清水安三

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清水 安三
桜美林大学町田キャンパスにある清水安三の像
生誕1891年6月1日
滋賀県高島市
死没 (1988-01-17) 1988年1月17日(96歳没)
国籍日本の旗 日本
出身校同志社神学校
職業教育者牧師
時代19 - 20世紀
明治 - 昭和
著名な実績崇貞学園・桜美林学園の創立
影響を受けたものウィリアム・メレル・ヴォーリズ
活動拠点日本の旗 日本
中華民国の旗 中華民国
宗教キリスト教プロテスタント
配偶者美穂(死別)
小泉郁子
子供畏三
受賞キリスト教功労者
善行金賞
栄誉紺綬褒章
名誉神学博士(同志社大学)
名誉博士オーバリン大学
新旭町名誉町民

清水 安三(しみず やすぞう、1891年6月1日 - 1988年1月17日)は、日本の教育者牧師桜美林学園創立者。元桜美林学園第3代理事長。

来歴[編集]

1891年、高島郡新儀村北畑(現在の滋賀県高島市)に豪農の子として生まれたが、5歳で父を亡くす[1]。地元は陽明学者中江藤樹の故郷に近く、幼少期より叔父に「将来は中江藤樹のような人になりたい」と度々言うなど中江に憧れていた。家督を継いだ長兄の放蕩で家が没落したため、1906年に一家で大津に転居し、その3年後には長兄の愛人が営む料理旅館の一室で暮らし始める[1]。酔客や兄たちの放埓な生活に傷ついていた滋賀県立第二中学校時代に英語講師で宣教師のウィリアム・メレル・ヴォーリズからキリスト教の感化を受け[2]、1908年に受洗、同志社神学校に進学[3]。この時、新島襄に強く影響を受けたとされ、後の崇貞学園や桜美林学園開学の際に自らの教育モデルとしたと言われる。更に大原孫三郎から留学資金を得て渡米しオーバリン大学に学ぶ(オーバリンの名前は後に彼が創立する桜美林学園の名の由来ともなる)。

1915年、同志社大学を卒業したその年、教会で聞いた宣教師ホラース・ピットキン(en:Horace Tracy Pitkin)の殉教の話(義和団事件で死去)に感銘を受け、また鑑真や恩師ヴォーリズの生涯ともなぞらえて中国行きを決意。1917年に日本人宣教師第1号として中国・大連へ渡り布教活動を開始。翌1918年には奉天に移り児童園を設置し、大連の教会にて先妻、横田美穂と結婚。1920年北京へ移り美穂と共に貧困に喘ぐ女子を対象とする実務教育機関・崇貞平民工読学校を当時北京随一のスラム街だった朝陽門外に開校(翌年に崇貞女子学園となった後、1938年崇貞学園、2000年からはパトロンの名にちなみ陳経綸中学と改称)。その後、小学校や中学校を併設し中国人のみならず在華日本人にも門戸を広げるなど尽力し、地元では「北京の聖人」と呼ばれ慕われていたという。また、天橋愛隣館という救済院慈善病院)も作っており、[4][5]。現地委員としてセルツメントに参加している。1933年に妻の美穂と死別した後、1936年天津で後妻の小泉郁子と再婚。

終戦と共に帰国、後妻の清水郁子とともに東京郊外の町田市に「キリスト教主義に基づいた国際的な教養人の育成」を建学の精神とする学校法人桜美林学園を創立し、初代学長、後に第3代の理事長を務めた。

短歌に造詣が深く、雅号如石。1966年の桜美林大学開学時には「大学の設立こそは少き日の 新島襄に享けし夢かも」と感想を歌に詠んでいる。他に1976年の夏、桜美林高校の野球部が甲子園大会で優勝した際に詠んだ「夢を見よ夢は必ずなるものぞ、嘘と思はば甲子園に聞け」などが有名。現在も桜美林大学町田キャンパス内に「我が霊や 天に昇らで 永えに 留まるべきぞ 桜の園に」という辞世の歌が刻まれた歌碑が建てられている。

家族[編集]

  • 前妻・横田美穂 ‐ 崇貞学園初代校長。1918年に安三と結婚し、夫ともに北京で崇貞工読女学校を設立、夫の留学中と日本帰国後も、校長として一人で10年ほど北京で同校を切り盛りしたが、結核により38歳で死去。[6]
  • 後妻・小泉郁子
  • 二男・清水畏三(1927年生) ‐ 第3代学園長、第5代理事長[7][8]。北京で生まれ、北京日本中学校を経て旅順高等学校 (旧制)在学中に敗戦、日本人引き揚げ作業を手伝い、帰国後第一高等学校 (旧制)(のちの東大)編入、卒業後、東大新聞研究所、共同通信社で記者を務め、1968年より桜美林学園勤務。著書に『列伝風ハーバード大学史(1636〜2007年) : 学長さんたちの成功と失敗』がある[9]

人物[編集]

人脈も広く、北京の崇貞学園時代に魯迅周作人の兄弟と知り合い、度々、兄弟の自宅を訪ねていた。当時周作人はそれなりに名を知られていたが、魯迅はまだ無名であった。安三は当時の日本の有名人を何人も周に紹介していたが、ある時、1人で周の自宅を訪ねると門番に止められ会えなかった。何度も交渉するがどうしても会えず、その時、門番との言い争いに気づいた魯迅が奥から出て来て周に代わり自宅に上げたとされる。以降は周だけでなく魯迅とも親交を深めることになり、魯迅の温厚な人柄を気に入った安三は帰国後、日本国内で魯迅について宣伝し魯迅を有名にしたとされる。また日本帰国後、現在はカレー専門店であり、当時は文化サロンとして文人や芸術家の交流の場であった新宿中村屋に頻繁に出入りしており、ロシアから亡命していた盲目の詩人、エロシェンコとも交流があった。1927年には日本国民新聞(現・読売新聞)の契約記者として中国南方へと派遣され、九江にて当時、中華民国の総統だった蒋介石へのインタビューに成功し、記事にしている。北伐を行っていた蒋介石はこの直後に南京臨時政府を樹立した。

1919年~1920年にかけ、ジョン・デューイバードランド・ラッセル北京大学に特別講師として招かれ講義を行っていた。この時の聴講生は大半が中国人であったがその中でただ1人だけ日本人がいたという記録があり、それが安三であった。これ以降、ラッセルの教育哲学に深く影響を受けた安三は自由主義者となった。

1919年5月4日、天安門で始まったデモ行進「五・四運動」を目撃し、その状況を記した論文を日本国内に寄稿した。これが清水の最初の論文とされる。

辛亥革命の後、中国共産党設立に大きく貢献し、日本にも留学していた李大釗とは彼がまだ無名の頃から親交があった。1927年4月28日に李が処刑されると同年5月8日の北京週報に弔文を載せた。その中で清水は「その読書振りに驚いた」と記している。李は生前、清水と同じくラッセルに強く影響されたらしく、英語で書かれていたラッセルの本はほぼ全て読破していたとの事。今日、李の功績は中国国内だけでなく日本を始め世界各地で知られているが、息子の清水畏三によれば、その人柄を日本に紹介し李大釗の名を日本で有名にしたのは安三だったとされる。

清水は生前、自著『石ころの生涯 崇貞・桜美林物語』にて自らを「石ころ」と称している。これは清水が中学生時代に、自分以外の親友の成績はとても優秀だったが、彼らと比べると自分はいつも劣等生だったからとの事である。やがて意気地もなくなり、そのコンプレックスが当時の清水の大きな悩みとなっていた。やがて神学を専攻する様になった清水はある教会で牧師の「神は同志社のキャンパスに転がっている石ころさえも新島襄となせる」という言葉に深く感銘を受け、「神はこの石ころのような劣等生清水安三すらも、なお同志社の創立者新島襄となしうる」と考えるようになったと言われる。生前、歌人として使っていた雅号「如石」には、そのような思いが込められているとの事。

略歴[編集]

著書[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 『朝陽門外の虹』山崎朋子、岩波書店、2003、p18-21
  2. ^ あの建築家のヴォーリズが母校膳中の教壇で(2018.9.14)滋賀県立膳所高等学校同窓会
  3. ^ 同志社山脈編集委員会編 『同志社山脈』 晃洋書房、2003年、66-67頁
  4. ^ 『清水安三と北京崇貞学園』(不二出版、2003年)
  5. ^ 自伝『朝陽門外的清水安三』(朝阳门外的清水安三) (中国語)
  6. ^ 清水安三滋賀県立膳所高等学校同窓会
  7. ^ 太田哲男「崇貞学園・桜美林学園と清水安三」『国際基督教大学学報 3-A,アジア文化研究別冊』第21巻、国際基督教大学アジア文化研究所、2016年3月、31-38頁、doi:10.34577/00004154ISSN 09166734CRID 1390009226498238208 
  8. ^ 桜美林の歩み桜美林中学校・高等学校公式サイト
  9. ^ 清水畏三(しみずいぞう) 先生広島大学高等教育研究開発センター
  10. ^ 新島襄という 清水安三の夢 - 同志社大学
  11. ^ 日本キリスト教文化協会 顕彰者一覧※2022年10月23日閲覧

外部リンク[編集]