妻木城

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妻木城
岐阜県
本丸の石垣
本丸の石垣
城郭構造 山城
築城主 土岐頼重
築城年 暦応2年(1339年
主な城主 土岐氏、妻木氏
廃城年 万治元年(1658年
遺構 石垣土塁堀切曲輪井戸跡、碑
指定文化財 県指定史跡
位置 北緯35度17分32秒
東経137度11分41.5秒

妻木城(つまぎじょう)は、現在の岐阜県土岐市に存在した日本の城山城)である。

概要[編集]

土岐市南部の標高409mの山頂に築かれた山城。妻木城は明智氏の所領であったが、後には明智氏一族である妻木氏居城となって、次第に整備されていった。また妻木城主は代々と陶器の生産を奨励し、織部焼志野焼などに代表される現在の美濃焼の基礎を作った領主として知られている。

歴史・沿革[編集]

南北朝時代[編集]

暦応2年/延元4年(1339年土岐頼貞の孫である土岐頼重が家来を育てるために築城したかもしれない。土岐氏が衰退してからは明智氏の所領になり、明智氏一族である妻木氏居城となった。

戦国時代[編集]

天正10年(1582年本能寺の変の後に起きた山崎の戦いの際には当時の城主である妻木広忠(第12代目の城主)は明智軍に属したが、敗北したため自刃した。明智光秀正室である妻木煕子は妻木広忠の娘である。その後妻木頼忠が跡を継いだ。その頃森長可土岐郡恵那郡内の反抗する勢力の掃討をし、長可は手始めに高山城平井頼母に使者を送り、城を明け渡すように要求したが、これに応じなかったため自刃に追いこみ、その後肥田氏を入城させた。次に妻木城主・妻木頼忠にも、従うよう使者を送ったが、頼忠は拒否したので攻めさせた。頼忠は城の兵を集めて奮戦したが、勝てる見込みがなかったので和議にもちこみ、長可に従うようになった。遠山氏らと共に金山城を排除を画策した事が原因であるといわれている。

天正12年(1584年小牧・長久手の戦いの際に頼忠は森長可の家臣だったため豊臣秀吉側についた。愛知県春日井市岐阜県多治見市の境にある内津峠に布陣した。その際に麓にあった町は焼失したという。

慶長5年(1600年関ヶ原の戦いの際には徳川家康側につき、頼忠はこの地域を守るよう命じられ、父である妻木貞徳と共に岩村城主の田丸直昌と戦った。田丸直昌の家臣である田丸主水は妻木城から近い所にを築き、諸将の行動を封じ鎮圧しようと試みたが、頼忠は岩崎城主である丹羽氏次らを誘って田丸領の各所に放火して対抗し、高山城の城攻めを図ったが、田丸軍は高山城に火を放ち土岐砦へ退却して立て籠もった。頼忠は田丸軍の退路を完全に遮断するため現在の瑞浪市寺河戸町付近に砦を築いた。このほか、田丸領内である明知城小里城は岩村城の支城となっていたので城番が居城していたが、城主である遠山利景小里光親は頼忠らの支援を受けて、まず明知城と小里城の攻撃を始めてその日に明知城を、翌日に小里城を奪回することに成功し、遠山利景、小里光親は城に戻ることができた。その後、岩村城を攻めようとしたが、攻略難落の城なので苦戦していたが、しばらくすると関ヶ原の戦いが終わり、東軍の勝利によって城主田丸直昌も東軍に降り、岩村城を守備していた田丸主水も遠山利景に城を明け渡した。

その戦功により慶長6年(1601年)に頼忠は徳川家康から改めてこの地域を所領として与えられた。その頃にはこの城はほとんど使用されず、妻木氏は山麓にある居館にいた。

江戸時代[編集]

敵からの攻撃を防ぐため城を攻めにくい山の上に設けていましたが全国が統一されると、妻木頼忠は山の上での生活が不便だったので、山麓の北に屋敷を築きそこに住み始めた。元和年間(1615年-1624年)頃にはこの城の機能は終えて、山麓にある妻木城士屋敷が主に機能するようになった。その後頼忠の子の妻木頼利、次いで頼利の子の妻木頼次が跡を継いだ。土岐郡内7500石の領主だったが、跡継ぎがいなかったので万治元年(1658年)に頼次が死去すると、妻木氏は3代で廃絶した。その後、頼次の弟の妻木幸広が妻木上郷500石にて妻木家を再興し、明治維新に至る。

現代[編集]

現在は本丸二の丸跡地に小さな神社が置かれている。妻木城の登城口には駐車するスペースがあり、石垣曲輪土塁等の遺構も整備されている。建造物は残っていない。山麓の北側に妻木城士屋敷があるが、そこの石垣等の遺構も整備されており、駐車するスペースも完備されている。2つとも岐阜県史跡に指定されている[1]。妻木城への登城口は、妻木城士屋敷跡の右脇から南へ伸びる道を進み、その終点から城山へ登っていくルートと名岐国際ゴルフ場の妻木口を入ってすぐ、右へと伸びる林道を進み、その奥にある広場から登るルートの2つある。

立地 構造[編集]

妻木城は妻木川左岸の丘陵先端(標高407m 妻木上郷集落から比高200m)に位置する山城で、山頂に位置する城中枢(主郭・二の郭)と大手筋の小郭群、南西側尾根・南側尾根に普請された郭群からなる。大手は北麓の妻木氏館から繋がる現在の山道と想定され、緩斜面の尾根には小郭が配置され、さらに虎口状の地形で大手筋を守備し主郭北側下の三の郭(物見)に繋がっている。ピークには石垣で補強された段差で区画された主郭・二の郭が配置され、南西・南側に派生した尾根は郭群で処理され、尾根に挟まれた谷地(搦手)を守備している。この谷地上部には土塁で区画された空間があり、搦手に対する馬出機能があったと考えられる。主郭と南西・南側尾根を遮断した堀切は横堀状に主郭をカバーするなど、戦国末期の高度な技術を利用していることから、数度にわたり改修されたと考えられる。

ギャラリー[編集]

妻木城士屋敷(つまきじょうさむらいやしき)[編集]

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妻木城士屋敷
岐阜県
妻木城士屋敷碑.JPG
別名 妻木陣屋
城郭構造 屋敷
築城主 妻木頼忠
築城年 慶長6年(1601年
主な城主 妻木氏
廃城年 万治元年(1658年
遺構 石垣土塁、移築門、碑
指定文化財 県指定史跡

概要[編集]

妻木城の山麓の北にあった領主御殿・家臣屋敷の総称で、岐阜県史跡に指定されている。妻木氏が滅亡するまでここが本拠となった。近くにある崇禅寺に移築された門があり、妻木城の歴代城主の墓がある。

歴史[編集]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際に戦功を挙げた妻木頼忠は、慶長6年(1601年)に徳川家康から改めてこの地域を与えられた。その際に妻木城の麓にこの屋敷を建てた。その後、妻木城からこの屋敷に拠点を移し、主にここが機能するようになった。万治元年(1658年)に妻木頼次が死去すると跡を継ぐものがいなかったので廃城となった。

立地 構造[編集]

妻木城士屋敷は妻木城の北麓に位置する「根小屋」区域で、城主居館・家臣屋敷地からなる。現在確認できる遺構は南から北方向の緩斜面に3段に普請された石垣と上段の城主居館に残存する井戸祉・庭園祉・門址である。石垣は高さ1.5-2mほどで中央部には虎口と思われる大石段が残存する。南側の山裾には石塁で補強した溝が山腹と城主居館の境に巡らされており、雨水の流入を防ぐためのものと見られている。一部区域であるが家臣屋敷地の区画が残る。

城主一覧[編集]

  1. 妻木頼忠
  2. 妻木頼利
  3. 妻木頼次

家臣屋敷[編集]

  1. 沢井 土本 好安 仙石 水野 本田 小栗 安藤 那須 中垣 塚本 酒井 山神 豊部 土屋 有川 小池 高野 中條 芦尾 松本 奥村 加藤 他 (妻木領主御殿跡並家中屋敷見取略図 参照)

アクセス[編集]

交通機関[編集]

東鉄バス

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所在地[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 妻木城跡”. 岐阜県. 2012年8月4日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]