岐阜カンツリー倶楽部

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岐阜カンツリー倶楽部
Gifu Country Club
岐阜カンツリー倶楽部
岐阜カンツリー倶楽部の空中写真。
2008年4月20日撮影の8枚を合成作成。
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。 地図
所在地 日本の旗 日本
岐阜県各務原市蘇原北山町2-8
座標: 北緯35度25分55.5秒 東経136度52分6.2秒 / 北緯35.432083度 東経136.868389度 / 35.432083; 136.868389
概要
開業 1960年昭和35年)4月17日
運営 メンバーシップコース
設計 上田 治、佐藤 忠志(改修設計)
運営者 株式会社 岐阜カンツリー倶楽部
コース

OUT IN
HOLE PAR YARD HOLE PAR YARD
1 4 380 1 5 524
2 4 409 2 4 402
3 5 501 3 3 187
4 3 160 4 4 461
5 4 372 5 3 214
6 3 193 6 4 459
7 4 374 7 5 499
8 5 554 8 4 372
9 4 358 9 4 390
36 3301 36 3508

その他
公式サイト 岐阜カンツリー倶楽部
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岐阜カンツリー倶楽部(ぎふカンツリーくらぶ)は、 岐阜県各務原市蘇原にあるゴルフ場である。

概要[編集]

1955年昭和30年)、岐阜県にはゴルフ場が一つもなかった、ゴルファーは「名古屋ゴルフ倶楽部・和合コース」(1929年(昭和4年)開場、設計・大谷光明)、「愛知カンツリー倶楽部・東山コース」(1954年(昭和29年)開場、設計・井上誠一)、「森林公園ゴルフ場」(現・ウッドフレンズ森林公園ゴルフ場)、1955年(昭和30年)開場、設計・上田治)まで出かけて行ってプレーした[1]

「しかし岐阜にも」と県内ゴルファーの切実な願いであり永年の夢だった[1]1958年(昭和33年)、コースの建設候補地探しが始まった、金華山麓など岐阜市近郊で2、3の候補地を検討した[2]。辿り着いた用地が各務原市蘇原権現山の山麓で、旧陸軍歩兵68連隊飛島実弾射撃場跡地の一画だった[1]戦前各務原は、陸軍の小軍事都市で、飛行場(現・岐阜基地)や飛行学校(現・岐阜陸軍飛行学校)などの軍施設が集まっていた[1]

1958年(昭和33年)3月1日、政財界をあげての力強いバックアップを得ながら、建設用地の買収が開始された[1]。しかし、買収交渉は伊吹[要曖昧さ回避]地区の反対があったが、岐阜県・和田土木部長、大日本土木株式会社・安田社長、岐阜いすゞ自動車株式会社・中嶋社長などの支援と、地元の清水町長や農業会・横山委員長などの協力を得て解決することができた[2]。同年6月、会員募集を開始したところ、300名の募集に911名の3倍以上の申込があった[1]。募集キャチコピーは「昼はゴルフ、夜は鵜飼い」だった[1]

1958年(昭和33年)7月21日、新たなゴルフ場の建設に向けて経営母体「岐阜カンツリー倶楽部」を設立、代表取締役・桑原善吉、理事長・小寺勝昌、副理事長・田口利八が就任した[2]。コース設計は、関西の第一人者上田治に依頼した[1]1958年(昭和33年)11月12日、コースの造成工事起工式が行われた[1]

コースの造成工事は順調に進んだが、1959年(昭和34年)9月26日、中部地方を伊勢湾台風が襲った、コースの法面は崩壊、大木は倒れ、コースとグリーンのは泥水に流され、バンカーは土砂に埋まって、手の施しようがなかった[1]。だが、幸いだったのが、ゴルフ場周辺の畑への土砂の流出が回避されたことである、上田治のコースレイアウトの結果である[1]。コースの1番、9番、17番、18番ホールなど、権現山からの流出方向に対してコースを横断方向にレイアウトしていたからである[1]1960年(昭和35年)4月17日、コースが完成し、開場された[1]

所在地[編集]

〒504-0801 岐阜県各務原市蘇原北山町2-8

コース情報[編集]

  • 開場日 - 1960年4月17日
  • 設計者 - 上田 治、佐藤 忠志(改修設計)
  • 面積 - 820,000m2(約24.8万坪)
  • コースタイプ - 丘陵コース
  • コース - 18ホールズ、パー72、6,809ヤード、コースレート73.6
  • フェアウェー - コウライ
  • ラフ - ノシバ
  • グリーン - 1グリーン、ニューベント
  • ハザード ^ バンカー97、池が絡むホール5
  • ラウンドスタイル - 全組キャディ付、全組電磁誘導カート、希望すればツーサム、ワンバック可
  • 練習場 - 13打席150ヤード
  • 休場日 - 毎週月曜日、12月31日、1月1日[3][4]

クラブ情報[編集]

ギャラリー[編集]

  • コース - [5]
  • ハウス - [6]

交通アクセス[編集]

鉄道

道路

エピソード[編集]

  • 1967年昭和42年)4月20日、旧皇族朝香宮がゴルフ場に訪れ、プレー後「7番グリーン前のバンカーは隠しバンカーというやつだ、直ぐに改善したまえ」といって帰った。だが、その隠しバンカーは今でも健在である[8]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『美しい日本のゴルフコース BEAUTIFUL GOLF CULTURE IN JAPAN 日本のゴルフ110年記念 ゴルフは日本の新しい伝統文化である』、ゴルフダイジェスト社「美しい日本のゴルフコース」編纂委員会編、「「純血岐阜」をめざして昭和33年、個人正会員20万円で募集。予定人数の3倍以上が殺到した」、東京 ゴルフダイジェスト社、2013年12月、2021年4月3日閲覧
  2. ^ a b c 用地の選定”. 岐阜カンツリー倶楽部の歴史. 2021年4月1日閲覧。
  3. ^ a b ゴルフダイジェスト”. 岐阜カンツリー倶楽部. 2021年4月3日閲覧。
  4. ^ a b 岐阜カンツリー倶楽部”. ゴルフホットライン. 2021年4月3日閲覧。
  5. ^ コース紹介”. 岐阜カンツリー倶楽部. 2021年4月3日閲覧。
  6. ^ 施設案内”. 岐阜カンツリー倶楽部. 2021年4月3日閲覧。
  7. ^ a b アクセス”. 岐阜カンツリー倶楽部. 2021年4月3日閲覧。
  8. ^ 『美しい日本のゴルフコース BEAUTIFUL GOLF CULTURE IN JAPAN 日本のゴルフ110年記念 ゴルフは日本の新しい伝統文化である』、ゴルフダイジェスト社「美しい日本のゴルフコース」編纂委員会編、「「純血岐阜」をめざして昭和33年、個人正会員20万円で募集。予定人数の3倍以上が殺到した」、東京 ゴルフダイジェスト社、2013年12月、2021年4月3日閲覧

関連文献[編集]

  • 『月刊ゴルフマネジメント』、「ゴルフ倶楽部を考える 217回 岐阜カンツリー倶楽部の創設」、著者井上勝純、東京 一季出版、2004年5月、2021年4月3日閲覧
  • 『ゴルフ場ガイド 西版』、2006-2007、「岐阜カンツリー倶楽部」、東京 ゴルフダイジェスト社、2006年5月、2021年4月3日閲覧
  • 『美しい日本のゴルフコース BEAUTIFUL GOLF CULTURE IN JAPAN 日本のゴルフ110年記念 ゴルフは日本の新しい伝統文化である』、ゴルフダイジェスト社「美しい日本のゴルフコース」編纂委員会編、「「純血岐阜」をめざして昭和33年、個人正会員20万円で募集。予定人数の3倍以上が殺到した」、東京 ゴルフダイジェスト社、2013年12月、2021年4月3日閲覧

関連項目[編集]

外部リンク[編集]