慕容イ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
本来の表記は「慕容」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。
幽帝 慕容暐
前燕
第3代君主
王朝 前燕
在位期間 360年 - 370年
都城
姓・諱 慕容暐
景茂
諡号 幽皇帝
廟号
生年 350年
没年 384年
慕容儁(第3子)
景昭皇后可足渾氏
后妃 可足渾氏中国語版
年号 建熙 : 360年 - 370年

慕容 暐(ぼよう い、拼音:Mùróng Wĕi)は、五胡十六国時代前燕の第3代、最後の君主。字は景茂。慕容儁の三男であり、生母は可足渾氏。兄に慕容臧慕容曄が、弟に慕容亮慕容温慕容渉慕容泓慕容沖が、妹に清河公主がいる。

生涯[編集]

父の時代[編集]

350年慕容儁の三男として生まれた。

354年4月、中山王に封じられた。

357年2月、前年に兄である皇太子慕容曄が早世したことにともない、新たな皇太子に立てられた。

360年1月、慕容儁が崩御した。慕容暐はまだ幼かったので、群臣は慕容儁の弟である慕容恪に跡を継ぐよう勧めたが、慕容恪はこれを固く辞退したので、予定通り慕容暐が継ぐこととなった。

慕容恪の輔政[編集]

皇帝即位[編集]

数日後、慕容暐は帝位に即くと、境内に大赦を下し、建熙と改元した。

2月、実母の可足渾氏を皇太后に立てた。また、慕容恪を太宰録尚書事に任じて朝政を主管させ、慕容評太傅に、陽騖太保に、慕輿根太師に任じて朝政を輔佐させた。可足渾氏もまた政治に参画した。

慕輿根は密かに政権掌握を目論んでおり、まずは国を乱そうと考えて慕容恪へ向け、慕容暐と可足渾氏を排斥して自ら帝位に即くよう勧めたが、慕容恪は容れなかった。そのため、今度は慕容恪と慕容評の誅殺を考え、武衛将軍慕輿干と共に密かに謀略を練り、慕容暐と可足渾氏の下へ出向くと、慕容暐らへ「太宰(慕容恪)と太傅(慕容評)が謀反を企てております。臣が近衛兵を率いて彼らを誅殺することをお許しください。」と言上した。可足渾氏はこれに従おうとしたが、慕容暐が「2人は国家の忠臣です。先帝が選んで私たちを託したのです。そのような愚かなことはしません。それに、太師こそが造反を考えているのでないとも限りません。」と述べたため、取りやめとなった。また、慕輿根は慕容暐へ龍城への遷都を上奏し、これを強行しようとした。これを聞いた慕容恪と慕容評は密かに慕輿根の罪を奏上すると、慕容暐は侍中皇甫真・護軍傅顔に命じて慕輿根とその妻子・郎党を捕らえさせ、禁中で処断した。その後、大赦を下した。

3月、慕容儁を龍陵に埋葬した。景昭皇帝とし、廟号は烈祖とした。また、慕容垂を使持節・征南将軍・都督河南諸軍事・河南大都督・南蛮校尉・兗州荊州刺史に任じ、梁国の蠡台を鎮守させた。さらに、孫希を安西将軍・并州刺史に、傅顔を護軍将軍に任じ、他の者もそれぞれ官爵を授けた。

当時、前燕では難が続いていたので、領内の民は大いに動揺し、勝手に住処を離れようとする者が増え、以南では道路が大いに混雑した。そのため、傅顔に騎兵2万を与えて河南で観兵させ、淮河に達したところで帰還させた。これにより、領内は安定し、その軍威は大いに盛んとなった。

361年1月、平陽の民は郡を挙げて前燕へ降伏した。慕容暐は建威将軍段剛太守に任じ、督護韓苞と共に平陽を守らせた。

2月、方士の丁進は慕容恪へ、慕容評を殺して政権を独占するよう説いたが、慕容恪はこれに激怒して丁進を誅殺するよう上奏した。慕容暐はこれを認め、丁進を捕らえて処断した。

野王攻略[編集]

同月、野王に割拠している河内郡太守呂護は密かに東晋へ帰順して前将軍冀州刺史に任じられ、東晋軍を招き入れての強襲を目論んだ。3月、このことが露見すると、慕容暐は慕容恪に5万の兵を与えて呂護討伐を命じ、皇甫真・傅顔も従軍させた。慕容恪は野王に到着すると、城を包囲して長期戦の構えを取った。

4月、桓温は弟の都督沔中七郡諸軍事桓豁許昌へ侵攻させると、前燕の将軍慕容塵はこれを迎え撃つも敗れ去った。

8月、数か月にわたる包囲により追い詰められた呂護は、配下の張興に精鋭7千を与えて突撃させたが、傅顔はこれを撃退して張興を討ち取った。食糧が尽きた呂護は皇甫真の陣営へ夜襲を掛けるも突破できず、慕容恪はこの隙に攻撃を仕掛け、呂護を滎陽へ逃走させた。呂護の兵を鄴へ連行し、参軍梁琛を中書著作郎に抜擢した。

361年9月、并州に割拠する張平が平陽を攻撃すると、前燕の将軍段剛韓苞が討ち取られた。さらに雁門も攻撃を受け、雁門郡太守単男は討死した。その後、張平は前秦から攻撃を受けると、前燕に謝罪して救援を請うたが、慕容暐は張平が離反を繰り返していたので、救援を送らなかった。遂に、張平は敗れて殺された。

10月、呂護は再び前燕に帰順した。慕容暐はこれを認め、広州刺史に任じて以前通りに遇した。12月、大赦を下した。

洛陽制圧[編集]

362年1月、豫州刺史孫興は東晋の勢力下にあった洛陽を攻めるよう勧めて「晋将陳祐は弱兵1000余りで孤立した城を守っております。取らない手はありません!」と上疏した。慕容暐はこれを聞き入れ、傅顔・呂護に兵を与えて河陰へ派遣した。傅顔らは勅勒を襲撃して大戦果を挙げてから帰還した。2月、呂護は洛陽攻撃を開始した。3月、河南郡太守戴施は大いに恐れてへ逃走し、冠軍将軍陳祐は朝廷へ救援を要請した。5月、東晋の大司馬桓温は北中郎将庾希竟陵郡太守鄧遐に3千の水軍を与えて洛陽救援に向かわせた。

6月、信都を守る征東将軍・冀州刺史・范陽王慕容友が配下の征東参軍劉抜に刺殺された。

7月、救援軍の到来により、呂護は小平津まで軍を退いたが、流れ矢に当たって戦死した。将軍段崇は軍を纏めて北へ渡り、野王に戻った。鄧遐は新城まで進んだ。8月、東晋の西中郎将袁真は汝南へ進み、米五万斛を洛陽へ送った。

11月、拓跋什翼犍は前燕へ女を献上し、前燕の人はこれを妻とした。

363年4月、慕容暐は寧東将軍慕容忠滎陽攻略を命じ、慕容忠は滎陽郡太守劉遠を魯陽へ逃走させた。5月、前燕軍が密城を攻略すると、劉遠はさらに江陵まで逃れた。10月、鎮南将軍慕容塵に陳留郡太守袁披の守る長平攻略を命じたが、汝南郡太守朱斌がその隙に乗じて許昌を襲い、前燕軍は敗れた。

364年1月、大赦を下した。

2月、慕容評と龍驤将軍李洪を河南へ侵攻させた。4月、李洪らは許昌・汝南を攻めて東晋軍を幾度も破り、潁川郡太守李福を戦死させた。朱斌は寿春へ逃走し、陳郡太守朱輔は彭城まで退却した。桓温は袁真を派遣して李洪を防がせ、自らは水軍を率いて合肥まで進出した。李洪は許昌・懸瓠・陳城を尽く攻め落とし、さらには汝南諸郡を制圧すると、1万戸余りを幽州・冀州に移らせた。

8月、慕容暐は龍城にある宗廟社稷と留め置かれている百官を鄴に移らせたいと思うようになり、群臣に議論させた。これが実行に移されると、太尉封奕侍中慕輿龍を龍城に派遣して迎え入れさせた。彼らが鄴に到着すると、慕容暐は自ら群臣を束ねて道の左でこれに拝謁した。

同月、慕容恪を洛陽攻略に向かわせた。慕容恪はまず人を派遣して士民を招納すると、遠近の砦が次々と帰順した。また、太宰司馬悦希を盟津に進軍させ、さらに孫興を成皋に配して悦希の援護をさせた。東晋の冠軍長史沈勁沈充の子)は勇士1000人余りを引き連れて陳祐の加勢に馳せ参じると、前燕軍をしばしば破った。

9月、洛陽の兵糧が尽きて援護も断たれれると、陳祐は500人だけを沈勁に預けて洛陽を守らせ、逃走してしまった。これにより河南の諸々の砦は、全て悦希に降った。

365年2月、慕容恪は慕容垂と共に洛陽を攻撃した。3月、慕容恪は洛陽を陥落させ、沈勁の首級を挙げた。慕容恪は余勢を駆って西進して崤澠まで軍を進めると、前秦は大いに震え上がった。前秦君主苻堅は自ら陜城へ出向き、その侵攻に備えた。慕容暐は左中郎将慕容筑を仮節・征虜将軍・洛州刺史に任じて、洛陽を守らせた。また、慕容垂を都督荊揚洛徐豫雍益梁秦等十州諸軍事・征南大将軍・荊州牧に任じ、兵1万を与えて魯陽を鎮守させた。

慕容恪の死[編集]

4月、太尉・武平公封奕が死去すると、匡公と諡した。また、司空陽騖を太尉・侍中・光禄大夫に任じ、皇甫真を司空・領中書監に任じた。

366年3月、領内で水害や旱魃が多発すると、慕容恪・慕容評は稽首して輔政の任を降りることを願い出たが、慕容暐はこれを認めずに2人が提出した辞表を破り捨てた。

鐘律郎郭欽五行について、前燕は後趙の水徳を承けて木徳とするよう勧めると、慕容暐はこれに従った。

10月、撫軍将軍慕容厲に東晋の泰山郡太守諸葛攸を攻撃させた。慕容厲は諸葛攸を淮南へ退却させ、兗州の諸郡を陥落させると、守宰を置いて帰還した。

12月、東晋の南陽督護趙億[1]が宛ごと前燕へ帰順し、太守桓澹新野へ逃走した。これを受けて慕容暐は、南中郎将趙盤を魯陽から宛に移らせ、守備を命じた。

367年2月、慕容厲は鎮北将軍慕容桓と共に漢南の勅勒を撃った。

4月、慕容塵は竟陵へ侵攻したが、東晋の竟陵郡太守羅崇に撃ち破られた。

同月、慕容恪は慕容暐へ「呉王(慕容垂)の才覚は、私に十倍します。しかし先帝は、幼長の序列を重視して私を宰相となさったのです。我が死んだ後は、どうか国を挙げて呉王を尊重なさって下さい。」と進言した。

5月、慕容恪は病により重篤に陥った。慕容暐は自ら見舞いに出向き、後事を問うた。すると慕容恪は「恩に報いるには、賢人を薦めるのが最上であると言います。例え下賤の民でも、賢人ならば重く用いるべきです。ましてや近親の者ならなおさらです。呉王は文武両道であり、管仲蕭何に劣りません。もしも陛下が彼を大任すれば、国家は安泰です。そうでなければ、必ずや秦か晋に隙を窺われましょう。」 と、再び慕容垂を重用するように言い残し、間もなく病没した。これ以降、慕容評と可足渾皇太后が国政を担うようになった。

慕容評の輔政[編集]

好機を逸する[編集]

慕容恪の死後、苻堅は前燕併呑を画策し、西戎主簿郭弁を使者として前燕に向かわせて隙を窺った。郭弁は鄴に至ると公卿の家を逐一訪問して回り、皇甫真は慕容暐に郭弁を詳しく取り調べる様要請した。だが、慕容評がこれを許さなかった。

東晋の右将軍桓豁は竟陵郡太守羅崇と共に宛に侵攻し、これを陥落させた。趙億は逃亡し、趙盤は魯陽へと退却した。桓豁は軽騎兵で趙盤を追撃させ、雉城で趙盤軍は追いつかれて潰滅させられた。趙盤は捕縛され、桓豁は宛に守備を配置してから帰還した。

7月、慕容厲らは勅勒を撃ち破り、牛馬数万頭を鹵獲した。だが、慕容厲は勅勒を討つために代国の国境を通った際、農地を荒らしたので、拓跋什翼犍の怒りを買ってしまった。8月、拓跋什翼犍は幽州軍を率いて雲中にいた平北将軍慕容泥を攻撃した。慕容泥は城を捨てて逃走し、振威将軍慕輿賀辛は戦死した。

12月、太尉・建寧公が陽騖が亡くなると、敬公と諡した。また、司空皇甫真を侍中・太尉・光禄大夫に任じ、李洪を司空に任じた。

368年2月、車騎将軍・中山王慕容沖を大司馬に任じ、荊州刺史・呉王慕容垂を侍中・車騎大将軍・儀同三司に任じた。

前年より、前秦の晋公苻柳蒲坂で、趙公苻双上邽で、魏公苻廋陜城で、燕公苻武安定で、それぞれ苻堅に対する反乱を起こしており、苻廋は陝城を挙げての帰順を条件に前燕へ援軍を要請した。前秦は前燕の襲来を大いに警戒し、華陰に精兵を配した。

前燕の魏尹・范陽王慕容徳は前秦を討つ絶好の機会であるとして、慕容暐へ「先帝は天命に従い、天下を統一しようと志し、陛下はその後を継いでこれを成就なさっております。今、苻氏では骨肉の争いが起こり、国が五つ(蒲坂、陜城、上邽、安定、長安)に別れました。そして、我が国へ降伏する者も相継いでおります。これは秦を燕へ贈ろうという天の御心でございます。『天の与えたるを取らざれば、却ってその殃を受く。』と申しますが、これは(春秋時代の)の興亡を見れば明白でございます。願わくば、皇甫真に并州・冀州の兵を与えて蒲坂を攻撃させ、慕容垂に許・洛の兵を与えて陜城の包囲を解かせ、太傅(慕容評)には京師の兵を与えて出撃させてくださいますよう。その上で、三輔へ檄文を飛ばして禍福を説き、賞罰を明確にすれば、敵は風に靡くように我が軍のもとへ馳せ参じましょう。 今こそ、天下平定の絶好の機会なのです!」[2]と上疏すると、多くの者がこれに同意した。慕容暐もまたこれに大いに喜んで従おうとしたが、慕容評は「秦は大国である。今、国難に襲われたとはいえ、その底力は侮れん。それに引き替え我が国は、朝廷こそ一つにまとまっているが、先帝が崩御したばかり。我等の知略も又、太宰(慕容恪)程ではない。今は、関を閉じて国境を固守するのが一番。平秦など、今の我等には荷が重すぎる。」 の猛反対に遭い果たせなかった。結局、反乱は王猛鄧羌張蚝楊安王鑒によって同年のうちに鎮圧された。

9月、太傅慕容評の執政以降、王侯貴族らが密かに多くの戸籍を隠し持つようになっていたので、僕射悦綰は慕容暐へ「現在三方が鼎立し、互いに併呑の心を有しております。太傅の政治が寛大であることから人々は多く隠附を有しております。今、国家の綱紀は廃れてしまっており、官吏への俸給は断たれ、士卒への食糧供給も断たれる有様となっております。このような事が隣国に知られる事はあってはなりません。どうか、諸々の蔭戸を廃して郡県に返還し、これによって放を明らかになされますように(太宰(慕容恪)の政事は寛和を第一とした事により、百姓の多くが附してきました。『伝(『春秋左氏伝』)』は言います。『徳を有する者は、寛を以って衆(人民)に臨む。その次は猛に如くは莫し。』であると。今、諸軍の営戸は、三分されて貫(連)なっています。そのためか、風教は陵弊し、威綱も挙がっていません。ここは軍封を全廃すべきではないでしょうか。そうすれば、天府の饒は実り、法令は粛明となりましょう。つまり、四海は清へと向かうということです。」と進言した。慕容暐はこれに同意すると、悦綰に命じてこれらの摘発に専従させた。悦綰は事実を究明して厳格に摘発したので、王公は隠し通すことが出来ず、公民は20万戸も増員することが出来た。だが、朝士はこれに大いに憤り、慕容評もこれを不満とした。11月、慕容評の派遣した賊によって悦綰は暗殺された。病死とも言われる。

桓温の北伐[編集]

369年4月、東晋の大司馬桓温が江州刺史・南中郎桓沖、豫州刺史・西中郎袁真らを従え、歩兵騎兵合わせて5万を率いて前燕へ侵攻した。

6月、桓温は金郷から鉅野を経由し、清水から黄河に入った。建威将軍檀玄湖陸を攻撃させ、これを陥落させて寧東将軍慕容忠を捕らえた。慕容暐は慕容厲を征討大都督に任じて2万の兵を与えて迎撃させたが、慕容厲は黄墟で大敗を喫して単騎で逃走した。これにより、前燕の高平郡太守徐翻は郡ごと降伏した。さらに、桓温は鄧遐と朱序を林渚に派遣して前燕の将軍傅顔を破った。慕容暐はさらに楽安王慕容臧に迎撃させたが、桓温はこれも返り討ちにした。その為、慕容暐は散騎常侍李鳳を前秦へ派遣して、救援を要請した。

7月、桓温は武陽に駐屯すると、前燕の元兗州刺史孫元が一族郎党を率いて桓温に呼応した。桓温はさらに枋頭まで進むと、慕容暐は大いに恐れ、慕容評と共に龍城へ撤退しようとしたが、呉王慕容垂は「臣が迎撃いたします。もしも勝てなければ、それから逃げても遅くありません」と言った。これにより、慕容臧に代わって慕容垂を使持節・南討大都督に任じ、征南将軍慕容徳・司徒左長史申胤・黄門侍郎封孚・尚書郎悉羅騰を配下に付け、5万の兵を与えて桓温を防がせた。また、前秦へ虎牢以西の地を割譲する事を条件に、改めて援軍を要請した。

8月、前秦は要請に応じ、将軍苟池・洛州刺史鄧羌へ2万の兵を与えて、洛陽から潁川へ派遣した。また、散騎侍郎姜撫を前燕へ派遣し、救援に応じる旨を伝えさせた。桓温は前燕からの降将である段思を嚮導にしていたが、悉羅騰はこれを攻撃して捕らえた。さらに、悉羅騰は配下の虎賁中郎将染干津を派遣して、魏・趙方面へ侵攻していた李述を撃破し、桓温の士気を削いだ。桓温は石門を開いて水運を通すため、袁真に命じて譙梁攻略に向かわせた。

8月、袁真は譙梁を平定するも石門を開くことが出来ず、次第に晋軍の兵糧が底を突き始めた。

9月、慕容徳は蘭台治書侍御史劉当と共に1万5千の兵で石門に駐屯し、豫州刺史李邽は五千の兵で桓温の糧道を断った。また、慕容徳軍の先鋒慕容宙は200騎で東晋軍を攻撃し、残りの兵800騎を三方に伏せた。東晋軍は200騎の兵に誘き寄せられ、伏兵の奇襲により大打撃を受けた。

兵糧が不足しているのに加え、前秦から援軍が到来しているとの報を受けたので、桓温は舟を焼き払い、輜重や武具を放棄して陸路で退却を始めた。慕容垂は騎兵八千を率いて桓温軍に追撃を掛け、襄邑で追いついた。慕容徳は軽騎四千を率いて先行し、襄邑の東に兵を伏せており、共に東晋軍を挟撃して3万を討ち取った。前秦の将軍苟池も焦において桓温軍を攻撃し、桓温軍は1万の被害を受けた。孫元は武陽に逃走したが、前燕の左衛将軍孟高により捕らえられた。

10月、桓温は山陽まで退却すると敗残兵を収集した。また、この敗戦を大いに恥じ、その罪を全て袁真に帰し、彼を廃して庶人に降とすよう上表した。袁真は桓温に誣告されたと知り大いに怨み、寿陽に拠点を構えると、密かに前燕と内通するようになった。慕容暐は大鴻臚温統を派遣して袁真を使持節・都督淮南諸軍事・征南大将軍・揚州刺史に任じ、宣城公に封じる旨を伝えさせたが、温統は淮河に至る前に亡くなった。

前秦との修好[編集]

これ以降、前燕と前秦は修好を結ぶようになり、たびたび使者が往来するようになった。前燕の散騎侍郎郝晷は使者として長安へ赴いたが、前秦の安定ぶりを見て密かに前燕に見切りを付け、その内情を洩らしてしまった。

桓温を撃退したころにより、慕容垂の威名は大いに轟くようになり、慕容評は彼を忌避するようになった。慕容垂は「今回募った将士は、みな命がけで功績を建てました。特に将軍孫蓋らは精鋭と戦って強固な敵陣を陥しました。どうか厚い恩賞を賜りますよう」と上奏したが、慕容評はこれを慕容暐に通さずに握りつぶした。慕容垂は幾度もこの事を要請し、遂に慕容評と朝廷で言い争うようになった。可足渾皇太后もまたかねてより慕容垂を嫌っており、今回の戦功を不当に引き下げた。さらには、慕容評と共に慕容垂誅殺を謀るようになった。

11月、慕容垂は難を避けるために龍城へ移ろうと思い、狩猟を願い出て平服で鄴を出奔し、龍城へ向かった。だが、邯鄲にいる慕容麟が父である慕容垂を告訴したので、慕容評は慕容暐へこの事を告発し、西平公慕容強に精鋭兵を与えて追撃を命じた。その為、慕容垂は進路を変更して洛陽に入り、前秦に亡命した。魏尹・范陽王慕容徳・車騎従事中郎高泰らは慕容垂と仲が良かったのでみな免官となったが、やがて高泰を復帰させて尚書郎に任じた。

同月、前秦へ使者として派遣されていた給事黄門侍郎梁琛が鄴に帰還すると、梁琛は慕容暐と慕容評へ「秦では日夜軍事訓練が行われ、多量の兵糧が陜東へ運び込まれております。我が見ますに、今の平和は長くは続きますまい。呉王垂も秦へ亡命してまった事で、秦は必ずや我らの隙を衝くでしょう。すぐにでも防備を固められますよう。今、中原が二つに別れて対立しているのは、互いに相手を併呑せんと画策した為ではあり、桓温の来寇により秦が援軍を出したのは、我らとの友好によるものではありません。もし燕に隙を見つければ、どうして彼らが本来の志を忘れましょうか!」と述べた。皇甫真もまた洛陽・太原・壷関の守備を固めて前秦へ備える様上疎すると、慕容暐は慕容評を呼び出してこの事を問うた。だが、慕容評は「秦は弱小であり、我らの力を頼みとしております。それに、苻堅は国交にはそれなりに気を配っております。亡命者の口車に乗り、交流を断絶するような事はしないでしょう。それより、軽率に動いて相手を警戒させる事が紛争の種となるでしょう」と反論し、軍備を増強しなかった。

当時、連年にわたり兵難が続き、国力は大いに疲弊した。また、皇太后可足渾氏は国政を乱し、慕容評は財貨を貪って飽くことが無かった。そのため、朝廷でも賄賂は横行し、官吏の推挙も賄賂によって決まったので、下々には怨嗟の声が溜まった。尚書左丞申紹はこの状況を憂えて、守宰の人選見直しと官吏の削減、また経費の節減と官吏への正しい賞罰を行うよう慕容暐へ上疏したが、聞き入れられなかった。

国家滅亡[編集]

洛陽失陥[編集]

慕容暐は以前、虎牢以西の地を前秦へ割譲する約束をしたが、東晋軍が退却するとその土地を惜しむようになった。そのため、前秦へ使者を派遣して「(割譲の約束は)使者の失言です。国を保ち家を保つ者として、災害の時に助け合うのは、当然の理でしょう」と告げた。苻堅はこれに激怒し、輔国将軍王猛・建威将軍梁成・洛州刺史鄧羌に3万の兵を与え、前燕へ侵攻させた。12月、前秦軍は洛州刺史慕容筑が守る洛陽に攻め込んだ。370年1月、慕容暐は衛大将軍慕容臧に精鋭10万を与えて洛陽救援に向かわせた。王猛は慕容筑へ書を送って脅しをかけると、戦意喪失した慕容筑は降伏を申し出たのでこれを受け入れた。慕容臧が精鋭10万を従えて洛陽救援に向かうと、彼は新楽に城を築いて石門において前秦兵を撃破し、将軍楊猛を捕らえた。この動きを察知した王猛は梁成らに迎撃を命じ、精鋭1万を与えて急行させた。慕容臧は滎陽まで進んでいたが、王猛軍の到来を予期していなかったので、備えをしておらず大敗を喫した。王猛は軍を還すと、鄧羌に洛陽を統治させた。

2月、袁真が亡くなった。東晋の陳郡太守朱輔は袁真の子である袁瑾を建威将軍・豫州刺史として寿春を統治させ、前燕へ報告の使者を派遣した。慕容暐は袁瑾を揚州刺史に任じ、朱輔を荊州刺史に任じた。4月、慕容暐は袁瑾に援軍を派遣したが、桓温の派遣した督護竺瑤喬陽之の水軍に武丘で破れた。

慕容令の反乱[編集]

慕容垂の子である慕容令は父と共に前秦に亡命していたが、単独で逃げ戻って来た。だが、慕容垂は未だに前秦で厚遇されていたので、慕容暐はこれを疑い、龍城の東北六百里にある沙城へ移させた。慕容令はいずれ誅殺されてしまうと思い、密かに反乱を企み、沙城において数千の兵を養った。5月、慕容令は決起して牙門孟媯を殺害すると、城大の渉圭は大いに恐れて降伏した。慕容令はこれを信じて側近とした。反乱軍はそのまま東方にある威徳城を襲撃し、城郎の慕容倉を殺害すると、威徳城を拠点とした。また、東西の諸砦へ檄文を発すると、大半がこれに呼応した。勢力を増大させた慕容令らは次いで龍城を襲撃した。龍城を鎮守する鎮東将軍勃海王慕容亮は、慕容麟と共に城門を閉じて籠城した。ここで渉圭が寝返り、護衛兵を指揮して慕容令を攻撃したので、慕容令は単騎で逃げ、その配下は壊滅した。渉圭は慕容令を追撃し、遂に捕らえてこれを殺し、龍城へ出向いて慕容亮へその旨を伝えた。慕容亮は慕容令のために渉圭を誅殺し、慕容令の屍を回収して埋葬した。

前秦襲来[編集]

苻堅は王猛を総大将に任じ、楊安・張蚝・鄧羌ら10将と歩兵騎兵合わせて6万の兵を与えて、前燕討伐に向かわせた。

7月、王猛が壷関を攻め、楊安が晋陽を攻撃した。8月、王猛襲来の報が鄴に届くと、慕容暐は太傅慕容評に40万を超える兵を与えて救援を命じた。だが、慕容評は王猛に恐れを抱き、潞川に軍を留めてそれ以上進まず、持久戦に持ち込もうとした。州郡では盗賊が大量に蜂起し、怪異な事象が頻発したという。慕容暐は大いに恐れ、散騎侍郎李鳳・黄門侍郎の梁琛、中書侍郎楽嵩を招集して「秦軍の兵はどのくらいであろうか。今、大軍がすでに出発しているが、秦は戦うだろうか」と訪ねた。これに対して李鳳が「秦は小さく、兵も弱小です。どうして王師の敵となりえましょうか。景略(王猛の字)は常才に過ぎず、太傅(慕容評)には及ばず、憂うには足りますまい」 と答えたが、梁琛と楽嵩は共に「勝敗は謀にあり、兵の数にはありません。秦は遠く来寇したからにはどうして戦わないことがありましょう!我らも謀を用いて勝ちを得なければなりません。戦わずに済むなど、甘い考えではなりません!」と答えた。慕容暐はこの発言に不満を抱いたという。

同月、王猛は壷関を陥落させて、前燕の上党郡太守慕容越を生け捕った。これにより、王猛軍が進んだ先の郡県は全て降伏し、前燕の民は震え上がった。王猛は屯騎校尉苟萇に壷関の守備を任せると、楊安の加勢に向かった。晋陽には兵も糧食も十分備わっていたので、并州刺史慕容荘は楊安を阻んでいた。

桓温が寿春を包囲すると、慕容暐は前燕の左衛将軍孟高に騎兵を率いて袁瑾救援に向かい、淮北に至った。だが、渡河する前に前燕と前秦の戦争が始まり、慕容暐は孟高を呼び戻した。

9月、王猛が晋陽に到着すると、張蚝に命じて地下道を掘らせて城内へ進入させ、城門を内から開いた。これを合図に王猛は楊安と共に城内に突入し、慕容荘は捕えられた。

慕容評大敗[編集]

10月、王猛は将軍毛当に晋陽を任せ、さらに進軍して慕容評と対峙した。慕容評はこのような状況下でも山水資源を軍人へ売って銭を稼ぐ有様であったという。王猛は游撃将軍郭慶に精鋭五千を与えると、夜闇に乗じて間道から敵陣営の背後に回らせ、山の傍から火を放った。この火計により、慕容評軍の輜重は焼き尽くされた。この火は、鄴からも見える程凄まじかったと言う。慕容暐はこれに驚愕し、侍中蘭伊を派遣して慕容評へ「王は高祖(慕容廆)の子であり、宗廟社稷を憂えるのべきであるに、将兵を慰撫せずに、なぜに材木や水を独占してその利益をかき集めているのか!官庫に山積する財宝を朕は王と共有しておるのに、なぜに貧しさを憂えているのか!もし賊が進撃して国を滅ぼしてしまえば、王はかき集めた銭帛をどこに収容するというのか!かき集めた銭帛は全て兵卒へ分け与え、これを督して速やかに戦闘するように!」と詰ったので、慕容評は大いに恐れ、王猛へ使者を送って決戦を告げた。

王猛は渭原に布陣すると、鄧羌・張蚝・徐成らを慕容評の陣営へ突撃させた。慕容評はこれに抗しきれず、大敗を喫して数えきれない程の将兵が殺傷された。日中には慕容評軍は潰滅し、捕虜や戦死した兵はゆうに5万を超えた。王猛はこの勝利に乗じてさらに追撃を掛けると、捕虜や戦死者の数は10万に上った。慕容評は単騎で鄴へと逃げ帰った。王猛はそのまま軍を進めると、遂に鄴を包囲した。

梁琛の副使であった苟純は、かつて梁琛と共に長安へ使者として派遣されていたが、梁琛が苻堅との応対について何も自分に告げなかった事を心中恨んでおり、慕容暐へ「琛が長安に滞在していた時、王猛と甚だ交流を琛めておりました。もしかすると異謀を抱いたかもしれませんぞ」と讒言した。また、梁琛は帰国してから度々苻堅や王猛を称える発言をしており、また前秦軍の襲来に備えて軍備を厳重にするよう告げていた。その為、梁琛の予測通り前秦は襲来すると、慕容暐は大いに内通を疑った。ここに至って遂に梁琛を内通者と断定し、投獄した。

鄴陥落[編集]

11月、苻堅は自ら精鋭10万を率いて王猛と合流し、鄴の攻撃を開始した。宣都王慕容桓は1万騎余りを率いて沙亭へ進軍し、慕容評の後援となっていたが、慕容評の大敗を聞き、内黄まで撤退した。苻堅は鄧羌に信都を攻撃させると、慕容桓は鮮卑兵5千人を率いて龍城へ逃げた。夫余の王太子である散騎侍郎余蔚は前燕に仕えていたが、ここで反旗を翻して夫余・高句麗及び上党の民五百人余りを率い、鄴の北門を開けて前秦兵を招き入れた。これを聞いた慕容暐は急ぎ城を飛び出し、慕容評・慕容臧・慕容淵・左衛将軍孟高・殿中将軍艾朗らもまた城から逃亡して龍城へ向かった。慕容暐が城を出た時、衛士数千騎余りが付き従っていたが、すぐに散亡してしまい、数十騎のみが付き従った。

慕容暐の逃亡は困難を極め、孟高が側に侍り、慕容評・慕容臧が護衛しながら進んだが、みな疲労困憊であった。また、野盗にも襲撃され、これと戦いながら前進した。数日して福禄へたどり着き、塚で一休みしていると、20人余りの賊に襲われた。孟高・艾朗は死に物狂いで奮戦したが射殺され、慕容暐はこの混乱で馬を失い、徒歩で逃げた。苻堅は郭慶に追撃を命じており、郭慶は高陽で慕容暐を捕捉した。慕容暐は配下の巨武によって生け捕られると、その巨武へ「汝の如き小人が、天子を縛するか!」と言い放つと、巨武は「我は梁山の巨武である。詔を受け賊を追う様に命を受けたのだ。どうしてこれが天子と言えようか!(自分にとっての『天子』は大秦天王苻堅のみであり、対立皇帝の1人である慕容暐は『賊』でしかない)」と言い返した。慕容暐は苻堅の下へと護送されると、苻堅は降伏せずに逃亡を図った理由を詰問した。慕容暐は「狐は死す時、生まれ育った丘に頭を向けるという。先人の墳墓の前で死ぬ事を願ったまでだ」と答えた。苻堅はこれに哀れみ、縄を解かせてやった。さらに、一旦宮殿に帰らせると、改めて文武百官を伴って降伏させた。

慕容暐は苻堅へ、孟高と艾朗が忠義に殉じたことを語ると、苻堅は彼らを厚く埋葬し、その子らを郎中に抜擢した。

郭慶は残党の追撃を続けて龍城まで進むと、慕容評は高句麗へ逃げたが、高句麗は慕容評を捕らえて前秦へ送った。慕容桓は慕容亮を殺してその部下を吸収すると遼東へ逃げたが、遼東郡太守の韓稠は既に前秦へ降伏しており、慕容桓はこれを破る事が出来なかった。郭慶は配下の朱嶷を派遣して慕容桓を追撃して大いに破り、慕容桓は部下を捨てて単騎で逃走するも、朱嶷に斬り殺された。これにより、諸州の牧・守・六夷の軍などは尽く前秦へ降伏した。占領した領土は157郡、246万戸、999万人に及んだ。前燕の宮人や珍宝は褒賞として、前秦の将士に分け与えられた。

その後[編集]

前秦配下となる[編集]

12月、慕容暐は前燕の后妃・王公・百官・鮮卑4万戸と共に長安へ連行された。長安に至ると、新興侯に封じられ、尚書に任じられた。やがて司馬に移った。

378年2月、長楽公苻丕・武衛将軍苟萇らと共に歩兵・騎兵併せて7万を率い東晋領の襄陽攻略へ向かった。4月、前秦軍は沔北から漢水を渡り、襄陽を攻めた。379年2月、襄陽を陥落させた。

383年8月、苻堅が東晋征討に乗り出すと、慕容暐は平南将軍・別部都督に任じられ、征南将軍苻融・驃騎将軍張蚝・撫軍将軍苻方・衛軍将軍梁成・冠軍将軍慕容垂と共に歩兵・騎兵合わせて25万を率いて前鋒となった。10月、慕容暐らが寿春を陥落させ、東晋の平虜将軍徐元喜、安豊郡太守王先を生け捕りとした。その後、員城に駐屯した。11月、苻堅が淝水の戦いで大敗を喫すると、慕容暐は軍を放棄して逃走し、滎陽に至った。叔父である奮威将軍慕容徳はこの混乱に乗じて再起するよう勧めたが、慕容暐は従わなかった。その後、苻堅に従って長安に帰還した。

384年2月、叔父の慕容垂は丁零・烏桓の兵20万余りを率いて前秦に反旗を翻した。3月、弟の慕容泓もまた関東の鮮卑部族を集結させて反旗を翻した。これを受け、慕容暐は密かに諸弟や宗族へ、長安の外で兵を起こさせるよう画策した。だが、苻堅の防備が甚だ厳重だったので、時機を得られなった。

4月、慕容泓の軍勢に慕容沖も加わり、その勢力は10万余りに膨れ上がった。慕容泓は苻堅のもとへ使者を派遣し「呉王は既に関東を平定しており、速やかに大駕を準備している。我が家の兄皇帝(慕容泓は慕容暐の弟)を奉送していただきたい。そうすれば、泓は関中の燕人を率いて乗輿を護衛し、鄴都へ帰還する。以後は虎牢を国境と定め、秦と長く修好を保とうではないか」と告げると、苻堅は激怒して慕容暐を召し出すと「今、泓はこのような書を送ってきた。卿が去りたいならば朕は助けてやるつもりだ。しかし、卿の宗族は人面獣心であり、とても国士として共にすることなどできん!」と詰った。慕容暐は流血するほど叩頭し、涙を流して謝罪した。しばらくした後、苻堅は「これは三豎(慕容垂・慕容泓・慕容沖)の為した事であり、卿の過ちではない」と述べ、慕容暐への待遇は従来通り変わりなかった。また、苻堅は慕容泓・慕容沖・慕容垂を説得するよう、慕容暐に命じた。だが、慕容暐は密かに慕容泓へ使者を派遣して「俺は籠中の人であり、必ずや帰ることは出来ないだろう。それに、我は燕室を滅ぼした罪人であり、顧みるのは足りぬ。汝は大業を建てる事に努めよ。呉王を相国に、中山王を太宰・領大司馬に、汝を大将軍・領司徒に任じ、承制封拝を委ねる。そして、我の訃報を聞いたならば、汝が尊位に昇るがよい」と告げた。これを聞いて慕容泓は、長安へ向かって進撃した。

最期[編集]

11月、長安城内には鮮卑族がいまだに千人余り留まっていたので、慕容暐は慕容恪の子である慕容粛と共に、鮮卑と結託して慕容沖に呼応しようと画策した。

12月、慕容暐は子の結婚を理由に苻堅を新居へ招き、伏兵を置いて暗殺しようした。その際、豪族の悉羅騰・屈突鉄侯らに密かに命じて、鮮卑へ「朝廷は今、侯(慕容暐)を外鎮させようとしている。旧人はみなこれに付き従うと聞いている。日を選んで場所を指定するので、集結するように」と告げさせると、鮮卑はこれを信じた。

慕容暐は東堂に入ると、稽首して謝罪して「弟の沖は義方を知らず、一人で国恩に背いており、この罪は万死に当たると臣は考えます。陛下は天地の容を垂れ、臣は更生の恵を蒙っております。ところで、臣の次男は先日に結婚し、明日で三日となります。愚かしいとは思いますが、願わくばしばらく鑾駕(天子が行幸の際に乗る車)を屈していただき、臣の私邸に幸して頂ければ幸いです」と述べると、苻堅はこれを承諾した。だが、この夜に大雨が降り始めると、夜明けまで続いたので、苻堅は結局出発する事が出来なかった。

鮮卑の1人である北部出身の竇賢は妹に別れを告げたが、その妹は前秦の左将軍竇衝の世話係であったので、竇衝にこの件を話して兄を留めるよう頼んだ。竇衝は鮮卑を外に出すという話を不審に思い、苻堅の下へと急ぎ走り、聞いた事を報告した。苻堅はこれに大いに驚き、すぐに悉羅騰を呼び出して問い質した。拷問の末に悉羅騰は、謀略の全容を告白した。これを受け、苻堅は慕容暐と慕容粛を呼び寄せた。これに慕容粛は「陰謀が漏れたのでしょう。宮殿へ行けば死あるのみです。城内は既に警備が厳重ですが、使者を殺して逃げるしかありません。門を出られれば、衆を集められるでしょう」と勧めたが、慕容暐は従わず、共に入朝した。苻堅は「我は汝らと誠実に待遇してきたのに、どうしてこのような事をなすのだ」と問い詰めると、慕容暐は飾った言葉で言い訳をしたが、慕容粛は「家国の事は重いのだ。どうしてその心を論じようか!」と言い放った。苻堅はまず慕容粛を殺し、次いで慕容暐とその宗族を殺害した。さらに、城内の鮮卑は幼長・男女の区別なく、皆殺しにた。慕容暐は享年35であった。

400年、叔父の慕容徳が皇帝を称して南燕を興すと、慕容暐を幽皇帝と追諡した。

人物[編集]

慕容暐の治世においては、ほとんどの期間において慕容恪・慕容評・皇太后可足渾氏らが朝政を主管していたので、彼自身が主体的に行動を起こすことはあまりなかった。そのため、その性格や人物像を表す記述もはほとんど記されていない。ただ、以下のような逸話が残っている。

  • ある時、慕容儁は群臣を鄴の蒲池に集めて酒宴を催した。この時、司徒左長史李績へ「景茂(慕容暐の字)は幼沖であり、その器芸に目立ったところはまだ見られていないが、卿はどう思うか」と問うた。李績は「皇太子は天資にして岐嶷で、その聖敬は日が躋(昇)るように、八徳は静かながらも聞こえておりますが、二つの欠がいまだ補われておりません。遊田(狩猟)を好み、絲竹(音楽)に心を奪われる傾向があります。これが残念でなりません。」と答えた。慕容儁は側に侍っていた慕容暐を顧みて「伯陽(李績の字)の言は、薬石の恵である。汝はこれを心に留めておくように」と訓じた。だが、慕容暐はこれに不満を抱いた。その後、慕容儁は臨終に際し、李績を重用するよう慕容恪へ遺しており、慕容暐が即位した後、慕容恪は遺言に従って李績を尚書僕射に任じるよう進言したが、慕容暐はかつての李績の発言に恨みを抱いており、これを認めなかった。慕容恪は幾度も進言を繰り返したが、慕容暐は慕容恪へ「万機の事は叔父に委ねているが、伯陽一人に関しては、この暐に裁かせてもらう」と取り合わず、その後章武郡太守に左遷した。やがて李績は憂悶の余り亡くなったという。

宗室[編集]

参考文献[編集]

出典[編集]

  1. ^ 晋書では趙弘と記載される
  2. ^ 晋書では「先帝は天に時に応じ、命を受けて代を革め、まさに文徳を以って遠きを思い、以って六合を一としようとされました。しかし、神功の未だ成らざるに、忽ちに升遐されてしまわれました。その昔、文王が没した時、武王が興を嗣がれたと言います。畏れ多くも陛下を惟んみますれば、天と徳を同じくし、聖を揆(図)し功(力)を斉しくしており、方に乾基を拡大し、先志を纂して達成すべきです。逆は関隴に拠点を構え、同じ王者を号しましたが、惡を積み禍で盈す事によって、互いに戮を疑うようになり、遂には釁を蕭牆で起こし、その勢は四国に分かれするに至りました。投誠して救援を求めてていますが、旬日の内に、そのそれぞれから至っています。凶運が潰えようとしており、有道に帰そうとしているのです。兼弱攻昧、取乱侮亡は、機の上です。今、秦土は四分されており、弱勢と言えましょう。時運が整ったのです。天が我らに加勢しているのです。天の与えたるを取らざるは、逆に天から殃を受ける事になりかねません。呉越の鑒は、我らの師とすべきです。ここは天人の會(機会)に応じて、牧野の旗を建てる時に他ならないのです。ここは、皇甫真に并冀の兵を率いて、蒲坂に急行するよう命じるのです。臣垂(慕容垂)には許洛の兵を率いさせて、の包囲を解かせに向かわせるのです。太傅(慕容評)には京都の武旅を率いさせて、この二軍に続かせて援護となすのです。三輔に檄を飛ばし、仁を先路に喧伝させるのです。城を落とした者は侯に封じ、微功であっても必ず賞する、と。さすれば、鬱概とした待時の雄、抱志ながらも未申の傑は、必ずや上に嶽峙し、隴下に雲集しましょう。天羅が張り巡らされ、内外が勢を合すれば、区々たる僭豎は逃げる事も叶わず、降服しましょう。大同の挙は、今がその時なのです。願くは陛下が聖慮を独断されますように。仁人に尋ねてはなりません。」 と記載される。