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新・平家物語

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

新・平家物語』(しんへいけものがたり)は、吉川英治歴史小説1950年から1957年まで「週刊朝日」に連載された[1]。現行版は吉川英治歴史時代文庫全16巻。新潮文庫全20巻。

概要

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題材は『平家物語』だけでなく、『保元物語』『平治物語』『義経記』『玉葉』など複数の古典をベースにしながら、より一貫した長いスパンで両氏や奥州藤原氏、公家などの盛衰を描いた長編小説。 執筆にあたっては、全国数百カ所に存在する平家の落人伝説のある村落を訪ね歩くなどの取材を重ねた[2]

西行文覚など、権力闘争の外にあった同時代人や庶民たちの視点も加え、それまで怨霊の代表格であった崇徳上皇を時代に翻弄される心優しい人物として描くなど、新しい視点で平安時代から鎌倉時代への「それまでにない大戦乱となった」過度期の時代を描いている。読者も、戦後復興から変革へ向け動いていた昭和中期の時代様相に重ね、「国民文学作家」たる吉川の後期代表作となった。

1955年、1956年に大映で映画化されたほか、1972年にNHK大河ドラマ、1993年~1995年に人形劇として映像化された。

解説

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『新・平家物語』は、中世文学を代表する傑作『平家物語』をどう新たにしたのか。新は何を意味するのか。それは古文を現代語に訳しただけではない。題材を『平家物語』だけでなく、『保元物語』『平治物語』『義経記』『玉葉』など複数の古典をベースにした。国文学者島内景二によると、吉川英治は「日本文学をあまりにも永く支配してきた滅びの美学に引導を渡し、それに替わってあたらしい理念を注入しようとした。」「平清盛や、源氏の武将や、運命に翻弄された天皇や庶民たちを、エネルギッシュで活動的な人間として蘇らせようとしたのだ。」島内曰く、「新·平家物語」というタイトルは「脱·平家物語」の宣言であり、「脱·無常観」を意味している[3]

『新・平家物語』は平安後期に台頭した武家平清盛を棟梁とする平家が、保元平治の乱を勝ち抜き藤原摂関家にとって代わる。二十年間繁栄した後、治承寿永の乱にて源氏に滅ぼされる歴史の流れを、多くの人々の行動、動機、感情を再現して織りなされた小説である。作者は、源頼朝が平家打倒と同時に、後白河法皇院政を撤廃し、鎌倉に武家政府を創立してゆく革命の経過を追い、源平合戦の大将軍源義経が兄頼朝に追放され、奥州平泉で自害にいたる、対立の原因考察、歴史のヒーロー源義経の心情と平和を願う信念を描く。

吉川英治は「はしがき」にかえて『平家物語』の序文を引用し、日本人に定着している従来の歴史観、人生観たる、諸行無常、盛者必衰を出発点とした。しかし、作者は、それとは全く違う死生観と運命観を展開していく。『新・平家物語』の平清盛は、平安時代後期の最強の政治勢力後白河上皇と対等で政争し、藤原貴族による摂関政治を廃止させ、太政大臣、天皇の外戚となり、律令制度の伝統に縛られる貴族に比べ、新しい政策を導入、福原(現在の神戸)に平家の首都を作り、大輪田に台風で破壊しない港を造る。これにより、宋貿易が可能になった。このようにして平家一門は栄華の頂点に立つ。しかし、清盛の死後は、半貴族半武士となった平家は、東国の豪族を統一しつつある源頼朝に敗れ、破竹の勢いで北陸道を都へ進む木曽義仲軍により、京都から西国へ追放される。朝日将軍木曽義仲は都を制すること二年たらずで、源義経、範頼軍により宇治、京都、瀬田で滅ぼされる。その間平家は瀬戸内海を中心に海陸軍を再編成、東国から押し寄せる源氏の陸軍を屋島より脅かすかに見えたが、源義経の率いる陸海軍により一の谷屋島壇之浦海戦で大敗殲滅する。この小説は軍記物語である。平家全盛時代の中で、源頼朝源頼政木曽義仲源義経が、みな同じ平家打倒の念願にむけて、それぞれ別な道を生き延び全源氏の目標を果たした生涯が全巻にわたってかかれている。治承寿永の乱で活躍する数々の東国の武将たちは、平安時代の華やかな貴族社会の下で、土着武士として堅実に生き抜けた個性の強い土豪たちで、頼朝は源氏の棟梁として東国を源氏の旗の下に統合していく。これら東国武士は源平合戦で多くの戦勝をあげ、おおくの武勇談が語られる。

作者はここで、滅び去る平家の公達たちの生涯を隈なく描いている。清盛以外の平家の人々は貴族の生活になじみ、歌をよみ、音楽を好んだ。それらの和歌や運命の戦いの前に奏でる雅楽の悲しい音色が読者の心に響く。戦勝殊勲第一人者と自他認められていた大将軍源義経は、梶原景時の誹謗中傷により、頼朝の反感を買い、頼朝は義経の忠誠を疑い源氏、鎌倉政府から勘当、追放する。義経は頼朝への忠誠を腰越状で誓うものの、新鎌倉政府の守護地頭に追われる。九朗判官義経は、弁慶伊勢三郎などの数人の股肱と共に修験者に変身して、安宅関を通り抜け、奥羽平泉の藤原秀衡にかくまわれるが、秀衡死後、頼朝の圧力に屈する藤原泰衡の手勢に襲われ果てる。作者は、義経の壇ノ浦の後の行動を詳しく追う。義経は頼朝の侮辱挑戦にもかかわらず、武器をすててあえて自滅の道を選び、再び多くの犠牲をもたらす戦争はしないと自分に誓う。その悲劇の英雄義経と家来の堅い主従の誓いは微笑ましく、また悲しい。

この小説には、権力を掴み取ろうとする男たちが果てしなき戦いに明け暮れする中で、時代の荒波に翻弄される女たちの恋の生涯が書かれている。まず最初に登場する平清盛の母で白拍子の祇園女御は、諸行無常のイメージとはかけ離れた精力的な女性である。それに対して、袈裟御前、藤原多子常磐御前祇王静御前、千手、河越百合野はそれぞれ悲恋な生涯を送る。北条政子は頼朝の恋人、妻、そして時政の娘として歴史を動かす。木曽義仲の妻、愛人のと葵は、藤原貴族の深窓の女とは全く違う木曽の山村で義仲と育った強い女武将である。彼女たちの義仲への愛も強烈である。女奴隷の山吹は義仲の愛を独占しようとする嫉妬の塊である。清盛の妻時子は、多くの子供を産む良き妻、母で半生を送るが、清盛亡き後は二位の尼と平家の人々から尊敬される平家の魂と自認し、壇之浦では幼い安徳天皇を抱き、西方浄土を求めて入水する。清盛の娘で高倉天皇の中宮建礼門院徳子は、幼い安徳天皇が御座船から海に飛び降りたと見るや、御自ら後を追う。建礼門院は潮の流れから源氏の武士たちにより救い出される。戦後は京都大原の寂光院で、尼として滅び去った一族の鎮魂に余生を捧げる[4]。また出家して武家社会の欲望の渦から逃れようとする僧に西行文覚がある。作者は、彼の等身大の分身として阿部麻鳥を創作した。彼と妻の蓬は、医者夫婦として人道の道を歩み、戦争の災禍を逃れてささやかな庶民の幸福を得る。 「新・平家物語」はこれらの多くの人々の生涯を、時代を追って描く大長編小説である。

あらすじ

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第一章 ちげぐさの巻

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小説の初頭では青年平清盛の生きている貴族社会が語られる。平家は天皇、上皇に仕える地下人であり貴族階級の下の奴隷階級であった。清盛の出生は秘密に包まれている。母泰子は白河法皇の愛人、白拍子祇園女御であった。後、清盛の養父平忠盛は死ぬ前の病床ではじめて清盛に、白河法皇の落胤であることを告白する。忠盛は鳥羽上皇の信頼厚く、地下人として初めて内裏の昇殿を許され、貴族独占の政治の中で貴族側からの様々な陰謀があるが(昇殿問題)力を伸ばしていく。侍所に仕える源ノ渡は、佳麗な雑仕女袈裟御前を娶る。遠藤盛遠は結婚する前から袈裟に心を惹かれ、執拗に言いよるが、袈裟はあえて遠藤盛遠の手で自分の首を討たせる。死をもって夫への貞操を守った袈裟の女の道の悲しさに人々は瞼を熱くする。盛遠はこの罪により都の北山、高雄、栂ノ尾の山に逃亡、熊野那智の滝で厳しい修行をつみ、武士の身分を捨て、坊主文覚に変心する。栂ノ尾の山の中には鳥羽僧正の山小屋があり、鳥獣戯画で有名な覚猷僧正が登場する。平清盛は貧乏貴族の藤原時信の娘時子と結婚し、時子の弟、後の大納言平時忠と後の建春門院となる妹の滋子を義理の弟妹に持つ。武士佐藤義清は、妻娘のいる家族を捨てて出家して、西行法師と名乗り、和歌の道を全うすべく全国を巡業する。鳥羽天皇は15歳で天皇になった時、白河法皇の養女藤原璋子(後の待賢門院)を中宮に迎えたが、白河法皇は高齢まで好色で、藤原璋子が鳥羽天皇の中宮になった後も寵愛し続けた。鳥羽天皇はその屈辱を忘れず、璋子の産んだ第一皇子顕仁(崇徳天皇)を自分の産んだ男子とは思わず、鳥羽上皇と崇徳天皇の関係は死ぬまで冷たい。鳥羽上皇は白河法皇崩御の後すぐ、待賢門院藤原璋子を後宮から追放し、美福門院藤原得子を寵愛する。平忠盛は崇徳の皇子一宮の乳母有子を後妻にむかえ、彼女がのちの池の禅尼である[5]

第二章 九重の巻

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比叡山延暦寺は皇城鬼門の鎮護、天皇本命の道場として歴代天皇の帰依深く、数千人の僧侶、荒法師がその威厳を大いに振るっていた。おりしも祇園祭で平清盛の郎党二人が祭り酒の酒気にあおられ、延暦寺の法師神人を傷つける事件を起こす。これをきっかけに比叡山は日吉山王の神輿を担ぎだし、洛内へ強訴に出た。延暦寺は朝廷、院へ、加賀白山の廃寺の荘園を叡山の領有として認めさせるべく、また清盛の義弟平時忠と郎党平六の身を引き渡すよう要求した。鳥羽上皇はこの要求を無視し、平清盛が一人二千余の比叡山の大衆に立ち向かい、日吉山王の神輿に弓を放ち、法師大衆を比叡山に退散させる。左大臣藤原頼長は平清盛のこの大胆な行為を皇祖の尊霊を汚すものとして死刑を要求したが、それに対して少納言藤原信西は、清盛のしたことは、院の一任に従うものと清盛を弁護した。この信西の意見により、平清盛は銅の公納の軽い罰金刑に課せられるのみとなった。この事件の背後には左大臣藤原頼長が源氏の棟梁源為義をひいきし、平氏を中央政府から退けたい意図があった。これを機会に藤原信西と平清盛の同盟が始まる。その頃、崇徳天皇は幼少の異母弟に玉座を譲り近衛天皇が生まれる。近衛天皇の后の選定を巡り鳥羽院で大きな政争が発生する。当初、鳥羽上皇は左大臣藤原頼長の養女多子の立后に同意していたが、鳥羽上皇の中宮、美福門院の反対にあい、美福門院の養女呈子に変更した。頼長の父藤原忠実の執拗な働きかけにより近衛天皇の皇后は藤原頼長の養女多子と決まり、この政争は頼長と忠実側の勝利に終わったかに見えたが、彼らと美福門院との関係は悪化する。悪左府藤原頼長は、天皇の外戚摂政および藤原氏の長者となり、朝廷の重職を一手に握る権力者となる。13歳の時に藤原多子と結婚した近衛天皇は幼少から不予であったが、久寿2年(1155年)17歳で崩御する。近衛天皇の母親美福門院の悲しみは深く、落胆したところに、悪左府頼長忠実親子が近衛天皇の死を呪詛したという噂が流れる。これは藤原信西が仕掛けた罠であったが、頼長忠実親子はこれにより、鳥羽上皇、美福門院の怒りをかい、政界から失脚する。また鳥羽上皇は近衛天皇の後、第4皇子雅仁親王を後白河天皇とし、崇徳新院は次期皇位は彼の第一皇子重仁親王の順番であると期待していたのであるが裏切られる。この天皇家内の皇位争いが、鳥羽法皇が保元元年(1156年)7月2日に他界した後直後に保元の乱の勃発に導く。失脚した藤原頼長は勢力挽回を図るべく皇位継承から外れて不幸な崇徳上皇を担ぎ上げていく。崇徳上皇は長年、三条西洞院の柳の水の御所にひっそり世捨て人の生活をしていたが、柳の泉守として上皇のそばに誠実に勤める阿部麻鳥が登場する。

第三章 保元の巻

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保元の乱では後白河天皇内裏側に対して崇徳上皇が反乱の旗を挙げた。崇徳側には藤原頼長源為義平忠正の率いる武士兵が加勢し、後白河天皇の内裏側には源義朝平清盛源頼政などの名だたる武士族が名を連ねる。天皇、藤原氏、源氏、平氏、各家族が内部で敵味方に分裂する、。後白河天皇は仮内裏の高松殿の御座所から東三条第へ行幸、ここに関白藤原忠通、少納言藤原信西など多数の公卿が集まり、それに源義朝、平清盛を主力に兵庫源頼政などの武臣がそろう。崇徳上皇は鴨川の東側に位置する白河北殿に遷り、源為義が当年18歳の為朝など子息6人と郎党200騎を率いて参戦する。源氏は義朝だけが後白河側につき、為義のほか6人の子息は敵の崇徳軍で戦う。平氏では清盛の叔父忠正だけが崇徳側でほか全員官軍に属する。崇徳側では、八郎為朝の超弩級の矢が猛威を振るい、平清盛軍を駆け崩す。法荘厳院の西裏の戦いは激烈を極める。為朝の手下には九州以来のたくさんの豪の者がいたが、斎藤実盛金子家忠片桐景重、大庭平太景義、弟景親などの源義朝の多くの精鋭達の手にはかなわなかった。特に斎藤実盛、大庭景義景親兄弟により為朝の猛兵たちが討たれた。戦いは官軍の勝利となり、崇徳上皇は白河北殿を出て、源為義、平忠正らに守られながら、北白川から如意山に逃れた。悪左府藤原頼長も白河北殿から落ち延びる時に流れ矢にあたり、夜, 父忠実を頼り宇治から奈良興福寺に逃亡するが、忠実は朝賊頼長を家に入れず救助を拒絶したため、頼長は舌を噛み自殺する。戦いが終わると、崇徳新院側とみられる逃亡者の峻烈きわまる追捕が始まる。右馬助平忠正、忠正の息子、長盛、忠綱、正綱は六条河原で首を斬られる。源為義は、七条の草原で首を斬られた。主犯者崇徳新院は讃岐へ流罪となり、遠流から8年目、46歳で死ぬ。その間少納言藤原信西の専制政治に不満を抱く公家たちが政府を覆す計画を立てる。三位藤原経宗、権中納言藤原信頼、越後中将藤原成親、伏見源中納言師仲、検非違使別当藤原惟方などが京都の郊外深草で謀議を重ねる。武門では源義朝が、信西の政策に不平を持っていた。この信頼らの不平貴族と不平武士義朝一党が結ばれた。彼らは、平清盛が平治元年(1159年)12月4日に熊野権現に旅立つ機会に藤原信西を討つと決定した。

第四章 六波羅行幸の巻

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第四章は平治の乱の話である。右衛門督藤原信頼、左馬頭源義朝を首謀者とする反藤原信西派は、平清盛が熊野詣に出て京都を留守にしていた隙に、平治元年(1159年)12月9日夜半、後白河法皇二条天皇を幽閉する。少納言藤原信西はその晩、仙洞御所にいなく、姉小路西洞院の自宅から馬で逃亡するが、12月13日に小幡峠で討たれた。信西の子息、身寄りの者19名も囚われ、斬られた。藤原信頼一味は内裏を武力で占領し、天子の宮殿、紫宸殿、清涼殿で天子不在のまま政治を自在にする。紀州の切目村で都の異変を知った平清盛は、都で起きた反乱を人生最悪の災難と覚悟する。その時の清盛について吉川英治は、「清盛の決意と行動については、古典の諸本が皆、清盛の不決断と退却策を彼の本心みたいに書き、そして、その卑怯を諫めた者を、子の重盛であると、ひどくかれを無分別者扱いになし終わっている。」しかし、吉川の書く清盛は六波羅に残る家族の安全を気遣いながら、反乱軍を討つべく勇敢に京都へ引っ返していく。作者は平清盛について、「こんな難局の大舞台を、いながら回転させ得るほどな力量の人物は、平安朝の幾世紀にも、この日までは、出づべくして出なかったといっても過言ではない。」と書いている。清盛は後白河上皇と二条天皇を救出させる。二条天皇はそのまま六波羅へ行幸され、六波羅は仮御所となり、これにより平家は官軍となった。天皇、上皇を平氏に逃した源義朝の落胆は大きく、信頼と運命を共にしたことを多いに悔やみ憂れう。賊軍となった源義朝は、武器の力で清盛と決戦する覚悟をする。兵庫頭源頼政は反乱軍を去り三条河原により源氏軍に加勢しない中立体制を示す。内裏に立て籠る源氏軍は約2千、それに対して平家軍は3千、12月27日明け方戦闘開始する。大将に任ぜられた平の嫡男重盛と源氏の嫡男悪源太義平の華々しい一騎打ちが紫宸殿前の南庭に植えてある左近の桜と右近の橘あたりを何度も駆け回る場面が繰り広げられる。義朝は、今が孫子の代までの運の分かれ目と感じ、六波羅を総攻撃で攻める。特に坂東武者はその野性の勇と武門の中で磨きあう恥なき名において勇敢に戦い、六波羅内は大混乱に陥る。平治の合戦は、その激しさ、保元の乱の比ではない。保元の戦いは朝廷と院と、あるいは貴族と貴族との戦いであった。平治の乱の場合、動機は信頼と一味の若公卿が口火役に踊っただけで、爆発したのは源平二系統の軍部と軍部の争覇であった。平家軍は六波羅で持ちこたえ、体制を挽回、頼政の一手の渡辺党が平家軍勢に加勢、六波羅軍が五条の西詰で突如赤旗を掲げて現れ、義朝軍を包囲するかに見え始めた。平家軍は市内の源氏町界隈を焼き始め、源氏軍がもろくも崩れ去っていった。義朝、義平等鴨川上流へ逃げていく。都の北へ落ち延びる義朝の股肱は14名しかいない。堅田から琵琶湖を超え東近江の野洲川尻へ逃れた義朝のもとには、義平、朝長、頼朝の3人の息子と鎌田政家平賀義信、金王丸、佐渡重成の四人の家来だけになった。義朝以下馬上の一行は雪の夜を鈴鹿峠向かうが、途中頼朝が馬上居眠りして義朝と二人の兄たちから落伍してしまう。頼朝はこれより一人美濃の青墓の長者大炊のところを目指す。そこには義朝の愛人延寿がいる。頼朝は延寿から、父義朝が長田忠致に諮られ、股肱の鎌田政家とともに、最後を遂げたことを知る。また兄朝長も矢傷の重症を負い死に、義朝の嫡男義平は青墓で義朝と別れ、木曽路へ向かったので助かった。14歳の頼朝は一人尾張へ向かう途中尾張守平頼盛の家人弥兵衛宗清につかまり、京都六波羅に連れ去られてしまう。清盛の義母池の禅尼が仏者の慈悲の心により清盛に頼朝を助命させるように強く働きかけ、頼朝は伊豆へ流されていく。義朝と常磐御前の3人の男の子、今若(8歳)、乙若(6歳)と牛若(2歳)はそれぞれ寺に預けられることになった。

第五章 常磐木の巻

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平治の乱(1160年)の勝利者平清盛は、敵将源義朝の四人の男の子を生き残すべきではなかった。壇之浦の戦い(1185年3月)でこの源頼朝と弟義経に滅ぼされる平家の人々は、なぜ清盛はこの時厳しい決断をなさなかったかと無念がる。3人のお子を手放した常磐は、清盛に女体を許す。清盛が政治と貞操とを交換条件に無力な寡婦を無理に口説き伏せたというのは巷の捏造であり、鎌倉期の筆者が作り上げたものである。清盛の常磐に対する接し方は、征服者の強姦者ではなく、思春期の青年が初恋の女性にあこがれるそれであった。常磐は、清盛の寛大な処置を恩とは感じ、情けとはうけても、女の自由は、なお彼女の意志のものであると思う。世間は、清盛に身を預ければ、栄花が望めると言うが、常磐は母性の理智と堅くまもる貞操の意志の底でなぶられる孤独な生活を続ける。常磐は人恋しい思いで清盛を待ちわびるが、清盛は朝廷の公務が忙しく、その後常磐を一度も訪れていない。義朝の傍に仕えていた家来、渋谷金王丸の父親は、武蔵の国渋谷の庄の住人渋谷重国である。金王丸は、父親から義朝の愛人と子供の行方を見守る特別な使命をおびて、都に潜んでいた。金王丸は、常盤御前の境遇の変わり方を見て、夫の仇である清盛に身をまかせたことを不潔に思っていた。金王丸は、常磐を刺し殺そうと常磐の近辺をうろつき迷っている頃、常磐から部屋に入るように誘われて話す。そこで初めて、義朝が平治の乱で敗れて逃亡する前常磐に遺言を書き送ったことを知り、義朝の遺言を読んで、常磐が義朝の遺言通りの覚悟で生きていることを悟った。金王丸は、これからは常磐の身を守ると、新たな使命を自分に言い聞かせる。常磐は、清盛の取り計らいで、前の大蔵卿藤原長成のところへ後添えとして嫁いでいった。その頃歌法師西行はその後、奥州藤原秀衡を訪れ、佐藤義清といっていたごろの家来を弟子西住にする。西行の心は、仏の道に入る為に妻子に与えた深刻な嘆きが何千倍もの深傷となって痛む。今もなお惨心が肉体から離別できない。西行は都に帰る途中の琵琶湖の船で、平泉ではたらく造仏師音阿弥と出会う。同じ船中で藤原秀衡の家来、後で戦争商人になる金売り商人吉次が初めて小説に登場する。西行は京都で、以前和歌友達であった待賢門院の女房中納言の局を訪問する。また彼の旧居のあたりを彷徨し、あの頃の妻子のことを悶々と思い出す。あの頃五つであった娘が今は世帯を持って仲良く夫婦暮らしを営むのを外から垣間見る。内裏では、18歳の二条天皇が、23歳になられた亡き近衛天皇の皇后多子に恋をされた。天皇の父親後白河上皇、多子の父親徳大寺公能も反対したが、二条天皇は天子の御意思を通され、多子は入内し前代未聞の二代の后になった。六条牛飼い町に住む車工匠良全の娘明日香は、金売り吉次に奥州平泉へ連れ去られるところであった。近所に住む麻鳥が明日香を吉次から取り戻す。この明日香がのち有名な白拍子祇王である。明日香はそれから、麻鳥の家に来るようになる。この頃平清盛は長年の夢をかなえたいと準備を始める。福原に都を造る、大輪田に港を造る、平家氏の社厳島神社を一大天国にする。清盛は波上に厳島神社を眺め、恍惚とひとみを凝らす。

第六章 石船の巻

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この章は平家全盛時代である。二条天皇は、院政反対の第一人者で、院と朝廷の対立で感情を激され、夜は弘徽殿の后多子との睦まじい生活に、尊い生命を燃焼浪費され、永万元年(1165)23歳で他界される。しかし、二条天皇はご危篤のなか急遽、天皇の一宮(天皇六条)に皇位を譲られる。後白河は同時に、建春門院滋子の産んだ憲仁を(後の高倉天皇)を皇太子になされた。天皇2歳、皇太子は6歳である。御年28歳の皇后多子のたび重なる御悲運で、玉の簾、錦の帳内みな涙に褪せていく。二条天皇の大喪は船岡山で執り行われたが、この葬送の夜、叡山の大衆と興福寺との間で額打論の大喧嘩が起こる。仏寺の紛争は拗れて収まらず、六波羅にむかった延暦寺の兵が清水寺に火をつけ、清水寺が全焼する。比叡山と興福寺の武力対立は、清盛をおいていま誰も仲介はできない。その実力を鑑みて、後白河法皇は平家抑制の内部方針を変更し、清盛と結ぶ決心をされる。清盛はこの機会に内大臣となり、翌年には武士として初めて太政大臣に昇格する。平相国清盛50歳である。清盛の栄達には暴力も陰謀も用いられていない。これより約15年続く平家全盛時代がはじまる。平家60余名の名だたる一族があらゆる部門に職を統べる。平大納言時忠がこの頃「平家にあらずんば人に非ず」といったと言われる。17歳の乙女白拍子祇王は六波羅にまかり清盛の見染められ清盛のもとで住み始める。また君立ち川にもう一人可憐な白拍子が現れる。清盛は仏御前の気高く美しい威厳な踊りに魅せられ、仏御前はそれから西八条に嫁ぐことになった。まもなく祇王とその母親の尼、妹の妓女、仏御前の4人が出家して同じ庵に住み始める。嵯峨野の祇王寺は今も残る。清盛は、5、6年のうちに寒村福原に雪の御所を中心とする別荘地を開発する。平氏の富をもって大輪田の築港を手掛ける。清盛は太政大臣を辞職して朝廷の任務から遠ざかり、大輪田の泊りの築堤に専念する。国庫による財政援助の話は進まず、清盛は決断して平家の私財を投げ打って、秋から夜も船篝をつらね、数千人の土工、人夫、船夫、技官が昼組、夜組に分かれて不眠不休の突貫工事をすすめた。承安3年(1173)に念願の大輪田の築港がほぼ完成をみた。これにより大輪田の港に宋船が入港するようになり、宋貿易が始まる。六条天皇が御退位され、高倉天皇の即位が実現する。六条上皇は5歳、高倉天皇の9歳である。これらの人事は後白河法皇と平清盛の二人が決定、摂関家上卿には知らせるだけで、朝議にもかけられない。このことはとりもなおさず、藤原氏の特権であった、皇室と血縁による繋がりによる政治が、横あいからの闖入者平家に踏みにじられたことを意味する。この平家全盛、藤原家衰退を象徴するような事件が起こる。摂政藤原基房の牛車と平資盛の車が大通りですれ違うが、平資盛と摂政基房の家来同士が凄惨な大喧嘩を起こし、怪我人を出す。平重盛の命令で、平家の武士が、公務で内裏に上がる途上の摂政基房の牛車の随身侍を襲い乱暴した。清盛は一門の横柄さを諫めるごとく、摂政基房に謝意を示し太政大臣に昇進させる。承安2年(1172)清盛の一女徳子は高倉天皇の中宮になる。天皇御12歳、徳子は18歳である。京都の巷では、文覚が院の悪政を見かねて、法住寺殿の後白河法皇の宴会の場に押しかけ院政をののしる。そのため文覚は伊豆への流罪に処せられる。このあと、蓬と麻鳥は、一条にある藤原長成の屋敷に常磐を訪れ、常磐が15歳になる牛若の将来を心配していることを知る。常磐は、蓬と麻鳥に銀の小観音像と手紙を託し牛若に手渡してほしいと頼む。麻鳥は常磐の願いを適えることを決心し鞍馬山へ侵入する。同じころ奥州の金売り商人吉次が小若をつれて鞍馬寺に参籠する。鞍馬山僧正ゲ谷には、源氏の御曹司牛若を巡り、吉次、小若、麻鳥の他にも源氏の残党がうごめいている。

第七章みちのくの巻

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この章では、悲劇の英雄九郎義経の成長が語られる。2歳の幼少から平泉の藤原秀衡のもとで匿われる義経18歳までの幼年、青年期が描かれている。平治の乱の後鞍馬寺に預けられた牛若は、阿闍梨蓮忍の弟子覚日のもとで学問と躾を受ける。牛若は、母との縁も母乳も美食も与えられない無慈悲な環境の中で成長し、不順に耐えられる強靭な意志と智を授かり、反骨と強い生命力を持つ。その牛若が15歳を迎える。15歳になると鞍馬寺で得度がおこなわれ、髪を切り仏門の道へ入らざるを得なくなる。僧正ヶ谷の谷底に集まる天狗たちは、主君と仰ぐ遮那王牛若を武門の道へと教育し、遮那王へ平家打倒の望みを託す。この天狗たちとは若い源氏の残党で、東国の土豪の郎党たちである。阿部麻鳥は常磐の依頼で鞍馬に忍び込み、手紙と義朝の形見の小観音像を遮那王に手渡し、母親の願いを伝える。常磐は牛若が仏門にはいり、戦争の修羅の巷に彷徨うことのない人になって欲しいと強く願っている。しかし遮那王はこの時、仏門ではなく武門の道を選ぶ。源氏の残党たちは、御曹司を平家の檻から救うため平泉の藤原秀衡に頼る。牛若は鞍馬祭り最中、天狗たちに助けられ毘沙門堂の裏から逃げだすことに成功する。奥州秀衡の家来の金売り商人吉次は牛若を平泉まで案内することを約し牛若の身を預かる。牛若は、堀川にかくまわれ白拍子の雛「龍胆」となり、六波羅の捜索から身元を隠す。この頃牛若は、近所の鼓作り磯大掾の娘、静にであう。この少女がのちの白拍子静御前である。しかし、女衒の朽縄が牛若の身元を見破り、牛若は五条大橋の上で危うく朽縄に囚われるところであったが、金王丸が朽縄を殺して牛若を助ける。16になった牛若は、一人嵐の夜六波羅番兵の目を透かし、常磐の部屋に侵入、初めて膝に抱かれて母の温かみを知る。母は牛若に教える、「武門に立っても、驕る人になってはなりません。世を守り人を愛するよい君になっておくれ。」吉次は牛若一人を荷駄の背に乗せて東国へ旅出る。尾張の那古屋の庄で、牛若は義兄頼朝の叔父、熱田神宮の大宮司祐範を烏帽子親と仰いで元服し、これより九郎義経と名乗る。義経と吉次が足柄を越え坂東へ入る時、深栖陵助重頼と千葉冠者胤春に迎えられる。吉次、義経の一行は隅田川の畔の浅草寺で一泊するが、義経は真夜中、重頼、胤春らの若者数人に誘拐される。義経は深栖重頼、千葉胤春と下総の多々羅の牧で自由に悠々と成長していく。この間、源頼政の長男伊豆守仲綱と仲綱の息子有綱に初めて会う。義経、胤春、重頼、有綱は、春三月一日に香取の宮を詣で、奉射の祭りで弓取の競いを観戦する。ここで九郎は名誉の射手那須与一宗高と弟大八郎宗重に偶然出会った。これより義経と重頼は坂東の草の実党の有縁の郎党のところを回っている。松井田の宿では旅籠の主、のちの伊勢三郎義盛と知り合う。武蔵野山奥で義経は、この漂白の一年余敗者の生活と敗土の貧しさを見、この時から奥州の平泉の藤原秀衡に接することを決心する。義経と深栖重頼は境関白河を平泉へ目指して通過し信夫里に達した時、荘司佐藤継信、忠信兄弟に迎えられる。佐藤兄弟の母は父義朝の愛人であった人で、この尼は佐藤継信、忠信を義経に家来として託し、継信、忠信兄弟はのち義経の無二の家来となる。義経は奥州の都平泉へ着き、伽羅御所で藤原秀衡に身を預けることになる。藤原三代秀衡は平泉にいながら微妙な世の動きを観る眼と知識を持っていた。平泉はいま、三代目の最盛期である。義経はしかし深栖重頼と二人だけで平泉を去り、噂によれば義経はそれから熊野新宮へ渡り那智にいるといわれる。

第八章火乃国の巻

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火乃国の巻では伊豆の国に流された源氏の嫡流源頼朝と北条時政の長女政子の恋の話である。頼朝は14歳で伊豆へ流されてきてから蛭が島にもう18年も住んでいる。31歳になった頼朝は朝夕法華経二部を読み、その後写経する日々を送っている。彼の流人屋敷には、配所の局亀御前が仕え、安藤盛長夫婦、佐々木定綱、盛綱兄弟と旅絵師の居候播磨邦通が住む。その頼朝を平家豪族伊東祐親北条時政の他、六波羅の目代山木兼隆、それに伊豆の国司源仲綱らが監視する。一見何もない生活だが、頼朝は美男で好色といわれ、伊豆の若い娘たちのあこがれである。頼朝は北条政子に恋をする。政子は二十歳である。治承元年(1177年)、京都では鹿ケ谷会議が発覚し、平家追討の密議を謀った首謀者が囚われる事件が伊豆にも噂に聞こえ、六波羅に招集された北条時政は任務を終え7月に伊豆へ帰国する。だが伊豆半島は依然として平和であり、誰も頼朝が伊豆の一角に挙兵の下準備をするとは考えていない。むしろ頼朝にはその能力もなし、器でもないと観る者の方が多数であった。北条家は平将軍貞盛の血をひく歴代の平家で、時政は平清盛を主と仰ぐ伊豆の大豪族である。50の男盛りで、頑健で名利の闘いには貪欲な強さも隠そうとしない。その時政は後妻の牧の方、嫡男宗時、本人の政子にも相談せず、独断で山木判官兼隆の政子求婚願いに同意してしまった。時政は山木判官なら六波羅殿の昵近であるし将来がある婿だと見ている。時政は政子が流人頼朝を慕っていると知ると猛反対し、政子に問いただす。政子の兄宗時は、政子と頼朝の関係を歓迎しているが、政子は父親時政の立場を考え兼隆との縁談に承知する。花嫁政子はしかし、北条家と山木家の祝儀の席から頼朝に与する土豪の若党たちに誘拐されてしまう。花婿山木兼隆は激憤し、時政に政子を見つけ出せとさんざん抗議するが、政子は、頼朝の住む蛭が島の配所にもおらず、北条時政も近辺一帯を探させるが見つからない。時政は山木家にひたすら謝るだけである。山木目代兼隆は武力を脅すが、伊豆東国近辺の豪族や、中央の六波羅は伊豆での騒ぎを好まず、政子を取り戻すことはあきらめざるを得ない。この頃、高雄の上人文覚も奈古谷寺に流されている。流人同士の頼朝と文覚は初対面をして、相手の腹の底を探り合いながらたわいない話をする。文覚は頼朝を、「これは義朝には欠けていたものを父子二代分ほどもゆたかにもって生まれた男ぞ」と観た。頼朝は、六波羅を恨むでもなし、世情の紊れを願うでもなく、天下の隙をうかがおうとするような眉色も見えない。世間の大半は頼朝はそのような器ではないと観ている。一方、加賀の白山の末寺鵜川寺の土着の僧と中央から赴任した国司の目代近藤判官師経が衝突、武力騒動になる。地方寺社は総本山延暦寺へ訴え、山門は後白河院へ向かって訴訟する。延暦寺と後白河法皇の対立は激化し、法皇も今回は山門の訴願は理由なきものとし紛糾は収まらない。比叡山大衆3千と加賀法師1千を加えた強訴の大示威が洛内になだれ込み、大内裏を襲ったが、待賢門を守る小松重盛の平家武者にさんざん射立てられて逃げ退いた。後白河法皇は延暦寺の座主明雲に改易を命じ伊豆へ配流する院宣を下された。座主を尊敬仰ぐ延暦寺の堂衆は追立の役人、警護の兵から明雲を奪い返し比叡山に引き揚げる。後白河を中心とする藤原成親、西光法師などの反平家勢力は清盛打倒の陰謀を企みつつある。六方者恐め坊が山門の堂衆の先頭に立ち、延暦寺の危機を流血の惨なく打開するべく、後白河法皇の院宣による延暦寺の罪状を張本人としてひとり受け、比叡山を下山、法住寺へ自首していく。この恐め坊が、幼名を鬼若といった26歳の武蔵坊弁慶である。弁慶は、折しも発覚した鹿ゲ谷会議の一味を捕えるべく平清盛が動員した軍勢の甲冑弓箭がひしめく町の中に東獄から脱出する。

第九章御産の巻

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この章では、平家一門の上に、おめでたい徳子の出産をはさんで大きな暗雲が二つ発生する。お産の前には打倒平家の鹿ケ谷の陰謀が発覚する。お産の後には近畿地方に潜伏する九郎義経の動向が描かれる。 京都東山の如意ケ嶽の山ふところにある鹿ケ谷に法勝寺の執行俊寛僧都の山荘がひっそりと建つ。治承元年(1177)5月26日、後白河を中心とする反平家勢力の顔ぶれが風雅の会にことよせて平家転覆の密議の会合に集まる。首謀者は西光法師、新大納言藤原成親、俊寛などである。後白河法皇法住寺を留守にして鹿ケ谷に自ら赴かれた。法皇の清盛に対する危惧は根深く年久しいものであった。一味は事を挙げるは今だと判断した。山門攻めに軍を動かしている最中、平家方は怪しみもせず、見過ごすであろうと判断した。公卿たちは北面の武士、検非違使の他に、源頼政、大和源氏の多田蔵人行綱を頼みとしていたが、頼政は参加せず、行綱は院方の勢力には勝算なしとおののき、福原の雪の御所にいる平清盛に密告した。清盛は平家の兵馬を招集し、即、京都西八条の館へ帰り、素早く平家を傾けんとする輩全員を召し捕らえる。公卿たちは軽率にも天下を覆すような大事を管弦のお遊びのように進めた。清盛は後白河法皇が張本人であられると知っているが、法皇の御心不問にする。鹿ケ谷に連座したものは全員検挙処罰されて事態は速やかに終息する。吉川英治はここで古典平家物語と異なる解釈をしている。古典では清盛が謀叛人成敗だけでは飽き足らず、法皇のお体も他の場所へお遷しせんと出陣したものとなっている。まず西光が朱雀の辻で首を斬られ、他の謀叛人もみな流刑に処せられる。法勝寺の俊寛僧都、平判官康頼と丹波少将藤原成経は鬼界ケ島へ遠流される。1年後、康頼と成経だけは中宮徳子の御安産祈禱の大赦で都に呼び戻されたが、俊寛だけは鬼界ケ島に取り残され、36、7の若さで果てた。治承2年(1978)11月12日、高倉天皇中宮平徳子が皇子を産む。後の安徳天皇である。清盛の喜びは格別である。相国夫婦は帝室の外祖父、外祖母となる。その頃、義経は平泉から熊野船にかくれ那智へやってきた。新宮には義経の叔父十郎行家がいる。行家の姉も新宮の別当行範の妻で義経の身寄りである。義経の小さい願いは、母を迎えて一つ屋根の下で暮らすことである。その願いをかなえるため、熊野灘で舟航の技術を磨き、那智寺、青岸渡寺の書籍を読み、文武の鍛錬に励む。義経は、新宮十郎行家の館に身を置いているとき、知多坊月尊に変身した鎌田正近から、母常磐の消息を聞く。都一条の以前の家は火事に焼け、常磐は山里で無事住んでいる。正近はまた、京で放火強盗をはたらき人心をかく乱するのは山下兵衛義經であり、新宮行家が偽義経を作り上げたと言う。本来、新宮別当は熊野三山の総別当であるはずが、保元以来清盛と関係の深い紀州田辺の別当湛増が六波羅探題のような威勢をひろげ、源氏加担の宗家新宮の別当行範の立場がおびやかされている。そういう事情で鎌田正近と義経は京都へ移ることする。別当行範の取り計らいで義経達は新宮の海族の鵜殿家の船で護送され、惣領の鵜殿隼人介と義経の気が合い再会を誓う。また義経の一行に江の三郎(後の伊勢三郎義盛)が仲間に加わる。京都では高倉天皇、中宮徳子の皇太子誕生百ヵ日の日、平重盛が吐血して小松谷の家に籠るようになり、治承3年7月29日42歳で他界する。重盛の死は、平家全盛、その栄花が咲き誇る中、平家一門のうえに、一抹の哀愁と沈痛な反省を与えた。平大納言時忠は検非違使の別当となり、都の治安を脅かす義経狩りに奔走している。時忠は山下兵衛義經と源九郎義経は違う人間とは知らない。九郎義経は、法勝寺の一茎二花の蓮で世間を騒がせようとした伊豆有綱に出会い、有綱の案内で新宮十郎行家に会いに近江の堅田へ行く。

第十章りんねの巻

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吉川英治の新・平家物語はこれで前期をおえる。平治の乱から20年経て平家の幸福は頂点に達し、源氏の不幸も極大となる。その後は逆転するしかない。この反転現象を作者はりんねと言う。 九郎義經は21歳になり近江堅田から龍華へ向かう途中にある伊香立の館ではじめて郎党を従える君となる。しかしそこで義経は、自分の名が都では放火掠奪の強盗集団の頭、山下兵衛義經である絡繰りを知る。検非違使別当平大納言時忠は、都の治安を乱す張本人の義経を捕まえようと躍起となって探している。新宮十郎行家の策は完全に敗北に終わる。行家の子息行宗と堅田湖族の刀禰弾正介の子息左金吾、居初権五郎らを六波羅から釈放させるため、九郎義経は平時忠に和平案を提案した。時忠は義経の条件を全面的に承知する。京の物騒が止み、比叡山の堂衆も静まり、事態は急遽解決にむかった。義経の出した条件に従い、彼は一人で大理卿平時忠の館に自首していく。平清盛は源九郎の処分を平時忠に全面的に委嘱している。平家の公達たちは源氏の御曹司の死刑を求める。時忠は彼らを騙すため武蔵坊弁慶を殺し屋として雇う。弁慶は五条の大橋の上で九郎義経を待伏せるが、義経を取り逃がす。弁慶は、義経の隠れ家で義経に仕える老母鮫に再開し老母と涙を流しあう。この弁慶の母鮫という人物は作者の創作である。ここで弁慶は源九郎義経と主従の誓を結ぶ。義経は時忠との約束通り、すぐ平泉の藤原秀衡のもとに帰るため北陸道へ向かう。 治承3年11月7日(1179)に京都、和泉、大和近辺一帯で大地震が起こる。後白河法皇は次第に平家の所領を切り崩し、経済的圧迫を加えてくる。官職の面でも平家系の人物を追放なさる意図が露骨に表面化する。入道平清盛は後白河法皇に怒り、福原から総勢3千あまりの平家の武士を動員し、後白河法皇を鳥羽の北殿へ遷し奉る。清盛は関白、太政大臣、卿相雲各43人の官職を解き即日遠流に処す。これにより院政が廃止され、政治が内裏に復帰された。治承4年(1180)高倉天皇は皇太子に御位を譲られ3歳の新帝安徳が誕生する。清盛はこれより天皇の外戚となり、平家の権力はいよいよ後白河を凌ぐほどになった。清盛の専断、一門の驕りは今が平家の頂上に達したとみられるようになる。源三位頼政は、長男伊豆の守仲綱、新宮十郎行家とともに、後白河の皇子、以仁王より平家追討の令旨を賜る。行家は山伏に身を変えすぐ伊豆の源頼朝木曽義仲のもとへ下知すべく旅立つ。以仁王の挙兵を契機に、治承・寿永の乱がここに勃発した。

映像化作品

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映画

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テレビドラマ

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脚注

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  1. ^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、377頁。ISBN 4-00-022512-X 
  2. ^ 宮内庁『昭和天皇実録第十二』東京書籍、2017年3月28日、319頁。ISBN 978-4-487-74412-1 
  3. ^ 吉川英治『新・平家物語(一)』新潮社、2014年2月1日、631頁。 
  4. ^ 吉川英治『新・平家物語(十五)』講談社、1989年10月11日、447-462頁。 
  5. ^ 吉川英治『新・平家物語(一)』講談社、1989年4月11日、9–246頁。 

関連項目

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  • にしき堂 - 本作にちなんだ洋風和菓子「新・平家物語」を販売。作者の承諾を得て名付けられた。