コンテンツにスキップ

永松東海

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
永松良侶から転送)

永松 東海(ながまつ とうかい、天保11年9月29日1840年10月24日) - 明治31年(1898年5月11日)は、幕末から明治期の日本医師陸軍軍医肥前国出身。江戸時代の蘭法医から近代医師登場までの過渡期において、後進の育成と薬事の確立に寄与した。

経歴

[編集]

天保11年(1840年)9月29日、佐賀藩医を務める原家に生まれ通称を東太郎と称す。慶応元年(1865年)に同じく藩医である永松玄洋の養子となる[1][2]

幼くして優秀と認められ藩校儒学等を修めた後、藩主・鍋島直正が天保5年(1834年)に創設した医学館「好生館」にて医術を習い、江戸に遊学し松本良順佐倉にて佐藤尚中に師事した後、長崎にて蘭医に就くと共に医学校に通った[1]

戊辰戦争勃発後、明治元年(1868年)から佐賀藩兵に軍医として従軍し、上野戦争白河口の戦い会津戦争に加わり、明治維新後は大阪医学校東京医学校生理学を講じ、明治7年(1874年)に初代東京司薬場(日本で初の医薬品研究機関)長となり、その創設期の薬整備に尽力した[1]。また、西南戦争において大阪臨時病院において傷病兵看護を行い、その後明治13年(1880年)12月『日本薬局方』編纂委員の一人として薬局方制定に尽くし、明治19年(1886年)の陸軍軍医学舎設立と共に同校の教官となり[1][2]、軍医学校においては防疫学創設の功労者と言われている[2]。明治23年(1890年)、第1回日本医学会総会で講演を行い、明治26年(1893年)11月に陸軍を辞す[2]

明治31年(1898年)5月11日に東京で没し、青山霊園に葬られた。

年譜

[編集]

※日付は明治5年まで旧暦。(出典:[1][2]

  • 天保11年(1840年9月29日:誕生。
  • 安政元年(1855年):藩儒・福嶋文蔵の塾に入塾する。
  • 安政3年(1857年):藩立蘭学寮に通い、オランダ語を学ぶ。
  • 安政5年(1859年):佐賀藩医学館「好生館」において蘭学医術を修める。
  • 文久3年(1863年):好生館指南役差次に任命される。
  • 元治元年(1864年):江戸遊学を命じられ、松本了順の門に入塾。下谷医学所に通い、開成校にてドイツ語英語を学んだ。
  • 慶応2年(1866年):佐倉藩佐藤尚中について医学を研究する。
  • 慶応3年(1867年):長崎にて蘭医ボードウィンマンスフェルトハラタマ医学理化学を学び、長崎医学校に通う。佐賀藩医学校より医術開業免状を得る。
  • 明治元年(1868年):戊辰戦争勃発に伴い佐賀藩兵に軍医として従軍し上野戦争白河口の戦いより会津の戦いに加わる。
    • 12月:佐賀に凱旋する。
  • 明治2年(1869年
    • 5月:大学三等教諭に任じられ東京医学校に勤める。
    • 7月:東京医学校中助教に昇任する。
    • 10月:大阪医学校への勤務を命じられる。
  • 明治3年(1870年 )11月:大学大助教に昇任する。
  • 明治4年(1871年
    • 3月:東京赴任を命じられるが病により帰郷。
    • 4月:佐賀にて学校中教諭に任じられる。
  • 明治5年(1872年 10月:文部省に出仕を命じられ、第一大学区医学校教授に専任する。
  • 明治6年(1873年
    • 2月:京都療病院医業取締を命じられる。
    • 8月:司薬取調御用掛を命じられる。
  • 明治7年(1874年)
    • 2月:司薬掛となる。
    • 4月:初代東京司薬場長に就任する(明治8年(1875年)2月に辞任)。
  • 明治9年(1876年
    • 8月:陸軍二等薬剤正([中佐]相当)となり、陸軍病院第3課に出仕する。
    • 11月:陸軍病馬厩馬医教官を兼務する。
  • 明治10年(1877年
    • 2月:東京府より医術開業を許可される。
    • 4月:大阪陸軍臨時病院付を命じられる。
    • 5月:陸軍二等軍医正(中佐相当)に任じられ、西南戦争に伴う医療に従事する。
    • 12月:帰京する。
  • 明治11年(1878年
    • 7月:文部省御用掛を兼務し、東京大学医学部教諭に就任する。
    • 12月:東京大学より製薬学校取締に任じられる。
  • 明治13年(1880年
    • 9月:陸軍病院勤務を命じられる。
    • 12月:日本薬局方編纂を命じられる(明治17年(1884年12月)免官)。
  • 明治14年(1881年
    • 7月:東京大学医学部教授に就任する。
    • 9月:東京大学文学部教授を兼務する。
  • 明治17年(1884年)10月:陸軍一等軍医正(大佐相当)に昇任し軍医本部勤務を命じられる。
  • 明治18年(1885年)9月:東京医術開業試験委員を委嘱される。
  • 明治19年(1886年)5月:陸軍軍医学舎教官に任じられる。
  • 明治20年(1887年
    • 5月:陸軍医務局第二課長を兼務する。
    • 6月:軍医部下士卒教科書編纂に従事する。
  • 明治21年(1888年)12月:陸軍軍医学校教官、医務局第二課長を免じられる。
  • 明治22年(1889年)8月:陸軍衛生会議議員に任命される。
  • 明治23年(1890年):第1回日本医学会総会において講演を行う。神奈川県大磯での火事に際し貧民救護を行う。
  • 明治24年(1891年):濃尾地震において寄付行為を行う。
  • 明治26年(1893年):陸軍を退官する。
  • 明治31年(1898年5月11日:死去。

栄典

[編集]

著書

[編集]
  • 「定性化学試験要領 全5巻」(永松東海編 島村利助 1876年)
  • 「生理学」(永松東海著 丸屋善七他 1881年)
  • バクテリア図鈔」(永松東海編訳 丸屋善七他 1888年)

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e 「明治医家列伝 第4編」 P114「永松東海」の項(近藤修之助等著 近藤修之助 1894年)
  2. ^ a b c d e 「藤野・日本細菌学史」 P160「脚注 2)永松東海」(藤野恒三郎著 近代出版 1984年)
  3. ^ 『官報』第1936号「叙任及辞令」1889年12月10日。

参考文献

[編集]