張晋亨

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張 晋亨(ちょう しんきょう、? - 1276年)は、金朝末期からモンゴル帝国初期にかけて活躍した人物。冀州南宮県の出身。子は張好古張好義

概要[編集]

張晋亨の兄の張顥は金朝に仕えて同知安武軍節度使事の地位に就いていたが、モンゴル軍の侵攻によって河北一帯が荒廃すると東平を拠点とする厳実に青崖で降り、厳実を通じて間接的にモンゴル帝国の支配下に入った。張顥は安武軍節度使の地位を授けられてモンゴル軍に参加したが、中途で戦死してしまったため、張晋亨が兄の地位を継ぐことになった[1]

1218年戊寅)、チンギス・カンの腹心の部下のムカリが東アジア方面の計略を委ねられると、張晋亨らもその指揮下に入った。張晋亨は史書によく学び、細密な計画を立てた上で事に臨んだため、厳実は張晋亨を引き立て自らの娘を娶わせたという[2]

その後、厳実は息子の厳忠貞を質子(トルカク)としてモンゴルに差し出す際、張晋亨に同行を命じた。1227年丁亥)、ムカリの息子のボオルが益都を征服した際には、昭毅大将軍・領恩州刺史・兼行台馬歩軍都総領の地位を授けられている。また、厳実が淮楚・河南方面を征服するのにも従い功績を挙げている[3]

1234年甲午)、厳実とともにオゴデイ・カアンに謁見した際には、東平路行軍千戸の地位を授けられている。これは、従来漢人世侯が自称してきた称号と違ってモンゴル帝国が公認するもので、同じく厳実の部下であった石天禄趙天錫劉通斉珪らも同時期に千戸の地位を授けられた記録がある[4]。安慶の包囲戦では、逃げ出した守将を追って100余りの首級を得て、また定城攻めでは将士5人を捕虜とする功績を挙げた。更に信陽攻めでは復州の金之才を捕虜とし、六安を攻略するなど多くの功績を残している[5]

厳実が亡くなった後、後を継いだ厳忠済は張晋亨を権知東平府事の地位につけた。1251年辛亥)、モンケ・カアンが即位すると張晋亨は厳忠済に従って新皇帝に謁見した。この頃、ヤラワチの主導により「六両包銀制」がモンゴル支配下の全土で導入されつつあったが、張晋亨はこの新税制が民に大きな負担をかけるものであるとして批判した。張晋亨のみならず他の漢人世侯からも反対の意見が上がったこともあり、税の負担はやわらげられた[6]。この進言が評価され張晋亨に金虎符が与えられることになったが、張晋亨は自らが厳忠済の配下であり受ける資格がないと辞退したため、張晋亨の謙虚さをかえって喜んだモンケ・カアンは璽書・金符と、恩州管民万戸の地位を受けた[7]

中統3年(1262年)、李璮が叛乱を起こすと、張晋亨は厳忠済とともに叛乱鎮圧のため派遣され、遙墻濼の戦いで勝利を収めた。この功績により本道奥魯(アウルク)万戸に改められている。中統4年(1263年)には金虎符をもらって宿州に駐屯し、至元8年(1271年)には懐遠大将軍・淄萊路総管となり軍事を治めた。至元11年(1274年)、バヤンを総司令とする南宋攻略が始まると張晋亨もこれに従軍し、安慶より長江を渡ると焦山・瓜洲の戦いで功績を挙げた。至元13年(1276年)に亡くなった。息子の張好義が地位を継いだ[8]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻152列伝39張晋亨伝,「張晋亨字進卿、冀州南宮人也。其兄同知安武軍節度使事・領棗強令顥、以冀州数道之衆、附厳実于青崖、後従実来帰、進顥安武軍節度使、西征、戦没」
  2. ^ 『元史』巻152列伝39張晋亨伝,「歳戊寅、太師・国王木華黎承制、署晋亨襲顥爵。晋亨渉猟書史、小心畏慎、臨事周密、実器之、以女妻焉」
  3. ^ 『元史』巻152列伝39張晋亨伝,「実征沢・潞、偏将李信・晁海相継降于宋、晋亨跋渉険阻、晝伏夜行、僅免於難。実遣子忠貞入質、命晋亨与倶。丁亥、従国王孛羅征益都、以功遷昭毅大将軍、領恩州刺史、兼行台馬歩軍都総領、再遷鎮国大将軍。実征淮楚・河南、晋亨畢従」
  4. ^ 井戸 1982, p. 41-42.
  5. ^ 『元史』巻152列伝39張晋亨伝,「甲午、従実入覲、命為東平路行軍千戸。囲安慶、其守将走、邀撃之、斬首百級、俘獲無算。攻光之定城、俘其将士十有五人。略信陽、執復州将金之才。攻六安、抜之。大小数十戦、策功居多」
  6. ^ 井ノ崎 1954, p. 37.
  7. ^ 『元史』巻152列伝39張晋亨伝,「実卒、其子忠済奏晋亨権知東平府事。東平貢賦率倍他道、迎送供億、簿書獄訟、日不暇給、歴七年、吏畏而民安之。辛亥、憲宗即位、従忠済入覲。時包銀制行、朝議戸賦銀六両、諸道長吏有輒請試行於民者、晋亨面責之曰『諸君職在親民、民之利病、且不知乎。今天顔咫尺、知而不言、罪也。承命而帰、事不克済、罪当何如且五方土産各異、随其産為賦、則民便而易足、必責輸銀、雖破民之産、有不能辦者』。大臣以聞、明日召見、如其言以対、帝是之、乃得蠲戸額三之一、仍聴民輸他物、遂為定制。欲賜晋亨金虎符、辞曰『虎符、国之名器、長一道者所佩、臣隷忠済麾下、復佩虎符、非制也。臣不敢受』。帝益喜、改賜璽書・金符、恩州管民万戸」
  8. ^ 『元史』巻152列伝39張晋亨伝,「中統三年、李璮叛、晋亨従厳忠範戦於遙墻濼、勝之、改本道奥魯万戸。四年、授金虎符、分将本道兵充万戸、戍宿州。首言『汴堤南北、沃壌閒曠、宜屯田以資軍食』。乃分兵列営、以時種芸、選千夫長督勧之、事成、期年皆獲其利。至元八年、改懐遠大将軍・淄萊路総管、尋兼軍事。十一年、詔伐宋、晋亨在選中、聞命就道、曰『此報効之秋也』。分道由安慶渡江、丞相伯顔留之戍鎮江、兼与民政、壹以鎮静為務、戦焦山・瓜洲、皆有功。十三年、卒於官」

参考文献[編集]

  • 井戸, 一公「元朝侍衛親軍の成立」『九州大学東洋史論集』第10巻、九州大学文学部東洋史研究会、1982年3月、26-58頁、CRID 1390853649694060032doi:10.15017/24543hdl:2324/24543ISSN 0286-5939 
  • 井ノ崎, 隆興「<論説>蒙古朝治下における漢人世侯 : 河朔地区と山東地区の二つの型」『史林』第37巻第6号、史学研究会 (京都大学文学部内)、1954年10月、537-558頁、CRID 1390290699825227392doi:10.14989/shirin_37_537hdl:2433/249154ISSN 0386-9369 
  • 元史』巻152列伝39張晋亨伝