桑山重晴
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![]() 桑山重晴像(宝樹院蔵) | |
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 大永4年(1524年)[1] |
死没 | 慶長11年10月1日(1606年11月1日) |
別名 | 重勝、桑山治部卿法印 |
戒名 | 果法院殿春谷宗栄大居士 |
墓所 |
京都府京都市北区紫野大徳寺町の大徳寺清泉寺 和歌山県和歌山市鷹匠町の珊瑚寺 |
官位 | 従五位下、修理大夫 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 丹羽長秀→豊臣秀吉→秀長→秀保→秀頼→徳川家康→秀忠 |
藩 | 和泉谷川藩主 |
氏族 | 桑山氏 |
父母 | 父:桑山以則 |
兄弟 | 重正 |
妻 | 齋藤吉兵衛の娘 |
子 |
一重、元晴、貞晴 養子:一晴、清晴 |
桑山 重晴(くわやま しげはる)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。大和新庄藩桑山家初代。千利休から茶道を学んだ茶人でもある。
生涯[編集]
大永4年(1524年)、尾張国海東郡桑山ノ庄で桑山以則の子として生まれた。桑山家は鎌倉幕府の有力御家人・結城朝光の子孫であるとされる[2]。
織田信長の家臣・丹羽長秀に与力として仕え、姉川の戦いなどで活躍し、羽柴秀吉から冷静沈着な戦いぶりを賞賛された。天正2年(1574年)に秀吉の要請を受けて丹羽家から羽柴家へ移り、天正8年(1580年)には但馬国竹田城主となって1万石を与えられた。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは賤ヶ岳砦を佐久間盛政の攻撃から死守するなどの武功を挙げ、2万石に加増された。
天正13年(1585年)、紀州征伐の後に秀吉の弟・秀長が紀伊の領主になると、同年5月に大坂城で秀吉から秀長の家老職を命ぜられ、3万石への加増を受けて和歌山城代となった。
文禄4年(1595年)7月8日、豊臣秀次が謀反の疑いを釈明するために伏見城を訪れた際、伏見城大手門の守備を任された。その功により、和泉国日根郡谷川に1万石を加増されて4万石となった。
慶長元年(1596年)に出家し、以後は桑山治部卿法印を名乗る。同年5月11日に修理大夫の官位を嫡孫の一晴に譲り、一晴に2万石、次男の元晴に1万石を分与し、重晴は1万石のみを治めた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、一晴から4000石、元晴から2000石を譲り受け、1万6000石を治めることとなった。
慶長11年(1606年)10月1日に死去、享年83。谷川の所領のうち次男元晴が6000石、その子で孫の清晴が1万石を相続した。
脚注[編集]
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