富田林興正寺別院

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富田林興正寺別院

本堂(重要文化財)
所在地 大阪府富田林市富田林町13-18
位置 北緯34度30分00.4秒 東経135度36分08.3秒 / 北緯34.500111度 東経135.602306度 / 34.500111; 135.602306座標: 北緯34度30分00.4秒 東経135度36分08.3秒 / 北緯34.500111度 東経135.602306度 / 34.500111; 135.602306
宗旨 浄土真宗
宗派 真宗興正派
寺格 興正寺別院
本尊 阿弥陀如来
創建年 永禄年間(1558年 - 1570年
開山 証秀
正式名 富田林興正寺別院
文化財 本堂、鐘楼、山門ほか(重要文化財
法人番号 2120105004774 ウィキデータを編集
富田林興正寺別院の位置(大阪府内)
富田林興正寺別院
富田林興正寺別院
富田林興正寺別院 (大阪府)
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富田林興正寺別院(とんだばやしこうしょうじべついん)は、大阪府富田林市富田林町にある真宗興正派寺院本山興正寺の別院。本尊阿弥陀如来富田林寺内町の中核となる寺院である。

歴史[編集]

寺伝によると、そもそもは応永年間(1394年 - 1412年)に毛人谷村(えびたにむら)小字古御坊に建立された一向宗浄土真宗本願寺派)の道場が当寺の前身であるという[1][2]

永禄3年(1560年[3]興正寺第16世証秀[注 1][注 2][注 3]石川の西側にある「富田の芝」と呼ばれた荒地を境内地として買いうけ、周辺4村の庄屋8人とともに富田林寺内町を開発し、永禄年間(1558年 - 1570年)に当寺を建立した[7]

証秀の祖父である興正寺第14世蓮教はかつての法名を経豪といい、畿内を中心に多くの門徒を抱える佛光寺の住持であった[8]文明13年(1481年)頃に本願寺へ帰参したが、多くの門徒・末寺を引き連れて佛光寺を去り、山科に興正寺を建立した。そして蓮教は本願寺第8世蓮如とともに河内地方の教化に努めた[9]。証秀の父である興正寺第15世蓮秀の時に山科本願寺の戦いによって山科の本願寺・興正寺がともに焼亡すると、興正寺は大坂にある大坂本願寺の近くの天満へ移った。蓮秀は細川晴元と本願寺の和解に奔走した功によって、本願寺の一家衆に加えられている[10]。証秀が34歳で病死した後、本願寺第11世顕如の次男で証秀の養子に入っていた顕尊が興正寺第17世となり、永禄12年(1570年)に正親町天皇より興正寺を脇門跡とする勅許を受けた[11]

しかし、これだけ本願寺と深い係わり合いがあるにもかかわらず、本願寺と織田信長による戦い、石山合戦の際には当寺と富田林寺内町は本願寺側には付かず中立を守った。そのため、信長から焼き討ちにあうことはなく[3]、寺も町も守られた。

『郷土史の研究』によれば、当寺は初め「興正寺掛所」と称し、後に「興正寺門跡兼帯所」となり、本山興正寺の西本願寺からの独立に伴って1880年明治13年)に「興正寺別院」に改称したとされる[12]。俗に、富田の御堂または御坊という[12]。『河内名所図会』には「興正寺の輪番所」とあり、本山興正寺門主が当寺の住職を兼任し、当寺には本山から派遣された留守居がおかれた[4]。現在は、本山興正寺住職の一族が当寺の住職を務めている。

太平洋戦争末期には大阪市平野国民学校からの学童集団疎開を受け入れている。

境内[編集]

  • 本堂(重要文化財) - 寛永15年(1638年)再建[13]元禄5年(1692年)までに増改築[14]。本堂にある襖絵「竹梅図」「松図」は狩野寿石によるもの[15]浄土真宗寺院の本堂としては大阪府内では最古、近畿でも最古級の建築であり、江戸時代初期の浄土真宗本堂を知る事ができる遺構として建築史上においてもきわめて重要な建築物である[16]
  • 対面所(重要文化財) - 書院。安政3年(1857年)建立[13]
  • 庭園
  • 庫裏[17]
  • 証秀上人記念碑 - 1895年明治28年)4月11日竣工。記念碑の文字は平安神宮初代宮司を務めた壬生基修伯爵によるもの[3]
  • 鼓楼(重要文化財) - 18世紀後半頃の再建。文化7年(1810年)に現在地に移築[13]
  • 御成門(重要文化財) - 18世紀前半頃の部材を含む、安政4年(1858年)頃に現在地に移築[13]
  • 長屋門
  • 鐘楼(重要文化財) - 文化7年(1810年)再建[16]。または、江戸時代後期の再建で文化7年(1810年)に現在地に移築したともいう[13][14]
  • 築地塀(重要文化財)- 江戸時代末期の築[16]
  • 山門(重要文化財) - 京都興正寺の北之門を安政4年(1858年)に現在地に移築。伏見城の遺構との伝承があり、現存する山門には城門の遺構らしき部材も含まれるが、古材を一部再用して江戸時代初期に建立されたものとみられる[13]。または、梁に興正寺では用いない「丸に四方剣花菱」の紋が透かし彫りされていることから、どこかの武家屋敷のようなところから移築されたものであるとも推測できる。浄土真宗の寺院が有するものとしては大規模で豪壮な薬医門である[14]

文化財[編集]

重要文化財[編集]

以下の建造物が「富田林興正寺別院 6棟」として国の重要文化財に指定されている(2014年9月18日指定)[18]

  • 富田林興正寺別院 6棟 附:築地塀三棟(山門南、山門北、御成門北)[13]
    • 本堂 - 桁行18.3m、梁間18.7m、入母屋造、向拝三間、本瓦葺[13]
    • 対面所 - 桁行16.8m、梁間6.3m、切妻造、正面唐破風造玄関付、本瓦及び桟瓦葺 渡廊下附属、桟瓦葺[13]
    • 鐘楼 - 桁行一間、梁間一間、入母屋造、本瓦葺[13]
    • 鼓楼 - 桁行5.0m、梁間4.0m、二重、入母屋造、本瓦葺[13]
    • 山門 - 一間薬医門、切妻造、南北潜戸付、本瓦葺[13]
    • 御成門 - 一間棟門、切妻造、本瓦葺、南北袖築地塀付、桟瓦葺[13]

所在地[編集]

  • 大阪府富田林市富田林町13-18

アクセス[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 興正寺では江戸時代まで証秀を第14世としていたが、近代以降は歴代に第9世了明尼と第13世光教を加えたことで第16世としている[4][5][6]
  2. ^ 富田林市史 第2巻』などでは証秀を興正寺第14世とする。
  3. ^ 近畿地方の近世社寺建築 5』では証秀を京都興正寺第3世としており、蓮教によって山科に建立された興正寺としては第3世にあたる。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 村上訒一、亀井伸雄、兵庫県教育委員会奈良市史編集審議会『近世社寺建築調査報告書集成 第13巻 近畿地方の近世社寺建築 5(大阪・兵庫)』東洋書林、2003年。ISBN 4862590772 
  • 大阪府所轄の宗教法人”. 大阪府 (2016年4月13日). 2016年7月23日閲覧。
  • 林野 全孝/他『富田林寺内町歴史的町並み保全計画調査報告書』富田林市、1984年。全国書誌番号:85032128 
  • 田中敏雄「続・障壁画の旅7 興正寺別院(富田林市)の障壁画 - 狩野寿石秀信」『日本美術工芸』第634巻、日本美術工芸社、1991年7月、18-26頁、ISSN 09119221 
  • 富田林興正寺別院伽藍総合調査委員会 編『富田林興正寺別院伽藍総合調査報告書』富田林興正寺別院、2012年。全国書誌番号:22202236 
  • 文化庁文化財部「新指定の文化財」『月刊文化財』第611巻、第一法規出版、2014年6月、14-16頁、ISSN 00165948 
  • 南河内郡東部教育会 編『郷土史の研究』南河内郡東部教育会、1926年。全国書誌番号:43052380 
  • 富田林市史編集委員会 編『富田林市史 第2巻 (本文編 2)』富田林市、1998年。全国書誌番号:98075887 
  • 峰岸純夫、脇田修 著、大澤研一/仁木宏 編『寺内町の研究 第3巻』法藏館、1998年。ISBN 4831875201 
  • 興正寺史話”. 真宗興正派 本山興正寺. 2016年7月30日閲覧。

外部リンク[編集]