妻木頼次

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妻木 頼次(つまき よりつぐ、1620年元和6年) - 1658年万治元年6月18日))は、江戸時代前期の旗本美濃国土岐郡妻木城主(第十五代目)。妻木頼利の子。通称、藤右衛門。戒名・清凉院殿大林宗智居士。江戸屋敷は現・東京慈恵会医科大学の敷地内。

生涯[編集]

承応2年12月22日(1654年2月7日)に家督相続。父頼利の存命中におこった兄弟不和(妻木騒動)により、次男兵九郎幸広(後の上郷妻木氏)に大富村500石を分け与え、頼次は7000石を知行する。

万治元年6月18日妻木にて病死し、崇禅寺に葬られる。一説に参勤交代の途中箱根の関で急死したといわれるが、根拠となる史料は存在せず。跡継ぎとなる男子は無く妻木本家は頼次の代で断絶する。その後、妻木村上郷500石へ弟幸広が大富から移り支配(代官・日東氏)、妻木村下郷800石は一族の妻木彦右衛門頼熊(下郷妻木氏)に加増され、それぞれ明治維新まで続く。

脚注[編集]