泉親衡

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泉親衡
時代 鎌倉時代初期
生誕 1178年治承2年)?
死没 1265年7月2日(文永2年5月19日)?
改名 入道静海
別名 小次郎(通称)[1]、親平[2]
幕府 鎌倉幕府
主君 源頼家実朝
氏族 清和源氏満快流信濃泉氏
父母 父:泉公衡(あるいは片切二郎禅師行心)
母:不明
兄弟 親衡、俊衡、頼衡、公信
正室:井上経長の娘?
満衡
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泉 親衡(いずみ ちかひら、治承2年(1178年)?[注釈 1]-文永2年5月19日1265年7月3日)?[3])は、鎌倉時代初期の信濃国武将[1]鎌倉幕府御家人。通称・泉小次郎。信濃源氏泉次郎公衡の子[2][4]泉親衡の乱の首謀者。名を親平とも書く。

出自[編集]

信濃国小県郡小泉荘(現長野県上田市)を本拠としたと言われる泉氏は、源満仲の五弟満快の曾孫・信濃為公の後裔と伝えられ[1]、親衡は満快の十代孫に当たる。しかし後述するように親衡には荒唐無稽な伝説が附与されたため、実像ははっきりしない。子孫は信濃国飯山を拠点とし、泉氏として栄えた。

神奈川県横浜市泉区には親衡の居館と伝わる城跡泉小次郎親衡館)が残る[5]

北条家への反旗[編集]

建暦3年(1213年)、源頼家の遺児千寿丸鎌倉殿に擁立して[1][2]執権北条義時を打倒しようと図り[2]、郎党の青栗七郎の弟で安念坊という僧を北条氏に批判的な御家人に遣わし挙兵への協力を求めていたが、千葉成胤により安念坊が捕縛され、彼の自白により陰謀は露見[2]。直ちに遣わされた捕縛の使者と合戦に及び、その混乱に乗じて逐電した。この時の配下に青栗四郎・保科次郎・籠山次郎・市村近村、粟沢太郎らの名が見える。その後の親衡の行方は不明。

埼玉県川越市小ヶ谷町にある瑶光山最明寺の縁起によると、親衡は千寿丸とともに当地に落ち延びて出家し「静海」と名乗り、文永2年5月19日1265年7月3日)に88歳で没したとされ、静海の宝篋印塔も残るという[6][7]

乱の後、小泉荘は北条泰時に没収され、泰時が荘内の室賀郷を善光寺に寄進した。

創作の中での泉親衡[編集]

上記合戦時の奮闘ぶりにより後世大力の士として朝比奈義秀と並び称され[2]、様々な伝説を産んだ。江戸時代には二代目福内鬼外森島中良)が『泉親衡物語』と題した読本を著している。一方、信濃国の民話に登場する先史時代泉小太郎と同一視されることにより、の化身としたり犀を退治したという昔話の主人公にもなっている。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 出典(横浜市泉区 1996 pp.74)記載の没年と年齢(数え年として)から逆算。

出典[編集]

  1. ^ a b c d 【泉親衡(いずみ・ちかひら)】” (日本語). 朝日日本歴史人物事典(菅野文夫). 2013年5月24日閲覧。
  2. ^ a b c d e f いずみちかひら【泉親衡】” (日本語). 世界大百科事典 第2版. 2013年5月24日閲覧。
  3. ^ 横浜市泉区 1996 pp.74
  4. ^ なお、『尊卑分脈』には片切氏一族の僧・行心(片切二郎禅師)の子としても「泉二郎親平」を載せる。
  5. ^ 平井 1980 pp.306-307
  6. ^ 横浜市泉区 1996 pp.74
  7. ^ 「長福寺と伝泉小次郎館跡」横浜市泉区公式HP

関連書籍[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]