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新・平家物語

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新・平家物語』(しんへいけものがたり)は、吉川英治歴史小説1950年から1957年まで「週刊朝日」に連載された。現行版は吉川英治歴史時代文庫全16巻。新潮文庫全20巻

概要[編集]

題材は『平家物語』だけでなく、『保元物語』『平治物語』『義経記』『玉葉』など複数の古典をベースにしながら、より一貫した長いスパンで両氏や奥州藤原氏、公家などの盛衰を描いた長編作品。

また西行文覚など、権力闘争の外にあった同時代人や庶民たちの視点も加え、それまで怨霊の代表格であった崇徳上皇を時代に翻弄される心優しい人物として描くなど、新しい視点で平安時代から鎌倉時代への「それまでにない大戦乱となった」過度期の時代を描いている。読者も、戦後復興から変革へ向け動いていた昭和中期の時代様相に重ね、「国民文学作家」たる吉川の後期代表作となった。

1955年、1956年に大映で映画化されたほか、1972年にNHK大河ドラマ、1993年~1995年に人形劇として映像化された。

映像化作品[編集]

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

関連項目[編集]

  • にしき堂 - 本作にちなんだ洋風和菓子「新・平家物語」を販売。作者の承諾を得て名付けられた。

あらすじ[編集]

『新·平家物語』は、中世文学を代表する傑作『平家物語』をどう新たにしたのか。新は何を意味するのか。それは古文を現代語に訳しただけではない。題材を『平家物語』だけでなく、『保元物語』『平治物語』『義経記』『玉葉』など複数の古典をベースにした。国文学者島内景二によると、吉川英治は「日本文学をあまりにも永く支配してきた滅びの美学に引導を渡し、それに替わってあたらしい理念を注入しようとした。」「平清盛や、源氏の武将や、運命に翻弄された天皇や庶民たちを、エネルギッシュで活動的な人間として蘇らせようとしたのだ。」島内曰く、「新·平家物語」というタイトルは「脱·平家物語」の宣言であり、「脱·無常観」を意味している[1]

『新·平家物語』は平安後期に台頭した武家平清盛を棟梁とする平家が、保元平治の乱を勝ち抜き藤原摂関家にとって代わる。二十年間繁栄した後、治承寿永の乱にて源氏に滅ぼされる歴史の流れを、多くの人々の行動、動機、感情を再現して織りなされた小説である。作者は、源頼朝が平家打倒と同時に、後白河法皇の院政を撤廃し、鎌倉に武家政府を創立してゆく革命の経過を追い、源平合戦の大将軍源義経が兄頼朝に追放され、奥州平泉で自害にいたる、対立の原因考察、歴史のヒーロー源義経の心情と平和を願う信念を描く。

吉川英治は「はしがき」にかえて『平家物語』の序文を引用し、日本人に定着している従来の歴史観、人生観たる、諸行無常、盛者必衰を出発点とした。しかし、作者は、それとは全く違う死生観と運命観を展開していく。『新·平家物語』の平清盛は、平安時代後期の最強の政治勢力後白河上皇と対等で政争し、藤原貴族による摂関政治を廃止させ、太政大臣、天皇の外戚となり、律令制度の伝統に縛られる貴族に比べ、新しい政策を導入、福原(現在の神戸)に平家の首都を作り、大輪田に台風で破壊しない港を造る。これにより、宋貿易が可能になった。このようにして平家一門は栄華の頂点に立つ。しかし、清盛の死後は、半貴族半武士となった平家は、東国の豪族を統一しつつある源頼朝に敗れ、破竹の勢いで北陸道を都へ進む木曽義仲軍により、京都から西国へ追放される。朝日将軍木曽義仲は都を制すること二年たらずで、源義経、範頼軍により宇治、京都、瀬田で滅ぼされる。その間平家は瀬戸内海を中心に海陸軍を再編成、東国から押し寄せる源氏の陸軍を屋島より脅かすかに見えたが、源義経の率いる陸海軍により一の谷、屋島、壇之浦海戦で大敗殲滅する。この小説は軍記物語である。平家全盛時代の中で、源頼朝、源頼政、木曽義仲と源義経が、みな同じ平家打倒の念願にむけて、それぞれ別な道を生き延び全源氏の目標を果たした生涯が全巻にわたってかかれている。治承寿永の乱で活躍する数々の東国の武将たちは、平安時代の華やかな貴族社会の下で、土着武士として堅実に生き抜けた個性の強い土豪たちで、頼朝は源氏の棟梁として東国を源氏の旗の下に統合していく。これら東国武士は源平合戦で多くの戦勝をあげ、おおくの武勇談が語られる。

作者はここで、滅び去る平家の公達たちの生涯を隈なく描いている。清盛以外の平家の人々は貴族の生活になじみ、歌をよみ、音楽を好んだ。それらの和歌や運命の戦いの前に奏でる雅楽の悲しい音色が読者の心に響く。戦勝殊勲第一人者と自他認められていた大将軍源義経は、梶原景時の誹謗中傷により、頼朝の反感を買い、頼朝は義経の忠誠を疑い源氏、鎌倉政府から勘当、追放する。義経は頼朝への忠誠を腰越状で誓うものの、新鎌倉政府の守護地頭に追われる。九朗判官義経は、弁慶、伊勢三郎などの数人の股肱と共に修験者に変身して、安宅関を通り抜け、奥羽平泉の藤原秀衡にかくまわれるが、秀衡死後、頼朝の圧力に屈する藤原泰衡の手勢に襲われ果てる。作者は、義経の壇ノ浦の後の行動を詳しく追う。義経は頼朝の侮辱挑戦にもかかわらず、武器をすててあえて自滅の道を選び、再び多くの犠牲をもたらす戦争はしないと自分に誓う。その悲劇の英雄義経と家来の堅い主従の誓いは微笑ましく、また悲しい。

この小説には、権力を掴み取ろうとする男たちが果てしなき戦いに明け暮れする中で、時代の荒波に翻弄される女たちの恋の生涯が書かれている。まず最初に登場する平清盛の母で白拍子の祇園女御は、諸行無常のイメージとはかけ離れた精力的な女性である。それに対して、袈裟御前、藤原多子、常磐御前、祇王、静御前、千手、河越百合野はそれぞれ悲恋な生涯を送る。北条政子は頼朝の恋人、妻、そして時政の娘として歴史を動かす。木曽義仲の妻、愛人の巴と葵は、藤原貴族の深窓の女とは全く違う木曽の山村で義仲と育った強い女武将である。彼女たちの義仲への愛も強烈である。女奴隷の山吹は義仲の愛を独占しようとする嫉妬の塊である。清盛の妻時子は、多くの子供を産む良き妻、母で半生を送るが、清盛亡き後は二位の尼と平家の人々から尊敬される平家の魂と自認し、壇之浦では幼い安徳天皇を抱き、西方浄土を求めて入水する。また出家して武家社会の欲望の渦から逃れようとする僧に西行と文覚がある。作者は、彼の等身大の分身として阿部麻鳥を創作した。彼と妻の蓬は、医者夫婦として人道の道を歩み、戦争の災禍を逃れてささやかな庶民の幸福を得る。 「新·平家物語」はこれらの多くの人々の生涯を、時代を追って描く大長編小説である。

第一章 ちげぐさの巻[編集]

小説の初頭では青年平清盛の生きている貴族社会が語られる。平家は天皇、上皇に仕える地下人であり貴族階級の下の奴隷階級であった。清盛の出生は秘密に包まれている。母泰子は白河法皇の愛人、白拍子祇園女御であった。後、清盛の養父平忠盛は死ぬ前の病床ではじめて清盛に、白河法皇の落胤であることを告白する。忠盛は鳥羽上皇の信頼厚く、地下人として初めて内裏の昇殿を許され、貴族独占の政治の中で貴族側からの様々な陰謀があるが(昇殿問題)力を伸ばしていく。侍所に仕える源ノ渡は、佳麗な雑仕女袈裟御前を娶る。遠藤盛藤は結婚する前から袈裟に心を惹かれ、執拗に言いよるが、袈裟はあえて遠藤盛藤の手で自分の首を討たせる。死をもって夫への貞操を守った袈裟の女の道の悲しさに人々は瞼を熱くする。盛藤はこの罪により都の北山、高雄、栂ノ尾の山に逃亡、熊野那智の滝で厳しい修行をつみ、武士の身分を捨て、坊主文覚に変心する。栂ノ尾の山の中には鳥羽僧正の山小屋があり、鳥獣戯画で有名な覚猷僧正が登場する。平清盛は貧乏貴族の藤原時信の娘時子と結婚し、時子の弟、後の大納言平時忠と後の建春門院となる妹の滋子を義理の弟妹に持つ。武士佐藤義清は、妻娘のいる家族を捨てて出家して、西行法師と名乗り、和歌の道を全うすべく全国を巡業する。鳥羽天皇は15歳で天皇になった時、白河法皇の養女藤原璋子(後の待賢門院)を中宮に迎えたが、白河法皇は高齢まで好色で、藤原璋子が鳥羽天皇の中宮になった後も寵愛し続けた。鳥羽天皇はその屈辱を忘れず、璋子の産んだ第一皇子彰仁(崇徳天皇)を自分の産んだ男子とは思わず、鳥羽上皇と崇徳天皇の関係は死ぬまで冷たい。鳥羽上皇は白河法皇崩御の後すぐ、待賢門院藤原璋子を後宮から追放し、美福門院藤原得子を寵愛する。平忠盛は崇徳の皇子一宮の乳母有子を後妻にむかえ、彼女がのちの池の禅尼である[2]

第二章 九重の巻[編集]

比叡山延暦寺は皇城鬼門の鎮護、天皇本命の道場として歴代天皇の帰依深く、数千人の僧侶、荒法師がその威厳を大いに振るっていた。おりしも祇園祭で平清盛の郎党二人が祭り酒の酒気にあおられ、延暦寺の法師神人を傷つける事件を起こす。これをきっかけに比叡山は日吉山王の神輿を担ぎだし、洛内へ強訴に出た。延暦寺は朝廷、院へ、加賀白山の廃寺の荘園を叡山の領有として認めさせるべく、また清盛の義弟平時忠と郎党平六の身を引き渡すよう要求した。鳥羽上皇はこの要求を無視し、平清盛が一人二千余の比叡山の大衆に立ち向かい、日吉山王の神輿に弓を放ち、法師大衆を比叡山に退散させる。左大臣藤原頼長は平清盛のこの大胆な行為を皇祖の尊霊を汚すものとして死刑を要求したが、それに対して少納言藤原信西は、清盛のしたことは、院の一任に従うものと清盛を弁護した。この信西の意見により、平清盛は銅の公納の軽い罰金刑に課せられるのみとなった。この事件の背後には左大臣藤原頼長が源氏の棟梁源為義をひいきし、平氏を中央政府から退けたい意図があった。これを機会に藤原信西と平清盛の同盟が始まる。その頃、崇徳天皇は幼少の異母弟に玉座を譲り近衛天皇が生まれる。近衛天皇の后の選定を巡り鳥羽院で大きな政争が発生する。当初、鳥羽上皇は左大臣藤原頼長の養女多子の立后に同意していたが、鳥羽上皇の中宮、美福門院の反対にあい、美福門院の養女呈子に変更した。頼長の父藤原忠実の執拗な働きかけにより近衛天皇の皇后は藤原頼長の養女多子と決まり、この政争は頼長と忠実側の勝利に終わったかに見えたが、彼らと美福門院との関係は悪化する。悪左府藤原頼長は、天皇の外戚摂政および藤原氏の長者となり、朝廷の重職を一手に握る権力者となる。13歳の時に藤原多子と結婚した近衛天皇は幼少から不予であったが、久寿2年(1155年)17歳で崩御する。近衛天皇の母親美福門院の悲しみは深く、落胆したところに、悪左府頼長忠実親子が近衛天皇の死を呪詛したという噂が流れる。これは藤原信西が仕掛けた罠であったが、頼長忠実親子はこれにより、鳥羽上皇、美福門院の怒りをかい、政界から失脚する。また鳥羽上皇は近衛天皇の後、第4皇子雅仁親王を後白河天皇とし、崇徳新院は次期皇位は彼の第一皇子重仁親王の順番であると期待していたのであるが裏切られる。この天皇家内の皇位争いが、鳥羽法皇が保元元年(1156年)7月2日に他界した後直後に保元の乱の勃発に導く。失脚した藤原頼長は勢力挽回を図るべく皇位継承から外れて不幸な崇徳上皇を担ぎ上げていく。崇徳上皇は長年、三条西洞院の柳の水の御所にひっそり世捨て人の生活をしていたが、柳の泉守として上皇のそばに誠実に勤める阿部麻鳥が登場する。

第三章 保元の巻[編集]

保元の乱では後白河天皇内裏側に対して崇徳上皇が反乱の旗を挙げた。崇徳側には藤原頼長、源為義、平忠正の率いる武士兵が加勢し、後白河天皇の内裏側には源義朝、平清盛、源頼政などの名だたる武士族が名を連ねる。天皇、藤原氏、源氏、平氏、各家族が内部で敵味方に分裂する。後白河天皇は仮内裏の高松殿の御座所から東三条第へ行幸、ここに関白藤原忠通、少納言藤原信西など多数の公卿が集まり、それに源義朝、平清盛を主力に兵庫源頼政などの武臣がそろう。崇徳上皇は鴨川の東側に位置する白河北殿に遷り、源為義が当年18歳の為朝など子息6人と郎党200騎を率いて参戦する。源氏は義朝だけが後白河側につき、為義のほか6人の子息は敵の崇徳軍で戦う。平氏では清盛の叔父忠正だけが崇徳側でほか全員官軍に属する。崇徳側では、八郎為朝の超弩級の矢が猛威を振るい、平清盛軍を駆け崩す。法荘厳院の西裏の戦いは激烈を極める。為朝の手下には九州以来のたくさんの豪の者がいたが、斎藤実盛、金子家忠、片桐景重、大庭平太景義、弟景親などの源義朝の多くの精鋭達の手にはかなわなかった。特に斎藤実盛、大庭景義景親兄弟により為朝の猛兵たちが討たれた。戦いは官軍の勝利となり、崇徳上皇は白河北殿を出て、源為義、平忠正らに守られながら、北白川から如意山に逃れた。悪左府藤原頼長も白河北殿から落ち延びる時に流れ矢にあたり、夜, 父忠実を頼り宇治から奈良興福寺に逃亡するが、忠実は朝賊頼長を家に入れず救助を拒絶したため、頼長は舌を嚙み自殺する。戦いが終わると、崇徳新院側とみられる逃亡者の峻烈きわまる追捕が始まる。右馬助平忠正、忠正の息子、長盛、忠綱、正綱は六条河原で首を斬られる。源為義は、七条の草原で首を斬られた。主犯者崇徳新院は讃岐へ流罪となり、遠流から8年目、46歳で死ぬ。その間少納言藤原信西の専制政治に不満を抱く公家たちが政府を覆す計画を立てる。三位藤原経宗、権中納言藤原信頼、越後中将藤原成親、伏見源中納言師仲、検非違使別当藤原惟方などが京都の郊外深草で謀議を重ねる。武門では源義朝が、信西の政策に不平を持っていた。この信頼らの不平貴族と不平武士義朝一党が結ばれた。彼らは、平清盛が平治元年(1159年)12月4日に熊野権現に旅立つ機会に藤原信西を討つと決定した。

第四章 六波羅行幸の巻[編集]

第四章は平治の乱の話である。右衛門督藤原信頼、左馬頭源義朝を首謀者とする反藤原信西派は、平清盛が熊野詣に出て京都を留守にしていた隙に、平治元年(1159年)12月9日夜半、後白河法皇と二条天皇を幽閉する。少納言藤原信西はその晩、仙洞御所にいなく、姉小路西洞院の自宅から馬で逃亡するが、12月13日に小幡峠で討たれた。信西の子息、身寄りの者19名も囚われ、斬られた。藤原信頼一味は内裏を武力で占領し、天子の宮殿、紫宸殿、清涼殿で天子不在のまま政治を自在にする。紀州の切目村で都の異変を知った平清盛は、都で起きた反乱を人生最悪の災難と覚悟する。その時の清盛について吉川英治は、「清盛の決意と行動については、古典の諸本が皆、清盛の不決断と退却策を彼の本心みたいに書き、そして、その卑怯を諫めた者を、子の重盛であると、ひどくかれを無分別者扱いになし終わっている。」しかし、吉川の書く清盛は六波羅に残る家族の安全を気遣いながら、反乱軍を討つべく勇敢に京都へ引っ返していく。作者は平清盛について、「こんな難局の大舞台を、いながら回転させ得るほどな力量の人物は、平安朝の幾世紀にも、この日までは、出づべくして出なかったといっても過言ではない。」と書いている。清盛は後白河上皇と二条天皇を救出させる。二条天皇はそのまま六波羅へ行幸され、六波羅は仮御所となり、これにより平家は官軍となった。天皇、上皇を平氏に逃した源義朝の落胆は大きく、信頼と運命を共にしたことを多いに悔やみ憂れう。賊軍となった源義朝は、武器の力で清盛と決戦する覚悟をする。兵庫頭源頼政は反乱軍を去り三条河原により源氏軍に加勢しない中立体制を示す。内裏に立て籠る源氏軍は約2千、それに対して平家軍は3千、12月27日明け方戦闘開始する。大将に任ぜられた平の嫡男重盛と源氏の嫡男悪源太義平の華々しい一騎打ちが紫宸殿前の南庭に植えてある左近の桜と右近の橘あたりを何度も駆け回る場面が繰り広げられる。義朝は、今が孫子の代までの運の分かれ目と感じ、六波羅を総攻撃で攻める。特に坂東武者はその野性の勇と武門の中で磨きあう恥なき名において勇敢に戦い、六波羅内は大混乱に陥る。平治の合戦は、その激しさ、保元の乱の比ではない。保元の戦いは朝廷と院と、あるいは貴族と貴族との戦いであった。平治の乱の場合、動機は信頼と一味の若公卿が口火役に踊っただけで、爆発したのは源平二系統の軍部と軍部の争覇であった。平家軍は六波羅で持ちこたえ、体制を挽回、頼政の一手の渡辺党が平家軍勢に加勢、六波羅軍が五条の西詰で突如赤旗を掲げて現れ、義朝軍を包囲するかに見え始めた。平家軍は市内の源氏町界隈を焼き始め、源氏軍がもろくも崩れ去っていった。義朝、義平等鴨川上流へ逃げていく。都の北へ落ち延びる義朝の股肱は14名しかいない。堅田から琵琶湖を超え東近江の野洲川尻へ逃れた義朝のもとには、義平、朝長、頼朝の3人の息子と鎌田政家、平賀義信、金王丸、佐渡重成の四人の家来だけになった。義朝以下馬上の一行は雪の夜を鈴鹿峠向かうが、途中頼朝が馬上居眠りして義朝と二人の兄たちから落伍してしまう。頼朝はこれより一人美濃の青墓の長者大炊のところを目指す。そこには義朝の愛人延寿がいる。頼朝は延寿から、父義朝が長田忠致に諮られ、股肱の鎌田政家とともに、最後を遂げたことを知る。また兄朝長も矢傷の重症を負い死に、義朝の嫡男義平は青墓で義朝と別れ、木曽路へ向かったので助かった。14歳の頼朝は一人尾張へ向かう途中尾張守平頼盛の家人弥兵衛宗清につかまり、京都六波羅に連れ去られてしまう。清盛の義母池の禅尼が仏者の慈悲の心により清盛に頼朝を助命させるように強く働きかけ、頼朝は伊豆へ流されていく。義朝と常磐御前の3人の男の子、今若(8歳)、乙若(6歳)と牛若(2歳)はそれぞれ寺に預けられることになった。

第五章 常磐木の巻[編集]

平治の乱(1160年)の勝利者平清盛は、敵将源義朝の四人の男の子を生き残すべきではなかった。壇之浦の戦い(1185年3月)でこの源頼朝と弟義経に滅ぼされる平家の人々は、なぜ清盛はこの時厳しい決断をなさなかったかと無念がる。3人のお子を手放した常磐は、清盛に女体を許す。清盛が政治と貞操とを交換条件に無力な寡婦を無理に口説き伏せたというのは巷の捏造であり、鎌倉期の筆者が作り上げたものである。清盛の常磐に対する接し方は、征服者の強姦者ではなく、思春期の青年が初恋の女性にあこがれるそれであった。常磐は、清盛の寛大な処置を恩とは感じ、情けとはうけても、女の自由は、なお彼女の意志のものであると思う。世間は、清盛に身を預ければ、栄花が望めると言うが、常磐は母性の理智と堅くまもる貞操の意志の底でなぶられる孤独な生活を続ける。常磐は人恋しい思いで清盛を待ちわびるが、清盛は朝廷の公務が忙しく、その後常磐を一度も訪れていない。義朝の傍に仕えていた家来、渋谷金王丸の父親は、武蔵の国渋谷の庄の住人渋谷重国である。金王丸は、父親から義朝の愛人と子供の行方を見守る特別な使命をおびて、都に潜んでいた。金王丸は、常盤御前の境遇の変わり方を見て、夫の仇である清盛に身をまかせたことを不潔に思っていた。金王丸は、常磐を刺し殺そうと常磐の近辺をうろつき迷っている頃、常磐から部屋に入るように誘われて話す。そこで初めて、義朝が平治の乱で敗れて逃亡する前常磐に遺言を書き送ったことを知り、義朝の遺言を読んで、常磐が義朝の遺言通りの覚悟で生きていることを悟った。金王丸は、これからは常磐の身を守ると、新たな使命を自分に言い聞かせる。常磐は、清盛の取り計らいで、前の大蔵卿藤原長成のところへ後添えとして嫁いでいった。その頃歌法師西行はその後、奥州藤原秀衡を訪れ、佐藤義清といっていたごろの家来を弟子西住にする。西行の心は、仏の道に入る為に妻子に与えた深刻な嘆きが何千倍もの深傷となって痛む。今もなお惨心が肉体から離別できない。西行は都に帰る途中の琵琶湖の船で、平泉ではたらく造仏師音阿弥と出会う。同じ船中で藤原秀衡の家来、後で戦争商人になる金売り商人吉次が初めて小説に登場する。西行は京都で、以前和歌友達であった待賢門院の女房中納言の局を訪問する。また彼の旧居のあたりを彷徨し、あの頃の妻子のことを悶々と思い出す。あの頃五つであった娘が今は世帯を持って仲良く夫婦暮らしを営むのを外から垣間見る。内裏では、18歳の二条天皇が、23歳になられた亡き近衛天皇の皇后多子に恋をされた。天皇の父親後白河上皇、多子の父親徳大寺公能も反対したが、二条天皇は天子の御意思を通され、多子は入内し前代未聞の二代の后になった。六条牛飼い町に住む車工匠良全の娘明日香は、金売り吉次に奥州平泉へ連れ去られるところであった。近所に住む麻鳥が明日香を吉次から取り戻す。この明日香がのち有名な白拍子祇王である。明日香はそれから、麻鳥の家に来るようになる。この頃平清盛は長年の夢をかなえたいと準備を始める。福原に都を造る、大輪田に港を造る、平家氏の社厳島神社を一大天国にする。清盛は波上に厳島神社を眺め、恍惚とひとみを凝らす。

第六章 石船の巻[編集]

平清盛は保元平治以来の一門の幸運のお礼に熊野へ参拝する。その機会に、熊野で育った異母弟忠度を京都へ連れて帰る。清盛は権大納言兵部卿に昇進した。二条天皇は、院政反対の第一人者で、院と朝廷の対立で感情を激され、夜は弘徽殿の后多子との睦まじい生活に、尊い生命を燃焼浪費され、永万元年(1165)23歳で他界される。しかし、二条天皇はご危篤のなか急遽、天皇の一宮(天皇六条)に皇位を譲られる。後白河は同時に、建春門院滋子の産んだ憲仁を(後の高倉天皇)を皇太子になされた。天皇2歳、皇太子は6歳である。御年28歳の皇后多子のたび重なる御悲運で、玉の簾、錦の帳内みな涙に褪せていく。二条天皇の大喪は船岡山で執り行われたが、この葬送の夜、叡山の大衆と興福寺との間で額打論の大喧嘩が起こる。仏寺の紛争は拗れて収まらず、六波羅にむかった延暦寺の兵が清水寺に火をつけ、清水寺が全焼する。比叡山と興福寺の武力対立は、清盛をおいていま誰も仲介はできない。興福寺が強訴に出て、延暦寺の座主の流罪を要求したが、清盛は、数日の内に延暦寺と話をつけ、興福寺の僧兵が奈良に引き上げた。その実力を鑑みて、後白河法皇は平家抑制の内部方針を変更し、清盛と結ぶ決心をされる。仁安元年(1166)摂政藤原基実が24歳の若さで病死し、清盛はこの機会に内大臣となる。翌年には武士として初めて太政大臣に昇格する。平相国清盛50歳である。清盛の栄達には暴力も陰謀も用いられていない。これより約15年続く平家全盛時代がはじまる。清盛の次女盛子が摂関家の藤原基実に嫁ぎ、清盛の妻時子の妹滋子は後白河上皇の御子皇太子憲仁を生んでいる。この時代が、平安期を通じて見られなかった平家文化の全盛時代である。平家60余名の名だたる一族があらゆる部門に職を統べる。平大納言時忠がこの頃「平家にあらずんば人に非ず」といったと言われる。白拍子の女主刀自は、平忠度へのお礼に祇王を美しい白拍子装束に装って六波羅に牛車で送る。艶やかな17歳の乙女祇王は恋する忠度ではなく、清盛の見染められ、清盛は祇王をそのまま六波羅に留めておく。祇王の父親良全は、祇王の出世のおかげで裕福な生活するようになるが、女衒の朽縄の誘惑、おだてにのり、酒、博打にはまり女房泣かせの極道になる。白拍子の町、君立ち川にもう一人可憐な白拍子が現れる。仏御前は祇王のしたように、清盛のすむ西八条へ押しかける。仏御前が今様を披露し、舞をすると、清盛は仏の気高く美しい威厳な踊りに魅せられ、仏はそれから西八条に嫁ぐことになった。祇王は清盛の寵愛が離れたことを知り実家に戻る。まもなく祇王とその母親は尼となり、嵯峨の奥に草の庵を結んで二人で住み始める。数日後には妹の妓女も仏御前も出家して同じ庵に住み始める。嵯峨野の祇王寺が今も残る。平安朝後期の女の命のはかなさである。清盛は、五、六年のうちに福原に漁村や草原から雪の御所を中心とする別荘地を開発する。平氏の富をもって大輪田の築港を手掛けるが、難工事ではかどらない。石船に石を運ばせ、海底から築き上げるが、西南の大風浪に遭うと、ひとたまりもなく崩れてしまう。日々数千人の人夫や船夫を督して不屈な努力を続ける。その間清盛が寄生虫の病気にかかる。その頃清盛は出家し、浄海と唱える。清盛は太政大臣を辞職して朝廷の任務から遠ざかり、大輪田の泊りの築堤に専念する。国庫による財政援助の話は進まず、清盛は決断して平家の私財を投げ打って、秋から夜も船篝をつらね、数千人の土工、人夫、船夫、技官が昼組、夜組に分かれて不眠不休の突貫工事をすすめた。承安3年(1173)に念願の大輪田の築港がほぼ完成をみた。まず沖に経ヶ島を現出させ、その島を徐々に伸ばして陸とつなぐことに成功する。六条天皇が御退位され、高倉天皇の即位が実現する。六条上皇は5歳、高倉天皇の9歳である。これらの人事は後白河法皇と平清盛の二人が決定、摂関家上卿には知らせるだけで、朝議にもかけられない。これにより藤原氏の特権、皇室と血縁による繋がりが、横あいからの闖入者に踏みにじられた。平一門みな昇官するが、藤原氏は凋落一途をたどる。平時忠はこの時赤直垂の禿童300人を密偵として都にばらまき始める。藤原家と平家の敵対感情が嘉応2年(1170)7月、車争いで爆発する。摂政藤原基房の牛車と平資盛の車が大通りですれ違うが、平資盛と摂政基房の家来同士が凄惨な大喧嘩を起こし、怪我人を出す。平重盛の命令で、平家の武士が、公務で内裏に上がる途上の摂政基房の牛車の随身侍を襲い乱暴した。承安2年(1172)清盛の一女徳子は高倉天皇の中宮になる。天皇御12歳、徳子は18歳である。まもなく宋船の初入港を見た。そのころ、文覚が法住寺殿の後白河法皇の宴会の場に押しかけ後白河の悪政をののしる。そのため文覚は伊豆への流罪に処せられる。伊豆の守源仲綱が文覚を伊豆の国奈古谷寺へ護送する。仲綱は源頼政の息子で、頼政は源氏一門中でただ一人平家の政府に仕えている。文覚の伊豆流罪の見送りに来た蓬と麻鳥は、元金王丸といった刀自の下僕小若に話しかけられ、彼の要望に応えて一条にある藤原長成の屋敷に常磐を訪れる。常磐は蓬との再会を喜ぶ。常磐は15歳になる牛若の将来を心配ており、牛若の手紙をよんで涙に咽ぶ。常磐は、蓬と麻鳥に銀の小観音像と手紙を託し牛若に手渡してほしいと頼む。麻鳥は常磐の願いを叶えることを決心し、夜歩き、昼寝て鞍馬山へ登る。同じころ奥州の金売り商人吉次が小若をつれて鞍馬寺に参籠する。小若は深夜に仁王門の北方の由木神社の近くにある、東光坊の裏で、稚児部屋からひらりと欄を超えて飛び降りる牛若と落ちあう。二人は、牛若を護る源氏の草間がくれ一味の集まりにいく。源氏の残党は炭を焼き、山畑を耕し,猟師となり、木樵となり臥薪嘗胆の生活を続け、牛若を2歳の時から15歳の子冠者になるまで守ってきた。吉次は小若に化けた金王丸といつも滞在する堀川の刀自の家で知り合い、男と男の約を誓った。源氏の残党、吉次、小若は、源氏の嫡流牛若を鞍馬寺から盗み出し秀衡の領国へ伴う計画を約束する[3]

脚注[編集]

  1. ^ 『新平家物語(一)』新潮文庫、2月1日、631頁。 
  2. ^ 『新平家物語(一)』講談社、4月11日、9-246頁。 
  3. ^ 『新·平家物語(四)』講談社、五月十五日、7-258頁。