小里城

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小里城
岐阜県
小里城主郭部付近
小里城主郭部付近
城郭構造 山城
築城主 小里光忠
築城年 1534年
主な改修者 織田信長池田恒興小里光明
主な城主 小里氏池田氏森氏
廃城年 不明
遺構 天主台、石垣、井戸、陣屋跡、大手門跡
指定文化財 岐阜県重要文化財の城跡
位置 北緯35度20分26.9秒
東経137度16分26.8秒

小里城(おりじょう)は、岐阜県瑞浪市にかつて存在した日本の城山城)。

沿革[編集]

小里光忠天文3年(1534年)に小里川南岸の城山に築いた。それ以前は付近の小里氏の菩提寺である興徳寺の西に小里新城があり、土岐氏小里氏の居城だったとされる。小里氏は土岐元頼ないしその子の頼連から始まったとされ、元頼の戦死後は諸国を放浪したが、越前国朝倉氏の後援を得て土岐恵那両郡の旧領・約3,600石余を取戻した。ただし、築城者の光忠が土岐氏の系譜を引くかは不明とされる。

光忠は織田信長に従ったが元亀元年(1570年)の武田氏重臣の秋山虎繁が東美濃に侵入した際の上村合戦に敗れ死去した。光忠の子・光明は、天正2年(1574年)に小里城に在城しており、織田信長は岩村城を攻める拠点として鶴ヶ城 (美濃国)河尻秀隆、小里城に池田恒興を御番手として入れ、改修を行なった[1]。なお翌年岩村城が落城するとこの工事は中止された。

天正11年(1583年)、小里光明は織田信孝に仕えたが、賤ヶ岳の戦いにより豊臣秀吉に敗れて信孝が自害した後は、森長可に攻められて小里城を離れ、和田姓を名乗って徳川家康に仕えた。

その後、関ヶ原の戦いの功によって光明の子・光親は慶長5年(1600年)に土岐、恵那郡の旧領を再び与えられ、小里城に帰還し陣屋を構えた。しかし光親の子・光重は嗣子がないまま元和9年(1623年)に亡くなったため、小里氏は断絶した。

遺構[編集]

現在は県指定の史跡[2]で、城跡は、山頂部の「本丸曲輪跡」と北西山麓の「御殿場跡」と呼ばれる居館跡、及びその東側の尾根上の「東砦跡」からなる。本丸曲輪跡の指定面積は三、九九〇平方メートル、御殿場跡及び東砦の一部の指定面積は二三、〇一三平方メートルである。

本丸曲輪跡には、不等辺六角形で半地下構造の「天守台」があって三段に石垣が組まれ、築城用の割石が散在している。他に「升形」と呼称される石組み遺構・石垣を使用した「曲輪」跡が存在する。

御殿場跡は、少なくとも十六世紀後葉には造成され、十七世紀初頭には、大型の礎石建物(旗本小里氏の陣屋にあたる)が建てられ、十七世紀前葉に廃絶したことが判明している。大手門跡、御殿跡、井戸跡、石垣などがある。また、一の木戸、石垣、井戸などの残る一帯が小里氏の陣屋だったとされる。

評価[編集]

小里城の遺構は、史料にみえる小里氏や小里城の経緯とおおよそ照応でき、また、近世初頭の城館(陣屋)遺構が良好に残存していることなど、小里氏の実像解明や江戸時代初頭の旗本陣屋を考究する上でも、重要な遺跡であると高く評価できる。

現地情報[編集]

アクセス

脚注[編集]

  1. ^ 『信長公記7巻』
  2. ^ 小里城跡”. 岐阜県. 2019年11月18日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]