王玉

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王 玉(おう ぎょく、? - 1260年)は、金朝末期からモンゴル帝国初期にかけて活躍した人物。

概要[編集]

王玉は金朝末期に趙州寧晋県で生まれた人物で、金朝に仕えて軍功を重ね、モンゴル帝国による侵攻が始まる頃には趙州に鎮撫する万戸に任じられていた。1217年丁丑)秋[1]、チンギス・カンによって金朝計略を命じられていたムカリがこの方面に進出してくると、王玉は戦わずして投降し、その魔下に入ることになった。同年中には邢州洺州磁州の三州・済南の諸郡を攻略して「漢万戸」と称された。翌1218年には沢州・潞州を攻撃したが、潞州は守りが固く王玉は左目に矢を受ける重傷を負ってしまった。しかし王玉はその後も力戦して遂に潞州を攻略した。その後も平陽太原汾州代州の攻略に従事し、モンゴル軍が北方に帰還した後は趙州に戻り40の城塞を支配下に置いたという[2]

また、1225年乙酉)に一度モンゴルに降った武仙が金朝に再び投降し史天倪を殺害するという事件が起こると、王玉はセウニデイ(笑乃帯)・史天沢(史天倪の弟)らとともにこれを討伐して彭義斌を捕虜とし、寧晋県の東里寨に駐屯した。劣勢となった武仙は王玉を味方に引き込むべく王玉の妻に使者を派遣したが、王玉の妻は「どうして夫に国家に対して二心を抱かせるようなことができなしょうか」と述べて拒否したため、武仙はこれを包囲し王玉の息子王寧寿は防衛戦の中で戦死してしまった。これを聞いた王玉は僅か数騎を率いて武仙の軍勢に突撃して数百人を殺傷して帰還したが、武仙の兵卒は敢えてこれを追撃せず見送った。後に武仙の兵卒は皆「王玉将軍は胆力があり驍雄で、我らはとても敵わない[ので追撃しなかった]」と語ったという。これに怒った武仙は王玉の先祖の墓を暴き、遺体を道端に晒すという暴挙を行っている。王玉・史天沢の軍勢は趙州において武仙の軍勢を打ち破り、武仙は食料が尽きた状態で双門寨に包囲された。ある時大風が起こったので武仙はこれに乗じ脱出しようと試みたものの、武仙の軍団は王玉・史天沢らの攻撃を受けて壊滅し遂に武仙の乱は平定された。一連の戦いでの功績により王玉は定遠将軍・権真定五路万戸、仮趙州慶源軍節度副使に任じられている[3]

王玉の晩年の事績については記録がないが、ムスリム商人に多大な負債を負った漢人を助けたことや、奴隷を解放した逸話が知られている。その後、中統元年(1260年)2月に70歳にして亡くなった[4]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻151王玉伝には年の記載がないが、巻1太祖本紀に対応する記事があり、丁丑年(1217年)のことと明記している(池内1980,68-69頁)。
  2. ^ 『元史』巻151列伝38王玉伝,「王玉、趙州寧晋人。長身駢脅多力、金季為万戸、鎮趙州。太師・国王木華黎下中原、玉率衆来附、領本部軍、従攻邢・洺・磁三州、済南諸郡、号長漢万戸。従攻沢・潞諸州、独潞州堅壁不下、玉力戦、流矢中左目、竟抜其城。又破平陽、下太原・汾・代等州。師還、署元帥府監軍、以趙州四十寨隷焉」
  3. ^ 『元史』巻151列伝38王玉伝,「先是、金将武仙既降復叛、殺元帥史天倪。宋将彭義斌在大名、陰与仙合、玉従笑乃帯・史天沢、攻敗武仙、生擒義斌、駐軍寧晋東里寨。仙遣人齎誥命、誘玉妻、妻拒曰『妾豈可使夫懐二心於国家耶』。仙囲之数匝、殺其子寧寿。玉聞之、領数騎突其囲、斬獲数百人而還。仙遣人追之、不敢進、皆曰『王将軍膽気驍雄、我輩非敵也』。仙乃尽発玉先世二十七冢、棄骸満道。玉従史天沢諸将、撃仙於趙州、仙糧絶、走双門寨、囲之。会大風、仙独脱走、斬其将四十三人、真定遂平。加定遠将軍、権真定五路万戸、假趙州慶源軍節度副使」
  4. ^ 『元史』巻151列伝38王玉伝,「有民負西域賈人銀、倍其母、不能償、玉出銀五千両代償之。又出家奴二百餘口為良民。中統元年二月卒、年七十。子忱」

参考文献[編集]

  • 井ノ崎隆興「蒙古朝治下における漢人世侯 : 河朔地区と山東地区の二つの型」『史林』37号、1954年
  • 愛宕松男『東洋史学論集 4巻』三一書房、1988年
  • 池内功「モンゴルの金国経略と漢人世候の成立-1-」『創立三十周年記念論文集』四国学院大学編、1980年
  • 元史』巻151列伝38王玉伝
  • 新元史』巻148列伝45王玉伝