木下家定
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木下家定像(建仁寺常光院蔵) | |
時代 | 室町時代末期 - 江戸時代初期 |
生誕 | 天文12年(1543年) |
死没 |
慶長13年8月27日(1608年10月5日) 享年66(数え年) |
別名 | 孫兵衛、肥後守、法印浄英 |
戒名 | 常光院全二位茂叙浄英法印 |
墓所 | 京都府建仁寺塔中常光院 |
官位 | 従二位 |
氏族 | 杉原氏 → 木下氏 |
父母 | 父:杉原定利、母:杉原家利の娘(朝日殿) |
兄弟 | 妹に高台院、長生院、杉原くま、弟がほかに1人いた。 |
妻 | 杉原家次の娘おあこ(雲照院) |
子 | 勝俊(長男)、利房(次男)、延俊(三男)、俊定(四男)、延貞、秀規、小早川秀秋、周南紹叔 |
特記 事項 | 四男以降は兄弟順が定かではないという説もあり、詳細不明。また僧籍に入っており、兄弟順に加わっていない周南紹叔も息子である。 |
木下 家定(きのした いえさだ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名。本姓は豊臣氏。家系はもともとは桓武平氏流の杉原氏だったが、後に木下氏と改称する。備中足守藩初代藩主。足守藩木下家初代。
一族
杉原定利の長男。母は朝日殿。豊臣秀吉の正室であった高台院の兄(弟とする説もある)。正室は杉原家次(家定の叔父)の娘、雲照院(おあこ)。子供は木下勝俊(長男)、木下利房(次男)、木下延俊(三男)、木下延貞(四男)、小早川秀秋(五男)、木下秀規(六男)、木下俊定(秀規が七男で俊定が六男との説あり、詳細不明)に、僧籍に入ったため兄弟の序列に含まれていない周南紹叔と8人の男子に恵まれた。
生涯
尾張国朝日村(現在の愛知県清須市)の生まれ。武将としての器量はあまりなかったが、古くから秀吉に仕えていたため重用され、播磨姫路城主に任じられた上[1]、豊臣姓を下賜された。
あまり信用できる事柄ではないものの、一説では縁者の少ない秀吉に木下姓を与えた人物とされている。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍・西軍のどちらにも属さず中立を保ち、妹の高台院の警護を務めた功績を徳川家康に賞賛され、戦後、備中足守に2万5000石の所領を与えられた。
没後に一時、勝俊・利房兄弟が遺領で争ったものの、大坂の陣の戦後に利房が領を復して以来、足守領は廃藩置県時まで継続した。
菩提寺
菩提寺の常光院には、晩年の家定を描いた肖像画が残っている。
脚注
- ^ 『姫路誌一班』(四頁)