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小山田二郎

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小山田 二郎(おやまだ じろう、1914年大正3年)1月1日 - 1991年平成3年)7月26日)は、日本洋画家[1]。世相を皮肉的風刺するシュール油彩画水彩画を多く描き、特に油彩ではペインティングナイフキャンバスを傷つけるほど大胆な手法で描くことで知られる。曽祖父に黒羽藩士の小山田廣徳(辨助)、遠縁に日本画家小堀鞆音がいる。

経歴

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1914年(大正3年)、小山田廣志と妻まつの子として父の出張先である中華民国満洲地域にある奉天省 安東県(現在の中華人民共和国遼寧省丹東市東港市)で生まれる。翌年に両親から離れて祖父母の住む日本に引き取られ東京で暮らし始めるが[2]、2歳の時スタージ・ウェーバー症候群を発症。手術を受けるが完治する事は無く次第に下唇が腫れあがり顔中にが浮かぶようになった。1927年昭和2年)、13歳で母と共に旧黒羽藩の城下町、栃木県大田原町(現・大田原市)にある母の実家へ転居したが、時と共に変形する顔にコンプレックスを抱き内に篭るようになった。

その後再び上京し、祖父の姉妹(辨助の娘)だった鈴子[3][4]が嫁いでいた東京美術学校(現:東京芸術大学)日本画科教授の小堀鞆音のもとで絵を学び、画家への道を志すが父の猛烈な反対を受ける。1934年(昭和9年)、20歳の時に帝国美術専門学校(現・武蔵野美術大学)に入学するも父の堅実な道をという理由で図案科での入学であった。諦めのつかなかった二郎は翌年に父親に黙って西洋画科へ転入し、すぐに父の知るところとなり仕送りを停止された結果中退を余儀なくされた。在学中には矢崎博信らと「L'anima(アニマ)」を結成している。太平洋戦争が勃発すると画材を集めることもままならず、絵描きとしても戦争を賛美することばかりが求められる風潮に絶望して一時筆を置くが、大日本印刷が画家を集めている事を知り1944年(昭和19年)に入社した。

終戦後は日本の変わりように矛盾を感じその思いをぶつけるかのような作品を描いている。1947年(昭和22年)、自由美術家協会(戦前からある前衛美術の有力団体[5])に入会。1952年(昭和27年)、38歳の時に瀧口修造の推薦を受けてタケミヤ画廊(神田駿河台下の洋画材店「竹見屋」の画廊で6年間の営業中に201の展覧会を行ない日本の現代美術に多大な貢献をした[6])で初めての個展を開催し、その後も毎年個展を行うようになった。1952年、共に画家活動をしていたチカエと結婚して高円寺に暮らし、一女にも恵まれ、魔理亞(まりあ)と名付けた。妻の小山田チカエ(1922-2012、本名・島貫キク、北海道出身)は、上京後広告会社に勤めながら絵を描き、自由美術家協会に属し、1950年代には左翼系画家を集めた「ニッポン展」(前衛美術会主催)にも参加、晩年は「美術・九条の会」にも参加していた[7][8][9][10][11]

1959年(昭和34年)、協会の方針に疑問を感じて退会した。団体展参加に疑問を持ち、以降は画廊での個展を中心に作品を発表。

1971年(昭和46年)、57歳の時に「ラーメンを食べに行く」と言って府中市の自宅を出たまま突如失踪し、家族を置いて20代の愛人・小堀令子(小山田にとっての又従妹、鈴子と鞆音の間の孫、武蔵野美術大学卒)に奔った。令子とは娘・亜巣架をもうけ、生涯生活を共にした。失踪以後の活動は特定の画廊でのみ行い、世間との関わりが希薄化するにつれて世間から注目されることも少なくなった。1991年(平成3年)、進行性胃癌で死去。享年77。小山田の没後、令子も画家として活動を始め、東京都新宿区の「アトリエ絵夢」などで絵画教室講師も務める[12]

2014年平成26年)11月8日から2015年(平成27年)2月22日まで府中市美術館にて「生誕100年 小山田二郎」展開催[13]2025年令和7年)10月20日から同月29日までは「アトリエ絵夢」と同所にある「ギャラリー絵夢」で「小山田二郎×小堀令子 2人展」が開催された。初の二人展となった同展[14]では、小山田が死去の直前に描いた「舞踏」や小堀令子作「Black Hole」などが公開された[15]

主な作品

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  • 宿命(1935年)戦災により消失
  • 野蛮人(1954年)
  • 食卓(1954年)
  • 顔B(1955年)
  • ピエタ(1955年)
  • こわす者(1955年)愛知県美術館
  • 鳥女(1956年)
  • アダムとイヴ(1956年)
  • 愛(1956年)愛知県美術館蔵
  • 鳥女(1962年)
  • 漂着物(1972年)
  • ロマンス(1978年)愛知県美術館蔵
  • 夏の虫(A)(1978年)愛知県美術館蔵
  • 舞踏(1991年)

脚注

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  1. ^ 小山田二郎』 - コトバンク
  2. ^ 『小山田 二郎』- コトバンク
  3. ^ 『小堀鞆音~歴史画は故実に拠るべし~』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2014年、57頁。ISBN 978-4-623-06392-5 
  4. ^ 鈴子は1865年(慶応元年)生まれで、1890年(明治23年)2月に鞆音と結婚。1931年(昭和6年)の鞆音病没まで結婚生活を続け、自身は1945年(昭和20年)1月に死去。
  5. ^ 自由美術家協会アートスケープ、大日本印刷
  6. ^ タケミヤ画廊 タケミヤがろうブリタニカ国際大百科事典
  7. ^ 追悼 さようなら、ダリヤさん 小山田チカエさんを悼むドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.132 発行:2012.6.7
  8. ^ 針生一郎オーラル・ヒストリー 日本美術オーラルヒストリー・アーカイブ、2009年2月28日
  9. ^ 前衛美術会アートスケープ、大日本印刷
  10. ^ 美術・九条の会 参加者氏名 - ウェイバックマシン(2006年8月31日アーカイブ分)美術・九条の会
  11. ^ 『瀧口修造・夢の漂流物』世田谷美術館, 2005, p347
  12. ^ 小堀令子展ギャラリー絵夢、2014年4月24日 - ウェイバックマシン(2014年11月2日アーカイブ分)
  13. ^ 府中市美術館 - 「生誕100年 小山田二郎」展
  14. ^ 小山田二郎 + 小堀令子 展”. Tokyo Art Beat. アートビート. 2025年11月29日閲覧。
  15. ^ 小山田二郎×小堀令子 2人展”. ギャラリー絵夢. 2025年11月29日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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