上村合戦

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上村合戦(かみむらがっせん)とは、元亀元年(1570年)12月、甲斐信濃を地盤とする武田氏の軍勢が、徳川氏の本拠地である三河に向かう際に、東美濃の豪族岩村遠山氏の本拠地岩村城にほど近い恵那郡上村(現在の岐阜県恵那市上矢作町)へ侵入したため遠山氏徳川氏の連合軍と衝突した合戦。

背景[編集]

永禄11年(1568年)、徳川家からの人質として松平源三郎(松平康俊)が武田家に送られたが、元亀元年(1570年)、松平源三郎が甲州を脱出した。松平源三郎は秋山虎繁(晴近)の預かりであったため、元亀元年(1570年)12月、秋山虎繁は武田軍3000余騎を率いて東美濃の遠山氏の領地の一部を通って徳川氏の領地の奥三河へ向かおうとした[1]。しかし当時奥三河の土豪の山家三方衆は徳川氏の家臣でありながら、武田氏に対しても優勢とみて内通していた。また以前、岩村遠山氏は武田氏に臣従していたが、この頃は織田信長の年下の叔母のおつやの方が岩村城主遠山景任の夫人となっており織田方となっていた。

推移と結果[編集]

遠山氏は明知城遠山景行を総大将に飯羽間城遠山友勝千旦林城吉村源蔵串原城の遠山右馬助・五郎経景、小里城小里光次、高山城の平井宮内少輔光行、阿木城の遠山某、そして徳川氏は山家三方衆・三河衆を派遣して合せて5000人で備えた。遠山景行はそれぞれの進路にある飯田洞の明照砦、上村の前田砦、漆原の漆原城に兵を入れ自身は岩井戸砦で指揮を執ることにした。武田(秋山)軍は部隊を3つに分け本隊は根羽村から大桑峠を越えて小笹原を通って前田砦を、残りの二隊は平谷村から明照砦を、小田子から漆原城を、それぞれ目指した。12月28日隘峡の地で、串原遠山氏1000人が武田(秋山)軍の望月勢を攻撃して戦闘が開始した。初戦で望月勢が引き下がる様子を見せたので、串原勢は機に乗じて攻め立てたが、望月勢は足場の良い場所で踏みとどまり左右両翼に兵を広げて、原・芝山勢の兵は串原勢の両翼を攻撃し、更に望月勢が正面から攻め立てたから、串原勢は敗北した。遠山氏の二番手が串原勢に代わって戦おうとしたが、敵勢の攻撃が激しくて悉く崩れたのを見て、総大将の遠山景行は、備えを進めて戦おうとしたが、先駆の秋山勢の500人が景行の背後に出て奇襲を行い、前後から挟撃した。景行は奮戦したものの遠山氏は一族・郎党が悉く敗れ去ったので、5~6名の兵とともに血路を開いて落ち、漆原の山中にて自刃した。その場所は遠山塚として現存している。また徳川方から派遣されたものの、武田方とも内通していた奥平定能ら山家三方衆・三河衆2500は、遠山氏が惨敗する様子を見て、殆ど戦わずして退却した[1]

小田子合戦[編集]

遠山氏は、岐阜城織田信長に対し、武田(秋山)勢が美濃に迫ってくることを事前に伝えていたので、信長は明智光秀と配下の軍勢を送り、12月29日に美濃と三河の国境の村である小田子(恵那市上矢作町小田子)にて秋山勢と戦ったという。光秀は秋山が軍立を知った者であるから、その裏を謀って4~5箇所に伏兵を仕掛けて、火攻めで追い立てたという(『美濃国諸旧記』)。3日間に渡る激戦の末、秋山勢は敗れて信濃に撤退した。

両軍の陣容[編集]

武田軍
  • 武田勢 兵数 2500
    • 秋山虎繁
    • 望月與三郎信繁
    • 原藤吾昌定
    • 芝山主水且春
    • 松本右京亮長継
遠山・徳川軍

寛永諸家系図伝』によれば、この合戦に参加した遠山荘の遠山氏勢には、遠山景行、小里光次、飯羽間の遠山友信が記されている。

その他[編集]

『明智年譜』『小里家家譜』は、元亀3年説をとるが、『武田三代記』『美濃国諸旧記』は元亀元年説をとる。なお、『甲陽軍鑑』にはこの戦いは記されていない。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k 『明智年譜』
  2. ^ 『苗木伝記』