波の伊八

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波の伊八(なみのいはち、宝暦元年(1751年) - 文政7年(1824年))は、安房国長狭郡下打墨村(現・千葉県鴨川市打墨)生まれの宮彫師、武志伊八郎信由。

武志伊八郎信由
たけしいはちろうのぶよし
生誕1751年
死没1824年12月19日
墓地千葉県鴨川市打墨
国籍日本の旗 日本
代表作飯縄寺行元寺妙法寺 (杉並区)など

人物[編集]

江戸時代中期には、建築様式として欄間を飾る彫刻が流行していた。多くの関西の彫刻師から、「関東に行ったら波を彫るな」と言わしめた人物がいた[1]。初代伊八こと、武志伊八郎信由である。

伊八は、下打墨村で代々名主を務めた武志家の5代目として生まれたといわれている。10歳の時から彫刻を始め、躍動感と立体感溢れる横波を初めて彫り以来作風を確立し、同世代に活躍した葛飾北斎の「富嶽三十六景」の代表作の1つ、「神奈川沖浪裏」などの画風に強く影響を与えたといわれ、文政7年に没するまで意欲的に作品を造り続けた。

その作風は、五代目伊八(高石伊八朗信月:明治23年-昭和29年)まで200年に亘って続き、房総南部を中心に神社寺院の欄間彫刻などに秀れた作品を残した。

武石家[編集]

武石家の家系図を記したという雁皮は関東大震災で焼失したという。

1578年の国府台合戦市川市にあった城が落城した際、白猿に導かれた兄弟が南無谷に落ち延びたという。兄は鹿野山へ、弟は下打墨村塚廻に住み、武石家を名乗ったと言われている[2]千葉常胤の三男で里見氏の家臣である武石胤盛の流れを汲む可能性が指摘されている[3]

武石家は代々下打墨村塚廻に住んでいた。武石家が檀家の鴨川市貝渚永泉寺の過去帳によると、1680年に亡くなった庄左衛門が最古である。庄左衛門から6代目が伊八である。武石家の屋号は萬右衛門だったため、伊八の龍は「萬内の龍」、伊八は「彫物師萬内」と呼ばれていた[4]

作風[編集]

波のモチーフが得意で、様々な題材と組み合わせている。特に「波と龍」が知らている。「関東に行ったら波を彫るな」という発言が伊八の腕前を表現するのに用いられるが、これは4代目伊八の次男である高石明氏が関西の職人仲間から聞いた話である[5]。その波の作風が完成したのが行元寺の「波に宝珠」と言われている。

また、葛飾北斎神奈川沖浪裏行元寺の「波に宝珠」に影響を受けて完成したとする説がある。直接的な証拠はないが、裏付けようとする研究がいくつか存在する。参考文献に上げた片岡栄もその一人である。

2代〜5代[編集]

2代 武志伊八郎信常(常香)[編集]

1787年天明7)〜1852年嘉永5)
初代が自分の作風を確立するのに長い時間を要したのとは対照的に、初代の作風を忠実に受け継いた作品を作り続けた。藻原寺など。

3代 武志伊八郎信美(信秘)[編集]

1816年文化13)〜1889年明治22)
向拝において、虹梁と中備の龍を一体化した独特な意匠で知られる。打墨村の戸長として治水事業などを行う側面もあった。誕生寺境内の太田稲荷堂など。

4代 武志伊八郎信明(仙蔵)[編集]

1862年文久2)〜1908年明治41)
3代の嫡男が22歳で他界したため、香取郡常盤村の山瀬家から養子を迎え相続させた。代表作である柴又帝釈天の界隈では信明のことを「仙蔵さん」と呼んで慕っていたことが伝えられている[6]

5代 武志伊八郎信月[編集]

1890年明治23)〜1954年昭和29)
4代とともに柴又帝釈天を手掛けた。技術を十分に継承できないまま信明が亡くなったたためか、サイズの大きい作品が少ない。1932年(昭和7)に東京都に転籍し、判子業を営んだ。これ以来房総半島での作品は存在しない。小湊神社など。

弟子[編集]

磯八[編集]

一番弟子。鴨川市西福寺の銘から、伊八は26歳のときにはすでに師事していたことがわかる。1761年生まれで伊八とは9歳違い、鴨川市横尾出身。「信」の字を受け継ぎ「信市」、「信房」を名乗る。鴨川市竹平の西福寺や富津市上飯野の大福寺など。

久八[編集]

年齢不詳、名古屋出身。二番弟子だが技量は弟子の中で最も高いと評価されている。勝浦市興津の妙覚寺 (勝浦市)勝浦市市野郷の真福寺など。

武志利助・武志瀧蔵[編集]

武志姓を名乗る弟子たち。それぞれ鴨川市大幡龍江寺の須弥壇、鴨川市江見諏訪神社の屋台にのみその名が刻まれている。

代表作[編集]

波の伊八を題材とした講談[編集]

講談師神田あおい 新作講談波の伊八[7]

波の伊八を題材とした歌謡曲[編集]

演歌歌手美月優「波の伊八」(2017/08/02 発売)[8]

脚注[編集]

参考文献[編集]