指原安三

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指原 安三(さしはら やすぞう、1850年嘉永3年)3月[注釈 1] - 1903年明治36年)3月9日)は、明治時代に活動したジャーナリスト漢学者である[1][2]。号は左腕居士又は豊洲[1]

経歴・人物[編集]

豊後臼杵藩士だった指原卯兵衛の長男として生まれる[1][2]。幼年期に父と死別し[2]大阪府巡査として活動の傍ら藤沢南岳に師事し漢学を学んだ[1][2]。その後上京し[2]二松學舎同人社三島中洲等から再度漢学を学んだ後に共立学舎の幹事を務めながら同学校で漢学の教鞭を執る[1][2]

1889年(明治22年)には鳥尾小弥太が結成した保守党中世派に参加し[1][2]、機関誌である『保守新論』の編集長となり国権論を提唱した[2]。晩年は陸軍幼年学校および陸軍士官学校の教官等としても活動した[1][2]

著書[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 関西大学・泊園書院公式サイトでは生年は1860年万延元年)となっている。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g 指原安三”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社). 2024年2月5日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 指原安三”. 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞出版). 2024年2月5日閲覧。

外部リンク[編集]