橋本卯太郎
はしもと うたろう 橋本 卯太郎 | |
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生誕 | 1869年3月![]() 岡山県下道郡秦下村 (現在の総社市秦) |
死没 | 1938年7月7日(69歳没) |
出身校 | 東京工業学校 (のち東京高等工業学校、現東京工業大学) |
職業 | 実業家 |
配偶者 | 橋本マツ |
子供 | 橋本宇一(長男・金属工学者) 橋本宙二(二男・海軍軍人、実業家) 橋本乾三(三男・検事、認証官) 橋本龍伍(五男・大蔵省官僚、政治家) 橋本虎六(六男・薬理学者) 理家(長女・橋本良平の妻) 光枝(二女・天野潔の妻) 橋本龍太郎(龍伍の長男、内閣総理大臣) 橋本大二郎(龍伍の二男、高知県知事) 橋本岳(龍太郎の二男、厚生労働大臣政務官) |
橋本 卯太郎(はしもと うたろう、明治2年(1869年)3月 - 昭和13年(1938年)7月7日)は、日本の実業家。大日本麦酒(現・サッポロビール)の常務取締役を務めた。酵母を扱う技師から常務に出世した[1]、明治、大正期における郷土出身の立志伝中の一人である[2]。東京府平民[3]。
厚生大臣、文部大臣などを歴任した橋本龍伍の父。内閣総理大臣を務めた橋本龍太郎、高知県知事を務めた橋本大二郎の祖父。衆議院議員の橋本岳の曾祖父。
経歴[編集]
生い立ち[編集]
橋本源三郎の長男[4]として岡山県下道郡秦下村(現総社市秦)の旧家に生まれた[2]。
農民だった卯太郎は[1]、わらじをつくって旅費をかせぎ、明治20年(1887年)、20歳のとき「男子一たび郷関を出づ、功ならずんば二度と郷土にまみえず」と意を決し、東京へ出た[2]。
学生時代[編集]
東京では苦学力行、新聞配達や牛乳配達で生計を立て、雪をかんで空腹をいやし、新聞のふとんで寒さをしのぐなど、血の滲むような苦労をした[2]。
明治27年(1894年) 東京工業学校(後に東京高等工業学校と改称、現東京工業大学)機械科を卒業した[4]。
大日本麦酒[編集]
馬越恭平に見込まれ、日本麦酒株式会社に入社する[1]。明治33年(1900年)、醸造業視察のため欧州各国に派遣される(1901年まで)。明治38年(1905年)、麦酒機械購入のため再び欧州へ派遣される(1906年まで)。
明治39年(1906年)、札幌麦酒、大阪麦酒、日本麦酒の3社が合併し、大日本麦酒株式会社が誕生した。卯太郎は引き続き機械課長工務部長に就任する。
大正8年(1919年)に取締役に就任、大正10年(1921年)に常務取締役に就任する。技術重役として大成した[2]。
人物像[編集]
- 『明治大正人物史』による記述[4]
- 元衆議院議員山崎始男による回想[2]
- 橋本先生のお父様橋本卯太郎氏は、明治、大正期における郷土出身の立志伝中の一人であります。総社市秦の旧家に生まれられましたが、たびたびの高梁川の洪水に見舞われ、家は流され、田畑は荒れ、非常に貧乏なおうちでありました。向学の精神に燃えた宇太郎氏は、わらじをつくって旅費をかせぎ、明治の二十年、ちょうど二十才のとき、男子一たび郷関を出づ、功ならずんば二度と郷土にまみえずと意を決し、東京へ出られたのであります。
- 以来、苦学力行、新聞を配達したり牛乳を配ったり、雪をかんで空腹をいやし、新聞のふとんで寒さをしのぐなど、まことに血の出るような苦労をされまして、ついに蔵前の東京高等工業学校機械科を卒業されたのであります。卒業の年、あたかも馬越恭平先生がヱビスビールの社長として工場創設の年に当たり入社され、ついに後年技術重役として大成をされたのであります。
家族・親族[編集]

橋本家[編集]
- 父・橋本源三郎(岡山県平民[3])
- 妻・マツ(熊本県、熊本藩士石光真民の娘、軍人石光真清、陸軍中将石光真臣の妹、陸軍主計総監男爵野田豁通の姪)
- 長男・宇一(学者)
- 二男・宙二(軍人・海軍大佐)
- 三男・乾三(検事)
- 四男・坤四郎
- 五男・龍伍(官僚・政治家)
- 六男・虎六(学者・東北大学教授)
- 長女・理家(岡山県、橋本良平の妻)
- 二女・光枝(島根県、天野潔の妻)
- 孫
- 曾孫
- 岳(政治家)