コンテンツにスキップ

林清一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
林 清一
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県
生年月日 (1915-10-31) 1915年10月31日
没年月日 (1990-05-23) 1990年5月23日(74歳没)
身長
体重
172 cm
67 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 中堅手
プロ入り 1936年
初出場 1936年
最終出場 1947年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

林 清一(はやし せいいち、1915年10月31日 - 1990年5月23日[1])は、愛知県出身のプロ野球選手外野手)。

来歴・人物

[編集]

享栄商業学校立命館大学を経て、1936年東京巨人軍に入団。1年目からトップバッターとしてレギュラーに定着し、主に中堅手を務めた。同年秋季シーズンでは打率.267と15打点のいずれもチームトップの成績を記録する。また、同年には日本プロ野球公式記録上初の四球による出塁者となっている(7月1日の対名古屋軍戦で、ハーバート・ノースから)。翌1937年1月には応召により退団した。

1940年に巨人に復帰すると外野手の控えとなり、1942年から登録名を林清光に変更[2]、翌1943年まで在籍した。

1946年プロ野球が再開されると、巨人は道後温泉で春季キャンプを行う。戦後すぐの混乱期の中、林は食糧係として朝から晩までトラックを買いに回り、時には官憲の目をくぐるなど食糧調達に奔走。当時の外野手は林を含めて3人しかいなかったにもかかわらず、林は練習に参加できなかったほど多忙であったが、林の奔走によりチームメイトは毎日三度の食事にありつけたという[3]。同年は中島治康が復帰するまで右翼手のレギュラーを務め試合数の半分近くの48試合に先発出場するが、翌1947年平山菊二小松原博喜の加入によって林の出番が減少してわずか8試合の先発出場に留まり、同年限りで引退した。

引退後は、読売ジャイアンツの営業施設担当総務を務めた[4]

詳細情報

[編集]

年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1936春夏 巨人 7342844101840--2--4--04--.143.250.286.536
1936秋 279990824600301510--0--9--011--.267.333.333.667
1940 62187165112721031108--2118--121--.164.249.188.437
1941 38423735000510--1--4--03--.135.220.135.355
1942 486255812000125102--5--06--.218.283.218.502
1943 2422191400041101--2--02--.211.286.211.496
1946 5821518617465115628432--24--312--.247.343.301.644
1947 3657518710083002--4--083.137.200.157.357
通算:7年 3007186316012915221546724312170--4673.204.288.244.532
  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号

[編集]
  • 20 (1936年、1946年 - 1947年)
  • 1 (1940年 - 1943年)

登録名

[編集]
  • 林 清一 (1936年 - 1941年)
  • 林 清光 (1942年 - 1947年)

脚注

[編集]
  1. ジャイアンツ栄光の70年 1934-2004、140ページ(2004年、ベースボール・マガジン社)
  2. 巨人軍在籍選手成績(打撃編) 読売ジャイアンツオフィシャルサイト
  3. 『巨人軍の男たち』41頁
  4. 『巨人軍の男たち』40頁

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]


外部リンク

[編集]