馬場文耕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

馬場 文耕(ばば ぶんこう、享保3年(1718年) - 宝暦8年12月29日1759年1月27日))は、江戸時代中期の講釈師。本姓を中井、通称を左馬次・文右衛門と称したとされる。没日を25日とする異説もある。

世話物講談の分野を開き、「近世講談の祖」とも評価される。また、その作品を理由に処刑された近世日本の言論弾圧の犠牲者としても知られている。

経歴[編集]

経歴には不明な点も多い。伊予国出身で、徳川吉宗の時代に江戸幕府御家人だった時期があり、職を失って浪人となり、一時は出家したり、還俗して易占いで生計を立てたり、白兎園宗瑞俳諧を学ぶなどしていたとされている。後に書本作家・講釈師として「世話物」で高い評価を得、更に講釈師として武家の下に出入りしているうちに幕閣や大奥、大名を批判する「政事物」と呼ばれる作品も著すようになった。

作品はその内容から無署名・別号のものや写本のみで伝えられるものも多く、文耕の著作を確定することは難しいが、代表的なものとしては『当世武野俗談』『近代公実厳秘録』『近世江都著聞集』『明君享保録』などが知られている。『名君享保録』は徳川吉宗伝で、後に幕府が編纂した『徳川実紀』にも引用されている。

宝暦8年9月16日1758年10月17日)、榑正町(現在の東京都中央区日本橋3丁目)の文蔵宅で、当時評定所にて審理中であった金森騒動についての講談を行った上にそれを文章化した『平良仮名森の雫』を頒布していたところを捕らえられ、12月29日(一説には25日)に“異説を申し触らして講釈し、書本を貸したこと”を理由に「江戸市中引き回しの上、打ち首獄門」の判決が言い渡され、その日のうちに小塚原刑場にて処刑された。

文耕の処刑の理由については、金森騒動について評定所の判決が出される前に講談の場において私の裁決を行ったことや、江戸幕府や諸藩などに関する機密情報を書本や講談の形で公開したことが江戸幕府の怒りを買ったとも言われている。

参考文献[編集]

  • 延広真治「馬場文耕」(『日本史大事典 5』(平凡社、1993年) ISBN 978-4-582-13105-5
  • 山田忠雄「馬場文耕」(『国史大辞典 15』(吉川弘文館、1996年) ISBN 978-4-642-00515-9
  • 延広真治「馬場文耕」(『日本歴史大事典 2』(小学館、2000年) ISBN 978-4-09-523002-3
  • 『馬場文耕集』 (叢書江戸文庫、国書刊行会、1987年) - 「世間御旗本容気」「近代公実厳秘録」「当時珍説要秘録」「明君享保録」

外部リンク[編集]

  • 当世武野俗談[1](燕石十種)
  • 近世江都著聞集[2](燕石十種)
  • 皿屋舖辨疑錄目錄[3](近世実録全書)
  • 明君享保伝[4](早稲田大学図書館 古典籍総合データベース)
  • 関根只誠『講談落語今昔譚』[5](『只誠埃録』の一部) - 文耕の著作に記された経歴と矛盾する話も伝えている。

関連項目[編集]