小園安名

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小園安名
少佐時代の小園安名。
昭和12年10月頃、上海・公大基地にて
渾名 斜銃
生誕 1902年11月1日
鹿児島県川辺郡
死没 1960年11月5日
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴 1923 - 1945
最終階級 海軍大佐
指揮 第251海軍航空隊
第302海軍航空隊
戦闘 太平洋戦争
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小園 安名(こぞの やすな、1902年(明治35年)11月1日 - 1960年(昭和35年)11月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐鹿児島県川辺郡出身。海軍兵学校第51期卒業。

人物

夜間戦闘機月光」に装備された「斜銃」(機軸に対して上方または下方に30度前後の仰角を付けて装備された航空機銃)の発案者として知られ、終戦時は抗命し、厚木基地で徹底抗戦を訴えたが、一方で特攻作戦には終始反対するなど、様々な側面を持つユニークな軍人として知られる。

来歴

中国大陸戦線における活躍

旧制川辺中学校を経て、海軍兵学校卒業後、戦闘機搭乗員として勇名を馳せ、空母龍驤の飛行隊長・第十二航空隊(以下、十二空)の飛行隊長を歴任した。特に1938年(昭和13年)4月29日漢口中華民国軍と行われた空戦においては、十二空戦闘機隊(九六式艦上戦闘機30機)を率いて90機近い敵戦闘機と交戦。ほぼ無傷(被撃墜2機)で敵戦闘機の半分以上を撃墜するという大戦果を挙げている。

この攻撃について、小園少佐は九六艦戦に乗ったばかりであり、司令の三木守彦大佐より『君は、九六戦に乗ったばかりではないのか?』との言葉に対して、小園は『しかし、大丈夫です。こんな大作戦に隊長が出て行かんのは、おかしい、是非!自分にやらせてください。』と言う。三木の『いや、いかん。君は残って指揮をとれ。』にも、『いやです!』と言い張り、結局、中隊9機を率いて出撃を行い、部下の相生高秀大尉は空戦経験のない隊長に対し、『やめてくださいよ。』と苦笑したと言われる。実は小園は九六艦戦に初めて試乗した際に、燃料コックの切り替えを間違えて不時着しそうになった前科があり、尚更だったという。そこで三木司令は相生大尉に声をひそめて『相生君、列機にはベテラン搭乗員をつけてやってくれ。』と言ったと言われる。そして、敵発見時に小園は、操縦席の中に頭を突っ込んで計器の具合を確かめながら、増槽の燃料切り替えに戸惑ったようで、それに集中するあまり、機体がグルグルと回りだしたという。結局、小園は無事に帰還したが、機体には被弾6、そのうち2発は操縦室を貫通し、体のすれすれを通り風防を貫いていたという。

横須賀航空隊・分隊長時代には 《空母全廃論》をとなえ、若い搭乗員を集めると『おい!中攻どころか、今に、アメリカ本土を直接爆撃出来るぞ!そうなれば、あんな高い費用がかかる空母なんていらなくなるよ。』と、説いてまわったという。小園は、戦闘機搭乗員であるが、山本五十六、大西瀧治郎、源田実と同じく《戦闘機無用論》者であった。

台南空副長時代

1941年(昭和16年)10月、台湾台南基地に新設された台南航空隊(以下、台南空と略)副長(飛行長兼任)に任命される。台南では間近に迫った太平洋戦争開戦に備え、坂井三郎ら先任搭乗員を新兵・新任士官の教官役にあて、厳しい訓練を課すよう命令した。この訓練は階級の垣根を越え、下士官士官を厳しく鍛えるケースも多々存在した(士官・下士官兵を厳密に区別する日本海軍としては異例)。この訓練の結果、台南空は優秀な戦闘機搭乗員を多数育成する事に成功した。そして、台南基地にて1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦を迎える。

開戦後、戦線の南下に伴って隊と共にフィリピンインドネシアを経てラバウルへ進出し、東部ニューギニア及びソロモン諸島に展開する米豪軍と激戦を繰り広げることになる。

台南空が展開する前から、ラバウルは米軍のB-17を始めとする米軍爆撃機による空襲が毎日のように繰り返されていた。しかし、台南空展開後も戦闘機搭乗員のほとんどはニューギニアのラエ基地に進出したため、ラバウルには戦闘機はあっても操縦する戦闘機搭乗員が足らず、残された少数の搭乗員では米軍の爆撃機を迎撃することは極めて困難だった。通常であれば上層部に戦闘機搭乗員の補充を督促するのがせいぜいであるが、小園副長は自隊の偵察機操縦員に戦闘機の操縦訓練を戦地で受けさせて即席戦闘機搭乗員に養成する一方、空対空爆弾として知られる三号爆弾(当時の最新兵器)を搭載した偵察機による空中「爆撃」でB-17を撃墜する等、常識に囚われない柔軟な発想と大胆な行動力を発揮している。

この頃に起きた小園副長の人柄を偲ばせるエピソードが坂井三郎の著作に記されている。当時最前線であったラバウルには補給物資が充分に届かず、士官は兎も角、下士官兵の生活環境、特に食生活は劣悪だった。これでは気力・体力を消耗してしまい、空戦に差し障りが出ると考えた坂井一等飛行兵曹(当時)は、悪いことと知りつつ時々士官用の食材を盗み出して部下に分け与えていた(海軍用語で「銀バイ」と呼ばれる行為。)。ところが、ある日銀バイが発覚、補給物資を管理する士官に銀バイを咎められる。下士官兵の事情を無視した言動に怒りを覚えた坂井一飛曹は、その士官に向けて拳銃を発砲してしまう。威嚇射撃だったとはいえ、上官への発砲は普通であれば反乱罪にあたり、即銃殺にもなりかねない。その日の夜、坂井一飛曹は完全武装した衛兵によって副長室に連行される。下士官兵の劣悪な生活環境を一頻り訴えた後に「私は銃殺でしょうか」と息巻く坂井一飛曹を、それまで黙っていた小園副長は「何で最初から俺に言いに来ない」と一喝。全てを揉み潰して坂井一飛曹をそのまま宿舎に戻し、翌日から早速下士官兵の食事を改善させて坂井一飛曹らを喜ばせたという。

二五一空司令時代

1942年(昭和17年)11月、同年8月7日に始まるガダルカナル島を巡る激戦により戦力を消耗した台南空は、戦力回復のため内地に帰還することとなった。ラバウルから日本に向かう輸送機の中でB-17対策をあれこれ考えていた小園副長は「敵機と同じ方向に飛びながら斜め上か下に向けて装備した機銃を撃てば容易に撃墜できるのではないか」と思い付く。日本帰還後、早速海軍の航空行政を統括する航空本部や横須賀航空隊に斜銃の実用化を働きかけたが、否定的な意見がほとんどだった。間もなく第二五一航空隊(台南空を改名。以下、二五一空と略)の司令に昇進した小園司令は粘り強く交渉を続け、用無しとなっていた十三試双発陸上戦闘機(二式陸上偵察機の試作機)に斜銃を装備した改造夜戦を二五一空に配備させることに成功した。

1943年(昭和18年)5月初め、戦力を回復した二五一空と共にラバウルに進出した改造夜戦は、5月21日深夜、夜間爆撃に飛来したB-17を2機撃墜、その後も戦果を重ねて斜銃の有効性を証明した。初撃墜の直後、海軍中央から二五一空の保有する二式陸偵全機の改修許可と改造夜戦の制式化内示が伝えられ、1943年(昭和18年)8月23日には丙戦(夜間戦闘機)「月光」として制式採用、斜銃も制式兵器となった。間もなく斜銃は「上向き砲」と名を変えて陸軍にも普及し、日本陸海軍夜間戦闘機の主要装備となった。

小園司令の事例とほぼ同じ時期にドイツ空軍でも斜銃とほぼ同じ装備が着想され、実戦においてその有効性が確認されたことから「シュレーゲ・ムジーク」(斜めの音楽、つまりジャズ)の名でBf110を始めとする夜間戦闘機に装備されている。シュレーゲ・ムジークは取付角が機軸に対して上方に65~70°と斜銃の倍以上である点が大きな相違点である。「シュレーゲ・ムジークは日本から斜銃の技術が伝えられて産まれた」とする説があるが、改造夜戦の初戦果とドイツでシュレーゲ・ムジーク装備Bf110の初戦果がほぼ同時であることからも分かるように、これは全くの誤りで、日本・ドイツの両方で同時発生的に産まれたものである。

三〇二空司令時代

ラバウル再進出から4ヶ月後、二五一空司令の任を解かれて日本に帰還した小園司令は、首都周辺に存在する海軍施設の防空を任務とする第三〇二航空隊1944年(昭和19年)3月開隊。以下、三〇二空と略)司令に任命された。三〇二空の基地は厚木飛行場、装備機は「雷電」と「月光」だが、これは帳面上のことで、実際には零戦、「彗星」、「銀河」、「彩雲」に斜銃を追加装備した夜間戦闘機型も多数保有していた。この事は後に「芙蓉部隊」を率いることになる美濃部正少佐が異動してきた際、夜襲部隊を編成したいという彼の要望がすぐに受け入れられた理由のひとつでもある。

ソロモンや中部太平洋を巡る激戦により戦闘機搭乗員を多数失った海軍では、一般大学生を採用した予備士官や爆撃機等の他機種から転科した戦闘機搭乗員が増加していた。小園司令は自身が海軍兵学校卒の戦闘機搭乗員出身であるにも関わらず、予備士官や転科した搭乗員を積極的に隊員とし、台南やラバウルと同様、出身や階級に囚われない統率を行ったことから、部隊の士気は極めて高かったと言われている。ただし、自ら発案した斜銃を万能兵器と考えていたため、高性能なB-29に対抗するためには少しでも機体の軽い方が望ましい「雷電」にまで強引に斜銃を装備させて、周囲の人々を辟易させることもあったようである。なお、「雷電」に装備された斜銃はほとんど役に立たなかったため、小園司令には内緒でほとんどの機から取り外され、後に補充された「雷電」にも装備されなかったが、「月光」は勿論、「彗星」や「銀河」に搭載された斜銃はラバウル同様の大活躍を見せている。

更に此の時期には高木惣吉海軍少将神重徳海軍大佐と共に東條英機総理暗殺計画に参加し、暗殺実行後に実行者を台湾への逃亡の手助けの役割を分担していた。(サイパン陥落に伴う東条内閣の総辞職により本計画は実行されなかった)

マリアナ沖海戦の結果、マリアナ諸島が米軍に占領され、そこを基地とするB-29が関東・東海地方を中心とする日本本土に侵入するようになると、首都方面で海軍最大の戦力を有する三〇二空はB-29と激戦を繰り広げ、B-29を最も多く撃墜した部隊と称されるほどの戦果を挙げた。

日本の敗戦後

1945年(昭和20年)8月15日の玉音放送後も降伏を認めず、祖国防衛のために徹底抗戦を訴えたため厚木基地は反乱状態となった。8月16日の米内光政海軍大臣の命による寺岡謹平海軍中将や海軍兵学校で小園の1期後輩でもある高松宮宣仁親王海軍大佐、三航艦参謀長山澄大佐らによる説得があるも、小園の徹底抗戦の意思は硬く、やがて当時罹患していたマラリアにより、8月18日、40℃の発熱となり興奮状態が続いた。8月20日に小園は航空隊軍医長の少佐により鎮静剤を打たれ革手錠のうえ野比海軍病院(現独立行政法人国立病院機構久里浜アルコール症センター)の精神科へ強制収容される。8月22日には反乱は収束し兵を強制退去させた。8月23日厚木基地に山澄大佐率いる大本営厚木連絡委員会がはいった。

反乱終息後、昭和20年10月小園大佐は日本最後の軍法会議にかけられ、党与抗命罪(徒党をなして命令違反を起こした罪)首魁による無期禁固刑と官籍剥奪が言い渡され横浜刑務所に収監された。1952年(昭和27年)に減刑によりようやく釈放され、1960年(昭和35年)に故郷の鹿児島で農業をしながら静かにその生涯を終えた。なお、死後に家族や関係者の働きかけにより名誉回復がなされている。

参考文献

  • 相良俊輔『あゝ厚木航空隊 あるサムライの殉国』(光人社NF文庫、1993年) ISBN 4769820186
  • 渡辺洋二『首都防衛三〇二空』(朝日ソノラマ文庫新戦史シリーズ、1995年)
ISBN 4257172967、下 ISBN 4257172975
  • 渡辺洋二「三〇二空の最後」
渡辺洋二『重い飛行機雲 太平洋戦争日本空軍秘話』(文春文庫、1999年) ISBN 4167249081 251p~332p

関連項目