宮庄基友

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
宮庄基友
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 宮庄秀経[1]、宮荘基友
通称:九郎兵衛[1]
官位 下野守[1]備前守[1][2]
主君 吉川国経元経興経
氏族 藤姓吉川氏庶流宮庄氏
父母 父:宮庄経友[1]
兄弟 基友、女(吉川興経側室)[注釈 1][3]
大塚経長の娘[1]
女(吉川興経側室)?[注釈 1][1]市川局[注釈 2]
テンプレートを表示

宮庄 基友(みやのしょう もととも)は、戦国時代武将安芸国国人吉川氏一門。父は宮庄経友[1]

生涯[編集]

安芸国国人吉川氏一門である宮庄経友の嫡男として生まれる[1]

永正18年(1521年1月16日に父・経友が死去し[7][4]、後を継いだ。

その後、基友の姉妹、または、基友の娘が吉川氏当主・吉川興経に嫁ぎ、藤姓吉川氏最後の嫡流である千法師を産んでいる[3][4][5]

また、後に毛利氏に仕えて山口奉行を務めた市川経好の正室・市川局の出自として、同じく吉川氏一門である石経守の娘とする説と、基友の娘とする説がある[6]

陰徳記』によると、毛利元就の次男・吉川元春による吉川氏相続の話が持ち上がった際に、吉川興経の隠居に反対した人物として江田宮内少輔二宮俊実朝枝経道らと共に宮庄経友・備前守(基友)父子の名前も挙げられており[2]天文19年(1550年)に元春が吉川氏を相続した際に興経への加担を理由として父子共に所領を没収され、後に宮庄の苗字も名乗る福原元正に与えられたとしている[8]

基友のその後の動向や没年は不明。

その後の宮庄氏については、天正5年(1577年)初頭に吉川元春の三男である吉川経言(後の吉川広家)が相続して一時「宮庄次郎五郎経言」と名乗った[9]後、熊谷直清の子である宮庄春真やその子の家正が継ぎ、江戸時代には岩国領主吉川氏家老として続いた。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b 吉川興経の側室となって吉川千法師を生んだ女性は、宮庄経友の娘で基友の姉妹[3]という説が一般的だが、基友の娘という説もある[4][5]
  2. ^ 市川局の父としては同じく吉川氏一門である石経守とする説もある[6]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i 大朝町史 上巻 1978, p. 182.
  2. ^ a b 大朝町史 上巻 1978, p. 210.
  3. ^ a b c 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 40.
  4. ^ a b c 大朝町史 上巻 1978, p. 202.
  5. ^ a b 美土里の歴史と伝説 1972, p. 91.
  6. ^ a b 閥閲録』巻140「市川三右衛門」、市川氏系譜。
  7. ^ 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 39.
  8. ^ 大朝町史 上巻 1978, p. 214.
  9. ^ 光成準治 2016, p. 10.

参考文献[編集]

  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 美土里町史編纂委員会 編『美土里の歴史と伝説』1972年。全国書誌番号:73003158 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 大朝町史編纂委員 編『大朝町史 上巻』1978年3月。全国書誌番号:81001285 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 光成準治「総論 吉川広家をめぐる三つの転機」 光成準治編著『シリーズ・織豊大名の研究4 吉川広家』戎光祥出版、2016年11月。
  • 閥閲録』巻140「市川三右衛門」