のなかでもお七の年齢をごまかして助けようとする奉行中山殿の名前が出てくる[3]

狩野文庫『恋蛍夜話』では奉行中山勘解由はお七に「火付けはしてないな?」と聞き、もしもお七が「はい」と答えたら助けるつもりが、お七が正直に「火を付けた」と答えてしまったために仕方なく火あぶりにせざるをえなくなったとしている[12]。落語でも土井大炊頭の意を汲んでお七の年齢をごまかして助けようとする[26]。ただし、中山勘解由がまだ存命中に書かれた最初期の作品である西鶴の好色五人女では奉行は登場しない[1]、またやはり西鶴とならんで最初期のお七の伝記である天和笑委集ではなんとかお七の命を救ってやりたい奉行が登場するが、天和笑委集でも奉行の個人名は出していない[2]

尚、お七の事件の数年前の延宝8年(1680年) 、『江戸方角安見図』では中山勘解由配下の組屋敷は本郷(今の東京大学本郷キャンパスの農学部と工学部・法学部の通りに面した最西側部分)にあり、お七の家の至近にある[35][36]

甲斐庄正親

史実ではお七の事件時天和3年3月、南町奉行を務めている人物[37]。作品によっては八百屋お七物の登場人物として前述の中山勘解由ではなく、甲斐庄正親がお七の裁きの奉行を務めることがある。甲斐庄もやはりお七が正直に放火を自白したのでやむなく火あぶりにする奉行と設定される[38]

土井大炊頭利勝

史実では家康・秀忠・家光の三代に仕えた武士で、江戸幕府の老中・大老までつとめた古河藩16万石の大名(1574-1644)[39]。お七の事件の約40年前に亡くなっているので、史実でお七と絡むことはありえないが、馬場文耕や文耕を参考にした物語、落語などでは奉行に命じてお七の年を14歳だとごまかして何とか救おうとする人物となっている[3][26]

放火するお七、しないお七

最初のお七の物語、西鶴や天和笑委集、あるいはそれらを受け継いだ初期のお七物語では「お七は火事で焼け出され、火事が縁で恋仲になり、恋人に会いたい一心で放火をして自身が火あぶりになる」と徹頭徹尾「火」にまつわる燃え盛る恋物語である。しかし、江戸時代中期、安政2年 (1773年)の浄瑠璃『伊達娘恋緋鹿子』でお七が火の見櫓に登って半鐘を打つようになり、やがて半鐘は歌舞伎では太鼓に代わる事もあったものの、歌舞伎や文楽(人形浄瑠璃)などの見せる作品では、八百屋お七といえば火の見櫓にのぼる場面が大事な見せ場になり、放火などはしなくなる。放火するお七は火事で家が無くなれば、恋人のいる寺に避難するする事が出来るが、放火をせずに櫓に登るお七では、恋人の火急のピンチを救うために、火事以外では夜間は固く閉じられている町木戸を開けさせるために偽りの火事の知らせを叩くのである。当時、木造家屋が密集している江戸は火事が多く幕府も放火には神経を尖らせていた。また、芝居小屋自身も火災に会うことが多かったので放火の演出は避けたかったのだろうと推測されている。しかし、お七と火を完全に切り離す事もできない。そのぎりぎりの接点が火の見櫓であったのだろうと考えられている[40]

お七の衣装

麻の葉文様 お七の衣装にはこの文様が入ることが多い
麻の葉文様段染め、お七の着物でよく使われる絵柄と色である。実際の着物では模様は直線ではなく鹿子柄やさらに複雑なデザインになる

宝永3年(1706年)に八百屋お七を演じた初代嵐喜世三郎が「丸に封じ文」紋をつけた衣装で可愛らしいお七を演じて評判になり以降「丸に封じ文」紋がお七の紋として定着する[41]文化6年(1809年)其往昔恋江戸染で八百屋お七役の歌舞伎役者の岩井半四郎が麻の葉段鹿子の振袖を着たことから大流行し麻の葉文様は若い娘の代表的な着物柄になり[42][43]、岩井半四郎以降は歌舞伎や文楽でもお七の櫓の場では麻の葉の段の振袖が定番になっている[41][43]。八百屋お七のパロディでもある三人吉三でも、お嬢吉三の衣装は「封じ文」と似て非なる「結び文」紋と櫓の場での衣装は麻の葉段鹿子染めであり[41]、最初に提示した月岡芳年の八百屋お七の絵でも一部に麻の葉の鹿子柄が見える。

平成21年の歌舞伎座公演『松竹梅湯嶋掛軸』の「櫓の場」ではお七と下女お杉二人の前半ではお七の衣装は黄色格子縞の町娘の普段着風の着物、お杉が退場しお七一人の人形振りの場になると着物が浅黄色と紅色の麻の葉の段鹿子の振袖に変わる[18]

文学では西鶴は避難した先の寺でお七に貸し与えられた振袖を黒羽二重の大振袖、桐と銀杏の比翼紋で紅絹裏の裾を山道形にふさをつけ色めいた小袖の仕立て、焚き込めた香の薫もまだ残っているとしている[1]

天和笑委集では火あぶりの前に江戸市中でさらし者にされているお七には「肌には羽二重の白小袖、甲州郡内の碁盤縞、浅黄の糸にて縫いたる定紋の三つ柏五ッ所に桃色の裏付けて一尺五寸の大振袖上に重ね、横幅広き紫帯二重にきりきりと引き回し後ろにて結び留め、襟際少し押し広げ、たけなる黒髪島田に結い上げ、銀覆輪に蒔絵書いたる玳瑁(タイマイ)の櫛にて前髪押さえ、紅粉を以って表(顔)をいろどる」と豪華な装いをさせている[2]

お七一家が避難した寺

『天和笑委集』でお七一家が避難したとされる「正仙院」という寺を実在の寺として見つけることはできないが、延宝8年(1680年)の『江戸方角安見図』では本郷森川宿の近くに「正泉院」という寺を見つけることが出来る[32][44]。江戸災害史研究家の黒木によると正泉院はお七一家が焼け出された天和2年師走28日(新暦1683年1月25日)の火事の火元となった大円寺の裏にある寺だが火元でありながら大円寺自身は大して焼けなかったように正泉院も焼けなかったのだろうとして、黒木はこれが天和笑委集でいう正仙院ではないか?としている[32]。『江戸方角安見図』はインターネットで公開もされているが江戸方角安見図の駒込一の右下隅に「正泉院」が見える[45]

西鶴が二人の恋の場の寺の名を駒込・吉祥寺とし、西鶴の流れを汲む多くの作品でも吉祥寺が避難先の寺とされるが、お七一家が家財道具を持って逃げるには少し遠い(西鶴の好色五人女の挿絵ではタンスなどの家具を持って避難している)。黒木は西鶴が大阪なので大阪でも名の知られている寺を物語の舞台に選んだのだろうとしている[32]

近世江都著聞集や加藤曳尾庵の『我衣』(文政8年1825年)などでは円乗寺としている[32]

お七の墓

八百屋お七の墓 (東京都文京区・円乗寺)

円乗寺のお七の墓は、元々は天和3年3月29日に亡くなった法名妙栄禅尼の墓である。これがお七の墓とされて、後年に歌舞伎役者の岩井半四郎がお七の墓として墓石を追加している。 しかし、東京女子大学教授で日本近世文学が専門の矢野公和はこれに疑問を呈している。単なる死罪でも死体は俵に入れて本所回向院の千住の寮に埋めるが、単なる死罪よりも重罪である火刑者が墓を作ることを許されるはずも無いと矢野は指摘している。仮に家族がこっそり弔うにしても、寺に堂々と墓石を立てることはありえない。また、お七の命日を3月29日とする資料は逆に墓碑を根拠としたものであろうとも指摘されている[7]。(お七の刑死後数年で発行された天和笑委集ではお七の命日を3月28日としている)

円乗寺の他にも千葉八千代の長妙寺にもお七のゆかりの話しと墓があり[46]、また岡山県御津町にもお七の物とされる墓がある。岡山のお七の墓ではお七の両親が美作国誕生寺の第十五代通誉上人に位牌と振袖を託し供養を頼んだのだと言う。さらに吉三郎の物とされる墓は、目黒大円寺や東海道島田宿、そのほかにも北は岩手から西は島根まで全国各地にある。また、お七と吉三郎を共に祭る比翼塚も目黒大円寺や駒込吉祥寺などにある[47]

お七の伝説

「八百屋お七」を題材とするさまざまな創作が展開されるのに伴い、多くの異説や伝説もあらわれるようになった。

お七の幽霊が、の体に少女の頭を持った姿で現れ、菩提を弔うよう請うたという伝説もある。大田蜀山人が「一話一言」に書き留めたこの伝説をもとに、岡本綺堂が『夢のお七』という小説を著している[48]

後述するようにつじつまが合わないものの大和高田市には「八百屋お七」のモデルとして、大和国高田本郷(現在の大和高田市本郷町)のお七(志ち)を挙げる説もある。高田本郷のお七の墓と彼女の遺品の数珠は常光寺に現存する。地元では、西鶴が高田本郷のお七をモデルに、舞台を江戸に置き換えて「八百屋お七」の物語を記した可能性があるとしている[49]。ただし、大和高田市のお七の数珠には享保10年(1725年)とあり、これは井原西鶴の好色五人女が書かれた貞享3年(1686年)の39年後である。また、常光寺の享保年間の過去帳には 死刑囚「しち」という名が見えるともされているが、同じく享保年間は井原西鶴よりも後の年代である。

お七の現代への影響力

干支の丙午(ひのえうま)年の生まれの女性は気性が激しく夫の命を縮めるという迷信は、丙午の年には火災が多いという江戸時代の初期の迷信が、八百屋お七が1666年の丙午生まれだとされたことから女性の結婚に関する迷信に変化して広まって行ったとされる[50][51]。この迷信は昭和になってすら強く1966年の出生率は前年に比べて25%も下がる影響があった[52]。しかし、江戸時代には人の年齢はすべて数え年であったため[53]、もしも八百屋お七が1666年の丙午生まれならば放火し火あぶりにされた天和3年(西暦1683年)には18歳になってしまう。西鶴などの各種の伝記では16歳となっている[1][26]。紀海音が『八百やお七』でお七を丙午生まれとし、それに影響された為長太郎兵衛らの『潤色江戸紫』がそれを引き継ぎ、また文耕は谷中感応寺にお七が延宝4年(1676年)に掛けた額が11歳としたことが生年を寛文6年(1666年)とする根拠となった。海音は強い影響力を持ち、馬場文耕の『近世江都著聞集』も現代では否定されているものの長く実説(実話)とされてきた物語で有り、数多くの作品が文耕をもとにしていて、お七の丙午年生まれ説はこのあたりから生じている[31]

脚注

注釈

  1. ^ 天和笑委集の写本である新燕石十種では生田庄之介である。庄之助ではない。
  2. ^ 現在の文京区本郷6丁目
  3. ^ お七が庄之介との交際を親にも内緒にしていたのは、身分の高い男との結婚を両親が望んでいたからである。庄之介への配慮と親への孝行で本当のことを言えないお七であった-出典 丹羽みさと「天和笑委集の特徴」『立教大学日本文学』89号、立教大学日本文学会、2003年、pp.90-101。
  4. ^ 刀や槍、棍棒など武器になる道具
  5. ^ 天和笑委集では「肌には羽二重の白小袖、甲州郡内の碁盤縞、浅黄の糸にて縫いたる定紋の三つ柏五ッ所に桃色の裏付けて一尺五寸の大振袖上に重ね、横幅広き紫帯二重にきりきりと引き回し後ろにて結び留め、襟際少し押し広げ、たけなる黒髪島田に結い上げ、銀覆輪に蒔絵書いたる玳瑁(タイマイ)の櫛にて前髪押さえ、紅粉を以って表(顔)をいろどる」と記述している。
  6. ^ 現在の住所表示では文京区白山1丁目である
  7. ^ 史実では天和元年の数十年前に亡くなっている人物
  8. ^ 近世江都著聞集以外の八百屋お七物語では処刑は天和3年3月である。近世江都著聞集だけ、他の作品群とは年月が異なる。
  9. ^ 寺は北海道松前に出張中の兄分から吉三郎を預かっている。吉三郎は若衆として兄分を持つ身(同性愛者として恋人をもつ身)でありながら女の情にほだされてしまったと自白する。-谷脇 理史 訳注『好色五人女』角川文庫、2008年、pp.272-275
  10. ^ 豊臣秀吉による小田原攻めの際、後北条氏の重臣であり八王子城落城のときに戦死を遂げた中山勘解由家範とはまったくの別人
  11. ^ 一般には鬼平犯科帳長谷川平蔵の火付盗賊改方で知られる役職であるが、天和3年の時点では火付改と盗賊改は分離していて、中山勘解由は初の火付改-出典 吉川弘文堂『国史大辞典』11巻p.938

出典

  1. ^ a b c d e f 井原西鶴 原著、吉行淳之介 現代語訳『好色五人女』河出書房新社、1979年、pp.66-86
  2. ^ a b c d e f g 天和笑委集『新燕石十種』第七巻、中央公論社、1982年、pp.191-223
  3. ^ a b c d e f g h 馬場文耕「近世江都著聞集」収録『燕石十種』第5巻、中央公論社、1980年、pp.10-18
  4. ^ a b c d e f 水落 潔 著『歌舞伎鑑賞辞典』東京堂、1993年、p.195
  5. ^ a b c d 目代 清 著『近世歌舞伎舞踊作品-恋多き娘達』邦楽と舞踊社、2003年、pp.62-71 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "目代"が異なる内容で複数回定義されています
  6. ^ 吉川弘文館『国史大辞典』5巻、p.915
  7. ^ a b c d e f 矢野公和「八百屋お七は実在したのか」『西鶴と浮世草子』Vol.4、笠間書院、2010年、pp.200-213
  8. ^ 加瀬 順一 著『振袖火事と八百屋お七と水戸様火事の江戸雑学』2006年、p.68-76
  9. ^ 高橋圭一「八百屋お七とお奉行様」『江戸文学』29号、ペリカン社、2003年、p.64
  10. ^ 国際浮世絵学会『浮世絵芸術』162号、2011年、p.6
  11. ^ a b 丹羽みさと「天和笑委集の特徴」『立教大学日本文学』89号、立教大学日本文学会、2002年、pp.90-101
  12. ^ a b c 高橋圭一「八百屋お七とお奉行様」『江戸文学』29号、ペリカン社、2003年
  13. ^ a b 竹野 静男「西鶴-海音の遺産 八百屋お七物の展開」『日本文学』Vol.32、日本文学協会編集、1983年、pp.10-20
  14. ^ 黒木 喬 著『お七火事の謎を解く』教育出版、2001年、pp.153-154
  15. ^ a b c 利根川 裕『歌舞伎ヒロインの誕生』右文書院、2007年、pp.179-181
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  18. ^ a b c d e f g 歌舞伎座DVD book『歌舞伎座さよなら公演 歌舞伎座さよなら公演16か月全記録. 第5巻 九月大歌舞伎・芸術祭十月大歌舞伎』小学館、2011年、付属解説書 pp.60-64およびDVD DISC 6
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  28. ^ 美内すずえ『ガラスの仮面』第36巻「火のエチュード」、白泉社、1989年
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  40. ^ 利根川 裕『歌舞伎ヒロインの誕生』右文書院、2007年、pp.186
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参考文献

書籍

  • 井原西鶴 原著、吉行淳之介 現代語訳『好色五人女』河出書房新社、1979年
  • 天和笑委集『新燕石十種』第七巻、中央公論社、1982年
  • 市川 染五郎 監修、君野倫子 著『歌舞伎のびっくり満喫図鑑』小学館、2010年、ISBN 978-4-09-310768-6
  • 大曾根 章助 他 編集『研究資料日本古典文学第10巻 劇文学』明治書院、1983年
  • 歌舞伎座DVD book『歌舞伎座さよなら公演 歌舞伎座さよなら公演16か月全記録. 第5巻 九月大歌舞伎・芸術祭十月大歌舞伎』小学館、2011年、付属解説書 およびDVD DISC 6
  • 黒木 喬 著『お七火事の謎を解く』教育出版、2001年、ISBN 4-316-35860-X
  • 国立劇場 編集『国立劇場歌舞伎公演上演台本 135巻』1986年
  • サライ責任編集『十代目桂文治』昭和の名人完結編、小学館、2011年、pp.11-12および付属CD「八百屋お七」
  • 田口 章子 著『歌舞伎ギャラリー50』学研、2008年、ISBN 4-054-03499-3
  • 谷脇 理史 訳注『好色五人女』角川文庫、2008年、ISBN 978-4-04-408201-7
  • 利根川 裕『歌舞伎ヒロインの誕生』右文書院、2007年、ISBN 978-4-8421-0087-6
  • 長崎 巌監修、弓岡勝美編集『きもの文様図鑑』平凡社、2005年、ISBN 4-582-62039-6
  • 日本古典文学全集『浄瑠璃集』横山正 校注・訳。小学館、1971年
  • 馬場文耕「近世江都著聞集」収録『燕石十種』第5巻、中央公論社、1980年
  • 藤田 洋 編集『文楽ハンドブック』第三版、三省堂、2011年、ISBN 978-4-385-41067-8
  • 双葉社ス-パ-ムック『歌舞伎がわかる本』、双葉社、2012年、ISBN 978-4-575-45271-6
  • 美内すずえ『ガラスの仮面』第36巻「火のエチュード」、白泉社、1989年
  • 水落 潔 著『歌舞伎鑑賞辞典』東京堂、1993年、ISBN 4-490-10352-2
  • 目代 清 著『近世歌舞伎舞踊作品-恋多き娘達』邦楽と舞踊社、2003年、ISBN 4-938401-03-7
  • 吉川弘文館『国史大辞典』5巻
  • 吉川弘文館『国史大辞典』11巻
  • 吉川弘文館『国史大辞典』13巻
  • 渡辺保編『カブキハンドブック』新書館、1998年、ISBN 4-403-25035-1
  • 渡辺 保 編集『カブキ101物語』新書館、2004年、ISBN 978-4-403-25079-8

論文,記事

  • 加茂 瑞穂「八百屋お七からお嬢吉三へ衣装デザインの創造について」『アートリサーチ』Vol.11、立命館大学アートリサーチセンター、2011年
  • 国際浮世絵学会『浮世絵芸術』162号、2011年、
  • 高橋 圭一「八百屋お七とお奉行様」『江戸文学』29号、ペリカン社、2003年、
  • 丹羽 みさと「天和笑委集の特徴」『立教大学日本文学』89号、立教大学日本文学会、2002年、
  • 矢野 公和「八百屋お七は実在したのか」『西鶴と浮世草子』Vol.4、笠間書院、2010年、
  • 竹野 静男「西鶴-海音の遺産 八百屋お七物の展開」『日本文学』Vol.32、日本文学協会編集、1983年
  • 渡辺憲司「江戸サブカル紀行」『大衆文化』創刊準備号、立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター、2008年