巌流島の戦い (プロレス)

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巌流島の戦い(がんりゅうじまのたたかい)は、新日本プロレスが二度に渡って企画したプロレスの試合。いずれも巌流島にて行われた。

1987年10月4日アントニオ猪木マサ斎藤[編集]

アントニオ猪木は当時ブラジルで興した事業会社「アントンハイセル」の経営破たん、新日本プロレスの人気の低下、倍賞美津子との離婚危機など、公私とも危機を迎えていた。そうした中、歴史に残る決闘「武蔵小次郎の戦い」が頭に浮かび、この戦いをプロレスでやることで、この危機を乗り越えたいと考えた。

対戦相手には維新軍のマサ斎藤が名乗りを上げた。折から斎藤も、この年の3月に行われた「INOKI闘魂LIVE PARTⅡ」での一騎討ち以降、幾度も猪木と当たる機会はあったものの、いずれも納得しかねる結果に終わったところから「(今度戦う時は)死ぬまでやろう」とまで対戦アピールをエスカレートさせていた。武蔵と小次郎の戦いに倣い巌流島を決戦の場所に定め、かつファンに媚びるつもりはないとのことから無観客試合で、時間は無制限、ノールールで行われることになった。

試合結果(1987)[編集]

猪木は決闘の2日前に離婚届を提出。身辺を整理しリングに上がった。試合には山本小鉄坂口征二が立ち会った。午後4時30分、山本小鉄が試合開始の合図を送ったが猪木はまるで武蔵のようになかなか姿を現さず、30分後、斎藤に向かって歩み寄ってきた。

試合は一進一退の攻防が続き、午後6時になった時、照明代わりに、コーナーポストにかがり火が立てられた。試合が2時間経過すると、両者ともフラフラとなったが、猪木は斎藤の背後から裸絞めを決め、2時間5分14秒、猪木のTKO勝利となった。絞め落とされた斎藤は担架で運ばれた。

1991年12月18日馳浩タイガー・ジェット・シン[編集]

1992年正月興行の東京ドーム大会において、アントニオ猪木対タイガー・ジェット・シンのカードが実現しつつあった。永遠のライバルとも称された両者の直接対決がおよそ10年ぶりに実現とあってオールドファンの間では話題になったが、当時両者は40歳を超え、既にメインイベントからは遠のいていた。同じ頃、馳浩はプロデビュー数年で人気、実力とも頭角を現し、若手レスラーの成長株であった。彼は猪木に、「一線を退いた者同士ではなく、現役バリバリの俺(馳)と戦ってほしい」とアピール。 そこで新日本プロレスは、「猪木との対戦権を賭け、巌流島で決着をつけよ」とし、再び無観客試合、時間無制限、ノールールの決戦が実現した。

試合結果(1991)[編集]

馳が先にリングインするも、シンは自陣営の仮設テントから中々姿を見せない。時折テントから出ては遠巻きに馳を挑発したり、「まだ試合は始まらない」とでも言いたげにスクワットをしたり、リングに背を向けて海に向かって祈りを捧げたりとシンは遅延行為で馳を焦らす作戦に出る。この間馳はトップロープを全て外し、「今日はいつものプロレスと違う」ことをアピール。やがてシンはテントに火を放ち、燃え盛る炎の中から現れてようやくリングインする。

序盤はリング内での攻防が主であったが、中盤から荒れた展開となる。先にシンがリング外で凶器攻撃を仕掛け、馳は大流血に見舞われ一時は半失神まで追い込まれる。シンはこれをKO勝ちと判断し早々と自陣営に引き上げようとしたが、馳は息を吹き返し、シンの背後から凶器で襲い形成を逆転する。その後も血みどろの死闘は続いたが、終盤に両者とも再度リングイン。1時間11分24秒、馳が裏投げからのKOで勝利した。尚、この試合の立会人は既述のマサ斎藤が務めた。

レジェンド・ザ・プロレスリング[編集]

初代タイガーマスクが、2012年5月5日、レジェンド・ザ・プロレスリングの大会を開催した[1]

脚注[編集]

関連項目[編集]