李全

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李 全(り ぜん、? - 1231年)は、金末に活躍した紅襖軍の首領の一人。

当初は金朝からの支配を脱するべく「紅襖軍」と呼ばれる反乱軍の頭目として自立したが、後には南宋に帰順して「忠義軍」と呼ばれ金朝軍との戦いに従事した。しかし晩年にモンゴル帝国の侵攻を受けて降伏し、モンゴルの庇護の下益都一帯を支配する漢人世侯としての勢力を確立した末に亡くなった。その一生を通じて金朝・反乱軍・南宋・モンゴル帝国と所属を幾たびも変えた末に戦死しため、モンゴル時代(元代)より批判的に評されることが多かったが、近年では忠義人として評価する研究者もおり、その評価については議論がある。

概要[編集]

紅襖軍に加わるまで[編集]

李全は濰州北海の農家の子で、3人兄弟の末子であったため、「李三」とも呼ばれていた[1]。生年については記録がないが、活動開始時期からして1180年頃の生まれとみられる[1]。李全は長じると弓馬の腕を磨き、特に鉄槍の扱いに長けていたことから、「李鉄槍」と号されたという[2][3]。山東地方の地方志である『斉東野語』によると、李全は当初牛馬の販売を生業としていたが、益都府で知り合った商人の張介とともに漣水県に行く途中に盗賊にあって財産を失い、やむなく漣水県の弓卒になったとされる[2][4]

この頃、山東地方では金朝の強行した「冒占官地の分配」政策によって土地を失った農民が反金感情を高まらせており、河北の領土奪還を掲げる南宋がこれを利用しようと企んでいた[1]1205年開禧元年)5月27日、李全は南宋の鎮江都統威供が派遣した朱裕と組んで連水県を焼き討ちし、6月2日まで5日に渡って連水県を占拠した[2][5]。ところが、これに激怒した金朝朝廷が南宋に責任者の処罰を求めた所、南宋はあっさり李全らを見限り、同年8月に朱裕を殺害してその首を金・宋国境上で晒し首とした[2]。なお、この1件は『宋史』李全伝などには記録がなく、『宋史』寧宗紀や『金史』章宗紀にのみ記述されている[2]

紅襖軍頭目としての自立[編集]

その後 1210年代に入るとモンゴル帝国が金朝領全土を席捲し、1213年には山東地方に侵攻した東道諸王率いる部隊によって李全の母と長兄もこの時殺害されたと伝えられる[6]。連年の金南宋・モンゴル3国の征戦に巻き込まれ困窮した山東地方の民はここに至って遂に蜂起し、1211年頃より「紅襖軍」と呼ばれる反乱軍を形成した。この頃の紅襖軍は楊安児・劉二祖という有力者によって2分されており、前者は金朝の行政区分で言う所の山東東路を、後者は山東西路を中心にそれぞれ勢力を拡大していた[7]。一方、李全は生き残った次兄の李福とともに数千の兵を集め、自立して密州西南の九仙山を根拠地とした[8]。この頃の李全の配下には、劉慶福・国安用・鄭衍徳・田四・于洋・洋弟潭らが傘下についた[8][9]。九仙山は要害であるだけでなく塩徒・密売人・反乱者・盗賊などが集う山東地方の重要な結節点であり、李全は内陸部と産塩地を往来する塩徒を配下において様々な情報を得ていたと考えられている[8]。なおこの頃、楊安児配下の元帥が密州を拠点としていたが、両者の間に交流があったとの記録は存在せず、李全は楊安児勢力を競合相手として距離を置いていたようである[8]

楊安児勢力の継承[編集]

しかし、1212年崇慶元年/嘉定5年/壬申)にモンゴル軍と金朝との間で一時的に和議が結ばれると、金朝は僕散安貞率いる討伐軍を派遣して紅襖軍を鎮圧しようと図った[10]。金朝は完顔霆を山東行省に、黄摑を経歴官に任命し、彼らによって滴水で敗北した楊安児は南方に逃れる道を断たれ、即墨に逃れようとした。これに対し金軍は楊安児の首に千金をかけたため、楊安児は船に乗った所で殺されてしまった[10]。楊安児には子供がいなかったが、妹の四娘子が女性ながら騎射に長けた剽悍な人物で、楊安児の配下であった劉全が残党を集めて四娘子を推戴した[10][11]。首領となった楊妙真(四娘子)は 「姑姑」と呼ばれて1万余りの残党軍を率い磨旗山を拠点としたが、ここに金朝からの攻撃を免れていた李全が合流し、李全と楊妙真は結婚して李全が首領の地位を継ぐこととなった[10]。一方、劉二祖もまた安貞の攻撃によって敗死し、その勢力は一時的に霍儀が継承していた。

この頃、金朝が開封への遷都(貞祐の南遷)を強行したことを切っ掛けにモンゴル軍は侵攻を再開したため、河北一帯は事実上の無政府状態に陥り、金朝は李全ら紅襖軍残党に手を出す余力を失っていた。この間、李全は山東東路の沿海地方に勢力を拡大し、劉二祖の勢力を継承した霍儀とも戦って勝利を収めている。その後、霍儀は沂州を攻撃して失敗し、徐州に向かう途上で殺されたため、その残党のうち彭義斌らは李全に降り、残りは石珪らに率いられて自立した[12][13]

南宋への帰順[編集]

更に、1217年(貞祐5年/嘉定10年/丁丑)には故地回復を掲げる南宋も金朝と開戦したが、このために山東地方にあって自立する李全ら紅襖系勢力がにわかに注目されるに至った[14]。この時、かつて楊安児の下にいたが南宋に亡命した沈鐸・季先らが知楚州の応純之の命を受けて紅襖系勢力を味方に引き入れるべく活動し、ここに至って食料不足に悩んでいた紅襖系首領は次々に南宋に帰順を表明した[14]。南宋側は軍を沈鐸と高忠皎の二手に分けて金朝領に侵攻しており、李全は5千の兵を率いて高忠皎軍に合流して海州を攻めたが、この時は食料不足のため一時東海に退却している[14]。12月、李全は改めて兵を分けて莒州を攻撃し、守将の蒲察李家を捕らえることに成功した[15]。また、配下の別将は密州を攻略し、兄の李福は青州を平定したため、李全の功績を認めた南宋朝廷は1218年興定2年/嘉定11年/戊寅)正月10日(壬午)に正式に李全を京東路総管に任命した[14][16]。応純之は北伐軍が勝利を重ねるのを見て朝廷に今こそ中原恢復の時であると進言したが、南宋朝廷の実権者であった丞相史弥遠開禧用兵が失敗した経験から北伐には慎重な態度を示した。一方、これより李全らは南宋より「忠義軍」と呼ばれるようになり、また「忠義糧」と呼称された1万5千人分の食糧が南宋より紅襖軍=忠義軍に支給されるようになった[17]。ただし、この「忠義糧」は紅襖軍を南宋に帰順させた立役者の沈鐸らに優先して支給されており、これが後の紅軍どうしでの内部対立の遠因となった[18]

しかし1218年に入ってからは金朝側も逆襲を開始し、4月22日(丁卯)には南宋軍が膠西で敗れ、来援した李全も敗走した[19][20]。また、4月27日(戊辰)には密州で李全は敗れて将校数十人・士卒700人が金軍に降り、5月4日(甲戌)には莒州・日照県の南でも招撫副使の黄摑阿魯答に敗れて40里にわたって追撃を受けた[20][21]。なお、李全と協力関係にあった高忠皎も海州に侵攻したものの2月に朐山で戦死したが、その勢力は李全が継承したようで、同年5月には李全が海州への侵攻を南宋側に申し出ている[22]。6月からは海州の包囲を開始したが主将の阿不罕の奮闘によってなかなか降らず、7月には鄆州・単州・邳州・徐州から得た援軍とともに高橋で戦闘したが勝利を得られず、やむなく石秋に退守した。その後、李全は方向を変えて密州を再度攻め、9月11日(庚寅)にはようやく主将の黄摑を捕虜として密州を占領することに成功した[23][24]

忠義軍の内紛[編集]

1219年(興定3年/嘉定12年/己卯)に入る頃には山東からの流民が際限なく南宋領に逃れてきたため南宋側も物資不足となり、また罷免された応純之の後任の権楚州の梁丙が忠義糧を削減して漣水軍の自然崩壊を図ったため、最も勢力の小さかった石珪が食料不足に陥った[22]。追いつめられた石珪らは同年1月に「忠義糧」を運ぶ舟を奪い、2月には2万の兵を率いて淮河を渡り楚州南度門を攻撃するという事件を起こした(南度門の変)[22]。これを受けて梁丙は説得のため李全を石珪の下に派遣し、石珪は李全の仲介を受け入れて撤兵し、淮西に侵攻した金軍を迎え撃つために盱眙方面に移ることとなった[22]。同年閏3月、李全は根拠地の東海で選抜した精鋭軍を率いて楚州から出撃し、忠義統轄季先率いる健水忠義軍とともに金軍を破ったが、 李全は「盧鼓槌」の異名を持つ金の猛将乞石烈牙吾答や散安貞を破る大功を立てた[22][25]。僕散安貞は楊安児・劉二祖ら紅襖軍の第一世代を討伐した張本人であり、この一戦によって李全の声望は忠義軍の中で随一になったとみられる[22]。6月には更に益都を拠点とする金の元帥張林を投降させたため、これによって青州・莒州・密州・登州・萊州・濰州・淄州・濱州・棣州・寧海州・済南の12州が李全に投降し、7月中には山東の大部分の経略を完了した[22][26]

同年9月、江淮制置使を発展解消する形で淮東制置使が成立し、以後この機関が紅軍=忠義軍を監督する地位に就いた[27]。一方、同時期に李全は広州観察使・左衛将軍・京東忠義諸軍都統制・楚州駐箱に任命されたが、これは名実ともに李全が全忠義軍の統率者の地位を認められたことを意味した[28]。しかし、歴代の誰東制置使は忠義軍への統制を強めようと厳しい態度で臨んだため、年を経るごとに淮東制置使と忠義軍の対立は激化し、結果として5人の誰東制置使の内3人までもが忠義軍の叛乱に遭って殺害されるという結果に終わっている[27]。9月14日(丙午)に新しく主管淮東制置司公事兼節制京東・河北路軍馬に任命された賈渉は「昔の患は亡金だけであったが、今の患は更に山東忠義と北辺(=モンゴル)が加わっている(昔之患不過亡金、今之患又有山東忠義与北辺)」と評しており、忠義軍を潜在的な敵対勢力とみて事あるごとに忠義諸軍の勢力を殺ぐことを図った[27]。賈渉はまず石珪・陳孝忠・夏らの全軍を分けて両屯とし、李全軍は五砦とした[22]。そして陝西義勇法を用いて諸軍を淘汰し、三万人を整理し、残りの六万人弱に入れ墨して忠義軍として登録し、南軍七万人の監視下に置いた[22]。一方で、これと並行して李全軍に対しては2万人分の銭糧が増額され、楚州に従屯することを許すという懐柔策も講じている[22]

1220年(興定4年/嘉定13年/庚辰)に入ると朝命を受けて出兵し、南宋に内附を求めた厳実の協力によって魏州・博州・恩州・徳州・懐州・衛州・開州・相州の9州を平定した。その後、楚衆や肝胎の忠義軍部隊を率いて東平を攻撃したが、肝胎忠義軍は本来石珪の影響下にある部隊であり、李全は他の忠義軍にも影響力の浸透を図っていたようである[28][29]

全忠義軍の併合[編集]

1220年6月、漣水忠義軍を統轄していた季先が、南宋政府に暗殺されるという事件が起こった[28]。賈渉をはじめ南宋の側では季先の死後、南宋から派遣した将に忠義軍を率いさせようと企んでいたが、予想に反して裴淵・宋徳珍・孫武正・王義深・張山・張友ら連水忠義軍は石珪を新たな首領として迎え入れた[28]。このような経緯から右珪は南宋朝廷に敵視され、同年末には遂にモンゴル帝国に単身投降するに至った[28][30]。残された漣水忠義軍は李全軍に吸収され、また石珪配下の肝胎忠義軍についても、李全が町胎忠義都統に任じられたことで支配下に入った[28][31]

1221年(興定5年/嘉定14年/辛巳)正月、賈渉に対して劉卓とともに泗州を攻めることを請い、許されると盱眙より淮河を渡ってまず泗州の西城を攻めた。これを受けて金朝の側では「盧鼓槌」乞石烈牙吾答を派遣し、李全はこれに大敗して撤退せざるをえなくなった[32]1222年元光元年/嘉定15年/壬午)2月には劉卓が再び泗州西城を奪取し、更に乞石烈牙吾答配下の張惠が李全に寝返ったことでその部下数千人を配下に入れることとなった。またこの頃、塩場を巡って李全の兄李福と張林が対立し、張林もまた石珪と同様にモンゴルに投降したが、後に邢徳という張林の副官が配下を率いて復帰したため、李全に打撃を与えるまでには至らなかった[30][33]

南宋との対立[編集]

1223年(元光2年/嘉定16年/癸未)5月、初代東制置使の賈渉が忠義軍の反抗に遭って楚州を追い出されるという事件が起き、文臣では力不足とみた南宋朝廷は武臣たる淮西都統許国を朝議大夫・淮東安撫制置使に抜擢した[27]。許国は南宋政府の期待通り忠義軍弾圧を遂行したが、これに反発する李全と南宋側の溝はより深まった[34][27]1224年正大元年/嘉定17年/甲申)11月、許国は両淮馬步軍13万人を楚州城外に集めて忠義軍を威圧したが、このような許国の態度は李全ら忠義軍の反感を集めた[27][35]

1225年(正大2年/宝慶元年/乙酉)正月、史弥遠の策動により帝位継承から排除された済王趙竑湖州に移されたが、土豪の潘壬・潘甫などが企てた反乱に巻き込まれた。潘甫は密かに李全と連絡して済王を擁立することを知らせ、李全も期日に合わせて呼応することを約したが、実は形勢を観望するまま助けてくれなかった。李全の援軍が到着せず、クーデターの謀議が発覚することを憂慮した潘壬らは塩賊1千人余りを集めて湖州城にいた済王を訪ねて推戴し、李全軍20万が済王擁立のため南下してくると扇動した。しかし、潘壬の群れが烏合の衆に過ぎないという事実に気づいた済王が朝廷に変を告げ、潘壬・潘甫などはみな誅殺された。湖州での事変に驚愕した史弥遠は刺客を送り済王も殺害したが、李全と結託したという潘壬らの虚言に人々が大いに動揺したとの逸話が伝えてくれるように、この頃の李全軍は既に強大な武力として南宋朝廷から警戒されていたようである[28][36]。同年2月、益都の季全の命を受けた劉慶福が楚州で叛乱を起こすと、許国は襲撃を受けて落命してしまった(劉慶福の乱)。この叛乱には兵数千を率いて揚州に駐屯していた劉全も呼応し、盱眙の南軍にも不穏な動きがあり、他の忠義軍が連鎖的に叛乱を起こすことを恐れた南宋朝廷は結局李全たちを罰することができなかった[27]。このような経緯を経て南宋朝廷は忠義軍に対し懐柔策に転じ、三代目の東制鎧使には李全と親交が厚かった徐晞稷を任命した[27]。徐晞稷は当初こそ叛乱を起こした者たちを斬首するなど厳しい態度で挑んだが、後には彭義斌と対立した李全を救うなど、李全に味方する行動が多かった[37][38][39][40]

モンゴルへの投降[編集]

1226年(正大3年/宝慶2年/丙戌)3月1日、遂にモンゴル軍が山東地方に大挙侵攻してまず青州を陥落させ、各地で敗北を喫した李全は益都に入って籠城を始めた。李全は南宋に援軍を求めたものの、南宋側ではこの機会をとらえて親李全派の徐晞稷を罷免して9月に劉卓を知楚州兼淮東制置使に抜擢し、事実上李全を見捨てる形となった[37][41]

1227年(正大4年/宝慶3年/丁亥)2月、李全が包囲を受け危機的な状況の中、南宋領で孤立した李全の妻楊氏は夏全に助けを求め、これを受けて夏全は蜂起し李福とともに劉卓を攻撃した[37]。この叛乱によって劉卓は死に追い込まれ、南宋朝廷は再び態度を変え李全と親交の深かった姚翀を起用したが、時既に遅く食糧の尽きた李全は同年4月にモンゴル軍に降ることとなった[37][42]

以後、李全は矛先を変えて南宋への攻撃を繰り返したが、1231年(正大8年/紹定4年/辛卯)正月に南宋軍との戦いの中で敗死した。死後、その勢力は一時的に妻の楊氏が受け継いだが、後には李全の養子であった李璮が継承することとなった。

脚注[編集]

  1. ^ a b c 池内1977,30頁
  2. ^ a b c d e 池内1977,31頁
  3. ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「李全者、濰州北海農家子、同産兄弟三人。全鋭頭蜂目、権譎善下人、以弓馬趫捷、能運鉄槍、時号『李鉄槍』」
  4. ^ 『斉東野語』巻9李全伝,「李全淄州人、第三、以販牛馬来青州、有北永州牛客張介、引至漣水、時金国多盜、道梗難行、財本寖耗、遂投充漣水尉司弓卒、因結羣不逞為義兄弟、任俠狂暴、剽掠民財、党与日盛、莫敢誰何、号為李三統轄、後復還淄、業屠、嘗就河洗刷牛馬、於游土中蹴得鉄鎗、桿長七八尺、於是就上打成鎗頭、重可四十五斤、日習擊刺、技日以精、為衆推服、因呼為李鉄鎗、遂挾其徒横行淄青間、出没抄掠」
  5. ^ 林1980,66頁
  6. ^ 池内1977,32頁
  7. ^ 池内1977,33頁
  8. ^ a b c d 池内1977,34頁
  9. ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「初、大元兵破中都、金主竄汴、賦斂益橫、遺民保岩阻思乱。於是劉二祖起泰安、掠淄・沂。二祖死、霍儀継之。彭義斌・石珪・夏全・時青・裴淵・葛平・楊徳広・王顕忠等附之。楊安児起、掠莒・密、展徽・王敏為謀主、母舅劉全為帥、汲君立・王琳・閻通・董友・張正忠・孫武正等附之、餘寇蜂起。大元兵至山東、全母及其兄死焉。全与仲兄福聚衆数千、劉慶福・国安用・鄭衍徳・田四・于洋・洋弟潭等咸附之」
  10. ^ a b c d 池内1977,36頁
  11. ^ 『斉東野語』巻9李全伝,「淄青界内有楊家堡、居民皆楊氏、以穿甲製鞾為業、堡主曰楊安児、有力強勇、一堡所服、亦嘗為盜於山東、聚衆至数万、有妹曰小姐姐〈或云其女、後称曰姑姑〉、年可二十、膂力過人、能馬上運雙刀、所向披靡。全軍所過、諸堡皆載牛酒以迎、独楊堡不以為意、全知其事、故攻刼之、安児亦出民兵対塁、謂全曰『你是好漢、可与我妹挑打一番、若贏時、我妹与你為妻』。全遂与酣戦終日、無勝負、全忿且慙、適其処有叢篠、全令二壮士執鈎刀、夜伏篠中、翌日再戦、全佯北、楊逐之、伏者出、以刀鈎止、大呼、全回馬、挾之以去、安児乃領衆備牛酒、迎帰成姻、遂還青州、自是名聞南北。時金人方困於敵、張介又従而招之、授以兵馬、衣以紅袍、号紅襖軍」
  12. ^ 池内1977,36頁
  13. ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「大元兵退、金乃遣完顔霆為山東行省、黄摑為経曆官、将花帽軍三千討之、敗安児於闌頭滴水、断其南路。安児軽舸走即墨、金人募其頭千金、舟人斬以献。安児無子、従子友偽称『九大王』、不閑軍務。安児妹四娘子狡悍善騎射、劉全收潰卒奉而統之、称曰『姑姑』、衆尚万餘、掠食至磨旗山、全以其衆附、楊氏通焉、遂嫁之。全合軍与霆戦、又敗。霆驍将張惠望見全、躍馬赴之、槍及全、若有縶其馬足而止者。全得收餘衆保東海、劉全分軍駐固上。霍儀攻沂州不下、霆自清河出徐州、斬儀、潰其衆。彭義斌帰李全。黄摑者、即阿魯達。霆即李二措、賜姓完顔。惠号『賽張飛』、燕俠士也。此数人者、出没島固、宝貨山委而不得食、相率食人」
  14. ^ a b c d 池内1977,38頁
  15. ^ 林1980,66頁
  16. ^ 『宋史』巻40寧宗本紀4,「[嘉定]十一年春正月壬午、京東路忠義李全率衆来帰、詔以全為京東路総管」
  17. ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「有沈鐸者、鎮江武鋒卒也、亡命盜販山陽、誘致米商、斗米輒售数十倍、知楚州応純之償以玉貨、北人至者輒舍之。又説純之以帰銅銭為名、弛度淮之禁、来者莫可遏。安児之未敗也、有意帰宋、招礼宋人。定遠民季先者、嘗為大俠劉佑家廝養、隨佑部綱客山陽、安児見而説之、処以軍職。安児死、先至山陽、寅縁鐸得見純之、道豪傑願附之意。時江・淮制置李玨・淮東安撫崔与之皆令純之沿江増戍、恐不能禦、乃命先為機察、諭意群豪;敘復鐸為武鋒軍副将、辟楚州都監、与高忠皎各集忠義民兵、分二道攻金。先遂以李全五千人附忠皎、合兵攻克海州、糧援不継、退屯東海。全分兵襲破莒州、禽金守蒲察李家、別将于洋克密州、兄福克青州、始授全武翼大夫・京東副総管。純之見北軍屢捷、密聞於朝、謂中原可復。時頻歲小稔、朝野無事、丞相史彌遠鑒開禧之事、不明招納、密敕玨及純之慰接之、号『忠義軍』、就聽節制。於是有旨依武定軍生券例、放銭糧万五千人、名『忠義糧』。於是東海馬良・高林・宋徳珍等万人輻湊漣水、鐸納之、全与劉全俱起羨心焉」
  18. ^ 池内1977,42頁
  19. ^ 『金史』巻15宣宗本紀中,「[興定二年四月]丁卯……東平行省敗黒旗賊、拔膠西県、渠賊李全来援、並破之。戊辰、河北行省敗紅襖賊、進至密州、降偽将校数十人、士卒七百人、悉復其業」
  20. ^ a b 池内1977,39頁
  21. ^ 『金史』巻15宣宗本紀中,「[興定二年五月]甲戌、招撫副使黄摑阿魯答襲破李全於莒州及日照県之南、三道擊之、追奔四十里」
  22. ^ a b c d e f g h i j 池内1977,42頁
  23. ^ 『金史』巻15宣宗本紀中,「[興定二年九月]庚寅、李全破密州、執招撫副使黄摑阿魯答・同知節度使夾谷寺家奴」
  24. ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「嘉定十一年五月己丑、全軍至漣水、邀先白事楚城、取器甲金穀、議再攻海州、純之厚労全金玉器用及其下有差。六月、全囲海城、金経略阿不罕・納不刺等固守不下。七月、合鄆・単・邳・徐兵来援、全与戦於高橋、不勝、退守石秋、分兵襲密州、禽黄摑、械至楚城。是冬、徙屯淮陰之龜山」
  25. ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「十二年、山東来帰者不止、権楚州梁丙無以贍。先懇丙請預借両月、然後帥所部五千並良等万人往密州就食、不許。請速遣全代領其衆、又不許。丙以石珪権軍務、珪乃奪運糧之舟、二月庚辰、率軍二万度淮大掠。丙調王顕臣・高友・趙邦永以兵逆之、至南度門、顕臣敗、友・邦永遇珪、下馬与作山東語、皆不復戦。丙窘、乃遣全出諭之。時金人囲淮西急、馬司都統李慶宗戍濠、出戦、喪騎三千、珪及張春皆有亡失。帥司調全与先・珪軍援盱眙。全亦欲自試、親往東海點軍赴之。癸亥、遇金人於嘉山、戦小捷。三月、先軍進駐天長、全進駐盱眙、鼎立以待金人。乙酉、全至渦口、值金将乞石烈牙吾答名『盧鼓槌』者将済、全与其将鹿仙掩之、金兵溺淮者数千、俘獲甚衆。壬辰、与阿海戦於化陂湖、大捷、殺金数将、得其金牌、追至曹家莊而還。三囲俱解、全喪失亦衆。阿海者、金所謂四駙馬也。全進達州刺史、妻楊氏封令人」
  26. ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「六月、金元帥張林以青・莒・密・登・萊・濰・淄・濱・棣・寧海・済南十二州来帰。始、林心存宋、及摑敗、意決而未能達。会全還濰州上塚、揣知林意、乃薄兵青州城下、陳説国家威徳、勧林早附。林恐全誘己、猶豫未納。全約挺身入城、惟数人従、林乃開門納之、相見甚歓、謂得所托、置酒結為兄弟。全既得林要領、附表奉十二州版籍以帰。表辞有云『挙諸七十城之全齊、帰我三百年之旧主』。表、馮垍所作也。秋、授林武翼大夫・京東安撫兼総管、其餘授官有差。進全広州観察使・京東総管、劉慶福・彭義斌皆為統制、増放二万人銭糧、徙屯楚州。先是、制置使賈涉以朝命督戦、許殺金太子者、賞節度使。殺親王、承宣使。殺駙馬、観察使。全致所得金牌於涉、云殺四駙馬所獲者。涉上於朝、乞如約賞之、故全有是受、而四駙馬実不死也。十一月、大雨雪、淮冰合。全請於制府曰『每恨泗州阻水、今如平地矣、請取東西城自效』。制府遣就盱眙劉卓議、卓集諸将燕全、時青・夏全咸願以長槍三千人従。夜半度淮、潜向泗之東城、将踏濠冰傅城下、掩金人不備。俄城上荻炬数百齊挙、遙謂曰『賊李三、汝欲偷城耶』。天黑、故以火燭之。全知有備、引去」
  27. ^ a b c d e f g h 池内1977,44頁
  28. ^ a b c d e f g 池内1977,43頁
  29. ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「十三年、趙拱以朝命諭京東、過青厓固、厳実求内附。拱与定約、奉実款至山陽、挙魏・博・恩・徳・懐・衛・開・相九州来帰。涉再遣拱往諭、配兵二千、全亦請往、涉不能止、乃帥楚州及盱眙忠義万餘人以行。拱説全曰『将軍提兵度河、不用而帰、非示武也、今乗勢取東平、可乎』。於是全合林軍得数万、襲東平之城南。金参政蒙古剛帥衆守東平、全以三千人金銀甲・赤幟、繞濠躍馬索戦。時大暑、全見城阻水、矢石不能及、乃与林夾汶水而砦、中通浮梁来往。一夕、汶水溢、漂大木、断浮梁、全首尾幾絶、蓋金人堰汶水而決之也。詰旦、金騎兵三百奄至、全欣然上馬、帥帳前所有騎赴之、殺数人、奪其馬、逐北抵山谷。上有龍虎上将軍者、貫銀甲、揮長槊、盛兵以出、旁有繡旗女将馳槍突鬥。会諸将至、拔全以出、乃退保長清県、精鋭喪失太半、統制陳孝忠死焉。林兵還青州。全所攜鎮江軍五百人多怨憤、全乃分隸拱、使先帰、而以餘衆道滄州、假塩利以慰贍之。龍虎上将軍者、東平副帥幹不搭。女将者、劉節使女也」
  30. ^ a b 池内1977,41頁
  31. ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「全至楚州、属召先赴行在。全自渦口之捷、有軽諸将心、独先嘗策戦勳、威望不下己、患之。乃陰結制帥所任吏莫凱、使譖先、先卒、全喜而心益貳。涉乗先死、欲收其軍、輟統制陳選往漣水以総之。先党裴淵・宋徳珍・孫武正及王義深・張山・張友拒而不受、潜迎石珪於盱眙、奉為統帥。珪道楚城、涉不知覚、及選還、涉恥之、乃謀分珪軍為六、請於朝、出修武・京東路鈐轄印告各六授淵等、使之分統、謂可散其縦。淵等陽受命、涉即聞於朝、謂六人已順従、珪無能為矣。其後有教令皆不納、然後知淵等猶主珪、涉恐甚。全結府吏伺知之、乃見涉、請討珪、涉未有処。議者請以全軍布南度門、移淮陰戦艦陳於淮岸、以示珪有備、然後命一将招珪軍、来者増銭糧、不至罷支、衆心一散、珪党自離。涉用其策、珪技果窮。珪素通好於大元、至是殺淵而挾武正・徳珍与其謀主孟導帰大元。漣水軍未有所属、全求並将之。客有請以附淮将者、曰『使南将主北軍、則淮・楚為一』。涉然之、且曰『先在時有三千虛籍、今当遣明亮核実、因可省費』。全聞之即献計曰『全若朝将此軍、夕与核除虛籍』。因卑辞献珍具以自結、涉不能卻、遂以付全。翼日、復命曰『初謂有虛額、昨夕細點、万五千人之外尚溢十数名』。涉始悟全見紿、他日議更遣幕属點之。吏亟報全、全忽状白涉『昨夕三鼓、漣水告警、云金人万餘在邳州。全思漣水去邳咫尺、既無險阻、城壁復弊、一被攻劫、則直臨淮面、罪在全矣。深夜不敢驚制使、已調七千人迎敵矣』。涉知全詐、因寢點軍之議。全又白制府請於朝、以劉全為総管駐揚州、分数千兵従之、而将其衆。十一月丁未、全遊金山、作佛事、以薦国殤。知鎮江府喬行簡方舟逆之、大合楽以饗之。総領程覃迭為主礼、務訁誇北人以繁盛。全請所狎娼、覃不与、全帰、語其徒曰『江南佳麗無比、須与若等一到』。始造舭達舟、謀争舟楫之利焉」
  32. ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「十四年正月、金人将南来、全請於涉、欲与劉卓共図泗州、以伐其謀、涉許之。全兵至盱眙度淮、攻克泗州之西城、入城布守。卓徙盱眙芻粟以実之、防城之具俱撤以往、為必守之計。未幾、盧鼓槌来取西城、全盛兵出戦、大敗、統制賴興死、全閉城自守。明日復戦、不勝、全遁帰、資糧器械悉以委敵。金人既陷蘄州、扈再興・趙範及其弟葵邀擊於天長。全隨行襲金人後、謁而賀曰『二監軍已立大功、乞以餘寇付全追之』。然全追之不甚力、亦以是進承宣使」
  33. ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「十五年二月、卓再取西城、盧鼓槌背城力戦、戒惠必獲全、不獲則斬。惠数嘗敗全於山東、而不能獲、每歎曰『天假此賊、事未可量』。及聞盧鼓槌言、自度進未必獲、退復受戮、即陳躍馬奔全壁、棄所執兵請降。全掖而起之、相与歓甚。不数日、惠戲下数千人皆潜至、全与惠帰、請於制置司官之、令自総一軍。膠西当登・寧海之衝、百貨輻湊、全使其兄福守之、為窟宅計。時互市始通、北人尤重南貨、價増十倍。全誘商人至山陽、以舟浮其貨而中分之、自淮転海、達於膠西。福又具車輦之、而税其半、然後従聽往諸郡貿易、車・夫皆督辦於林、林不能堪。林財計仰六塩場、福恃其弟有大造於林、又欲分其半、林許福恣取塩、而不分場。福怒曰『若背恩耶。待与都統提兵取若頭爾』。林懼、訴於制置司。涉密召林戲下問之、福伏兵於途以伺、林覚不追。於是李馬児説林帰大元、福狼狽走楚州。冬、加全招信軍節度。林猶遺涉書詆全、明己非叛。涉以咎全、全請為朝廷取之、乃提師駐海州以迫林。涉間道遣黥胥王翊・閻瓊労林、林泣涕道其故。翊帰、全使人殺諸塗。全攻林急、林走、全遂入青州」
  34. ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「十六年二月、涉勧農出郊、暮帰入門、忠義軍遮道、涉使人語楊氏、楊氏馳出門、佯怒忠義而揮之、道開、涉乃入城。自是以疾求去甚力。五月被召。卒。秋、全新置忠義軍籍。初、涉屯鎮江副司八千人於城中、翟朝宗統之。分帳前忠義万人、屯五千城西、趙邦永・高友統之。屯五千淮陰、王暉及於潭統之、所以制北軍也。全軽鎮江兵、且以利啖其統制陳選及趙興、使不為己患。唯忌帳前忠義、乃数称高友等勇、遇出軍必請以自隨、涉不許。全每燕戲下、並召涉帳前将校、帳前亦願隸焉、然未能合也。及丘壽邁攝帥事、全忽請曰『忠義烏合、尺籍鹵莽。莫若別置新籍、一納諸朝、一申制閫、一留全所、庶功過有考、請給無弊』。壽邁善而諾之。全乃合帳前忠義悉籍之、尽統其軍、時人莫悟。十一月、許国自武階換朝議大夫・淮東安撫制置使、命下、聞者驚異。先是、国奉祠家食、数言全必反、欲傾涉而代之。会召国奏事、国疏全奸謀甚深、反状已著、非有豪傑不能消弭、蓋自鬻也。至是、喬行簡為吏部侍郎、上疏論国望軽、不宜帥淮、不報。山陽参幕徐晞稷雅意開閫、及聞国用、晞稷闕望、乃譽国奏注釋以寄全、全得報、不楽。是冬、金将李二措及邳州守致書海州、欲附宋、全戲下周岊得之、即以報全。全喜、遣王喜児以兵二千応接、而己継之。二措納喜児而囚之。全兵欲攻邳、四面阻水、二措積勁弩備之、全不得進、合兵索戦。全敗、欲還楚州、会濱・棣有乱、乃引兵趨山東」
  35. ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「十七年正月、国之鎮、楊氏郊迓、国辞不見、楊氏慚以帰。国既視事、痛抑北軍、有与南軍競者、無曲直偏坐之、犒賚十裁七八。全自山東致書於国、国誇於衆曰『全仰我養育、我略示威、即奔走不暇矣』。全固留青州、国不能致。四月、全遣小吏致再書、国喜、曲加労接、即日真補承信郎、冀結其心。小吏曰『小吏奉書而遽得命、諸将校謂何』。不受、帰語其徒以為笑。国見全無来朝、数致厚饋、邀全議事。会劉慶福亦使人覘国意向、国左右知之、語覘者曰『制置無害汝等意』。慶福以報全、全集将校曰『我不参制閫、則曲在我。今不計生死必往見』。八月、全上謁、賓讚戒全曰『節使当庭趨、制使必免礼』。及庭趨、国端坐納全拜、不為止。全退、怒曰『庭参亦常礼、全帰本朝、拜人多矣、但恨汝非文臣、本与我等。汝向以淮西都統謁賈制帥、亦免汝拜。汝有何勳業、一旦位我上、便不相假借耶。全赤心報朝廷、不反也』。国継設盛会宴全、遺労加厚、全終不楽。国之客章夢先主幕議、慶福謁見、夢先責客将、令隔簾貌喏、慶福不能堪。国以名馬十餘噭遺全、不受。国固遣、全俟其充斥階庭、伺候移時、而復卻之。如是者半月、卒不受。全欲往青州、懼国苛留、自計曰『彼所争者拜也、拜而得志、吾何愛焉』。更折節為礼。因会、席間出劄白事、国見其細故、判従之、全即席再拜謝。自是動息必請、得請必拜、国大喜、語家人曰『吾折伏此虜矣』。義斌求趙邦永来山東、全為白之、国諾。邦永乗間告国曰『邦永若去、制使誰与処』。国曰『我自能兵、爾毋過慮』。邦永泣而辞之。全遂往青州。十一月、国集両淮馬步軍十三万、大閱楚城之外、以挫北人之心。楊氏及軍校留者恐其図己、内自為備」
  36. ^ 『宋史紀事本末』巻88史弥遠廃立,「理宗宝慶元年春正月庚午、湖州人潘壬與其從兄甫、弟丙、以史彌遠廢立、不平、乃遣甫密告謀立濟王意於李全。全欲坐致成敗、陽與之期日進兵應接、而實無意也。壬等信之、遂部分其衆以待。及期、全兵不至、壬等懼事泄、乃以其黨雜販鹽盜千餘人、結束如全軍狀、揚言自山東來、夜入州城、求濟王。王聞變、匿水竇中。壬尋得之、擁至州治、以黃袍加王身。王號泣不從、壬等彊之、王不得已、乃與約曰:「汝能勿傷太后、官家乎?」衆許諾、遂發軍資庫金帛、會子犒軍。知州謝周卿率官屬入賀。壬子、僞爲李全榜、揭於門、數史彌遠廢立罪、且曰:「今領精兵二十萬、水陸並進。」人皆聳動。比明視之、則皆太湖漁人及巡尉兵卒耳。王知事不成、乃遣王元春告於朝、而帥州兵討壬。壬變姓名走楚州、甫、丙皆死。元春至行在、史彌遠懼甚、急召殿司將彭任帥師赴之、至執事平矣。壬至楚、將渡淮、爲小校明亮所獲、送臨安、斬之。彌遠忌竑、詐言竑有疾、令余天錫召醫入湖州視之。天錫至、諭旨、逼竑縊於州治、以疾薨聞」
  37. ^ a b c d 池内1977,45頁
  38. ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「宝慶元年、湖州人潘甫与其従弟丙・壬起兵、密告全党於山陽、全党欲坐致成敗、然其謀而不助之力。甫帰、陰勒部曲及聚販塩盜至千餘、結束如北軍、率衆揚言自山陽来擁立済王、事見『竑傳』。時全図国之意已決、遣慶福還楚城、使為乱。或教楊氏畜一妄男子、間指謂人曰『此宗室也』。至語郡僚曰『会令汝為朝士』。潜約盱眙四軍相応。忠義統領王文信有衆八百、涉徙刺揚州強勇軍。国之聚兵大閱、文信在焉、慶福与謀、令帰襲揚州、別遣将劫宝応、事済即揮衆度江。盱眙四将不従、於是慶福等謀中輟、止欲快意於許国焉。計議官苟夢玉知之、以告国、国曰『但使反、反即殺、我豈文儒不知兵耶』。夢玉懼禍及己、求檄往盱眙、復告慶福曰『制帥欲図汝』。両為自結之計。乙卯、国晨起蒞事、忽露刃充庭、客駭走、国厲聲曰『不得無礼』。矢已及顙、流血蔽面、国走。乱兵悉害其家、大縦火、焚官寺、両司積蓄尽入賊。親兵数十人翼国登城樓、縋城走、伏道堂中宿焉。時四明人姚翀通判青州、全豫令還山陽、及漣水而復止之。至是、擁翀入城、与通判宋恭喝犒南北軍、使帰営。是日、慶福首殺夢先以報貌喏之辱、戒諸軍毋害苟夢玉家、護以五十兵。初、国倚揚州強勇軍統制彭興及淮西親兵将趙社・朱虎等為腹心、至是首降賊、且助為乱。惟丁勝・張世雄・沈興・杜靖毗・富道不屈、或与賊巷戦、興手殺賊将馬良。賊党得志、更相賀、独張正忠歎曰『若曹不識事體、朝廷豈置汝耶』。王文信復献計慶福曰『我偽作重傷、提本部軍帰揚州、揚守必不疑、我生縛守、以其城献』。慶福喜、夜飲而遣之。丙辰、許国縊於途。丁巳、文信将至揚州、其徒有亡入城告変者。時揚之兵皆在楚、知州兼提點刑獄汪統会同官議、鈐轄趙拱曰『若不納、則文信必曰「我帰営、何故見拒」。将借是以魚肉城外之民。拱素善文信、請説止其兵、而以単騎入、俟入城而殺之、然後撫其兵、領往盱眙、分隸張・范戲下』。統喜、遣之。遇文信於十里頭、置酒相労苦、文信偽為裹創状。拱曰『忠義反楚州、揚州人見忠義暮帰、豈不相疑。不若暫駐兵城外、然後同見提刑、提刑急欲知楚州事也』。文信不疑、聯騎入城、坐客次。拱先入、勧統收戮之、統躊躇不敢発。劉全知其謀、帥甲士突入郡堂、厲聲曰『王統領好人、提刑不必疑、請出受参』。統不得已、出而犒之。劉全以兵翼之出、館其家。詰旦、統未有処。拱又請引文信出城、与議回屯楚州。文信知事泄、拱就出、劉全亦請従。至平山堂、文信責拱売己、欲殺之、拱曰『爾謀如此、三城人命何辜。我已存三城人、身死無憾。然我死、汝八百家老幼在城、豈得生耶』。文信及其衆動色、文信・劉全遂還楚州。時盱眙総管夏全聞山陽得志、亦懐異図、劉卓厚賂之、乃止。及文信乱、卓懼夏全復動、乃使卞整将兵三千視之、使不敢動。整以邀文信為辞、引兵還揚州、因偽言盱眙失守、卞整為乱、於是揚州復震、城門晝閉。彌遠懼激他変、欲姑事涵忍而後図之。謀帥莫可、以徐晞稷嘗倅楚州・守海州、得全歓心、晞稷亦勇往、乃授淮東制置使、令出屈撫全。時慶福以事済報全、全又牒義斌等曰『許国謀反、已伏誅矣、爾軍並聽我節制』。義斌得牒大罵曰『逆賊背国厚恩、擅殺制使。此事皆因我起、我必報此仇』。呼趙邦永曰『趙二、汝南人、正須爾明此事』。乃斬齎牒人、南向告天誓衆、見者憤激。全自青州至楚城、佯責慶福不能彈壓、致忠義之哄、斬数人、請待罪、朝廷未之詰。趙範時知揚州兼提點刑獄、得制置印於潰卒中、以授晞稷。全遣騎逆晞稷。己卯、晞稷入楚城。劉全躍馬登郡廳、晞稷迎之、全及門下馬、拜庭下、晞稷降等止之、賊衆乃悦」
  39. ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「[宝慶元年]四月、潘壬変姓名至楚州、将度淮而北、小校明亮獲之、械送行在伏誅。甲午、時青使人偽為金兵、道邳州、出漣水、奪全田租而伏騎八百。翼旦、全引二百騎度淮与鬥。伏発、全敗、囲之、慶福以兵往拔全出。全与慶福俱重傷、帰楚州。丁勝・張世雄欲乗全敗挙兵追北軍、晞稷止之。全後知其謀、対晞稷詰之、二人不為屈。然懼禍及己、晞稷乃潜授世雄雄勝軍統制、教使逃而陽索之。北軍追世雄、世雄且戦且走、得達揚州。晞稷初至楚、緩急相済、如囚趙社、逐朱虎、賊尚知畏。屢令全還戦馬・軍器於制司、全唯唯。退招姚翀及将校飲、酒酣、全曰『制司追我戦馬・軍器、若何』。忽有将校曰『当時忠義隻百十人、其他軍皆南軍乗勢将帶、若潰将何以還』。一人曰『制司必欲追之、不若有官者棄官、無官者帰山東為百姓』。一人抵掌憤然、使全反、全陽罵之。翀以告晞稷。翼日、全見晞稷求納官、晞稷撫之而去。自是不復誰何、其後至以『恩府』称全・『恩堂』称楊氏、而手足倒置矣。軍器庫止餘槍幹数千、全復取去。全欲戦艦、晞稷使擇二艘。全移出淮河、使軍習之。初、楚城之将乱也、有吏竊許国書篋二以献慶福、皆機事。慶福賞盜篋者五百千、未之閱。全始発緘、使家僮讀之、有廟堂遺国書令図全者、全大怒。又有苟夢玉書、即以慶福謀告国者、全始悪夢玉反覆。夢玉知之、時已被堂召、亟辞全如京。己卯、全饋餞夢玉如平時、潜殪諸十里之郊、復出榜捕害夢玉者。全往青州」
  40. ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「[宝慶元年]五月丁卯、全取東平、不克。戊寅、劉全以券易制司銭、不如欲、復謀乱、楊氏出二千緡解之、乃止。全引兵攻恩州。明日、義斌出兵与全鬥、全敗。義斌以千五百騎追之、獲馬二千匹、皆揚州強勇軍馬也。慶福往救、又敗。全退保山崮、抽山陽忠義以北。楊氏及劉全皆欲親赴之、会全遣人求晞稷書与義斌連和、乃止。義斌納全降兵、兵勢大振、進攻真定、降金将武仙、衆至数十万、致書沿江制置使趙善湘曰『不誅逆全、恢復不成。但能遣兵扼淮、進拠漣・海以蹙之、断其南路、如此賊者、或生禽、或斬首、惟朝廷所命。賊平之後、收復一京三府、然後義斌戦河北、盱眙諸将・襄陽騎士戦河南、神州可復也』。時四総管亦各遣計議官致書、乞助討賊、範亦以為言、不報。全貽書制置司、誣義斌叛、晞稷繳達之。時朝廷知義斌之功、憚全、未欲行賞。未幾、義斌俟命不至、拓地而北、与大元兵戦於内黄之五馬山。大元兵説之降、義斌厲聲曰『我大宋臣、且河北・山東皆宋民、義豈為他臣属耶』。遂死之。戲下王義深等復帰全。全使人説時青附己、饋金五百両。青見義斌死、乃附全、自移屯淮陰。全招青入城飲、折俎銅券二千、他饋称是、恩遍麾下、人人喜悦。晞稷宴青、全饋折俎如前。全将往山東、以南軍九百従、官犒鉄銭券人五千、全犒銅銭三倍、許攜南貨免税。於是請行者不已、得千人以俱、晞稷又以千八百人継之」
  41. ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「[宝慶]二年春、趙範奉祠、林珙知揚州・権提點刑獄。全北剽山東、南假宋以疑大元、且仰食。会金与大元争大名、全得往来経理。三月丙辰朔、大元兵攻青州、全大小百戦、終不利、嬰城自守。大元築長囲、夜布狗砦、糧援路絶。全遣小校周興祖縋城、雜樵采者走楚州発援兵、終不能支。全与福謀、福曰『二人俱死無益也、汝身係南北軽重、我当死守孤城、汝間道南帰、提兵赴援、可尋生路』。全曰『数十万敵、未易支也。全朝出則城夕陷、不如兄帰』。於是全止而福行。朝廷初以力未能討、故用晞稷調護、及傳全被囲、稍欲図賊。晞稷畏懦、幸全未帰以苟歲月。朝廷方謀易帥、劉卓久在盱眙、雅意建閫。又見賊勢稍孤、意功名可立、使鎮江副都統彭忄乇延譽京師、自謂『素撫鎮江、三万人足用、且得四総管歓心、討賊有餘力』。朝廷信之、忄乇亦垂涎代卓、従臾尤力。九月、以卓知楚州兼淮東制置使、忄乇代知盱眙、晞稷不知也。己亥、晞稷以戸部侍郎召、未幾、出知袁州。十一月壬子朔、卓至楚州、心知不能制馭四総管、惟以鎮江兵自隨。時青在淮陰、卓怨其移屯叛己、不召也。夏全請従、卓素畏全狡、亦俾留盱眙。忄乇自揣資望視卓更浅、曰『卓之止夏全、是欲遺患盱眙也。卓猶憚夏全、我何能用』。乃激夏全曰『楚城賊党不満三千、健将又在山東、劉制使図之、收功在旦夕。太尉曷不往赴事会、何端坐為』。夏全欣然領兵徑入楚城、青亦自淮陰復移屯城内。卓且駭且恐、勢不容卻、復就二人謀焉。時傳全已死、福欲分兵赴援、兵少、卒不往。甲子、卓令夏全盛陳兵楚城、賊党震恐、楊氏遣人賂夏全求緩師、乃止」
  42. ^ 『宋史』巻477列伝236叛臣下李全伝,「宝慶三年二月、楊氏使人行成於夏全曰『将軍非山東帰附耶。狐死兔泣、李氏滅、夏氏寧独存。願将軍垂盼』。全諾。楊氏盛飾出迎、与按行営塁、曰『人傳三哥死、吾一婦人安能自立。便当事太尉為夫、子女玉帛・幹戈倉廩、皆太尉有、望即領此、誠無多言也』。夏全心動、乃置酒歓甚、飲酣、就寢如帰、転仇為好、更与福謀逐卓矣。辛卯、夏全令賊党囲州治。焚官民舍、殺守藏吏、取貨物。時卓精兵尚万餘、窘束不能発一令、太息而已、夜半縋城、僅以身免。鎮江軍与賊戦死者太半、将校多死、器甲銭粟悉為賊有。卓步至揚州、借州兵自衛、猶劄揚州造旗幟。林拱繳奏於朝、聞者大笑。夏全既逐卓、幕帰、楊氏拒之、意楊氏反目図己、明日大掠、趨盱眙欲為乱、張惠・範成進閉門、不得入、翱翔淮上。惠・成進出兵欲剿之、夏全狼狽帰金、金人納之。是挙也、張正忠不従乱、経妻女於庭、並己自焚。報至、中外大恐、劉卓自劾、未幾、死。初、姚翀従賈涉辟楚州推官、全喜其附己、為引重当路、得改秩、全請以通判青州。国之死、全借翀撫定以誑衆、以功入朝。三月、以翀為軍器少監・知楚州兼製置。翀辟鄭子恭・杜耒等為幕客、留母及其子於京、買二妾以行。至城東、艤舟以治事。間入城見楊氏、用晞稷故事而礼過之。楊許翀入城、乃入、寄治僧寺、極意娛之。時全在囲一年、食牛馬及人且尽、将自食其軍。初軍民数十万、至是餘数千矣。四月辛亥、全欲帰於大元、懼衆異議、乃焚香南向再拜、欲自経、而使鄭衍徳・田四救之、曰『譬如為衣、有身、愁無袖耶。今北帰蒙古、未必非福』。全従之、乃約降大元。大元兵入青州、承製授全山東行省」

参考文献[編集]

  • 池内功「李全論--南宋・金・モンゴル交戦期における一民衆叛乱指導者の軌跡」『社会文化史学』14号、1977年
  • 宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝
  • 『宋史』巻477列伝236叛臣下李全伝