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大手拓次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大手おおて 拓次たくじ
大手拓次
ペンネーム 紅子(くれないし)
吉川惣一郎
誕生 (1887-11-03) 1887年11月3日
群馬県碓氷郡西上磯部村(現・安中市西上磯部
死没 (1934-04-18) 1934年4月18日(46歳没)
神奈川県 茅ヶ崎市
墓地 群馬県 安中市
職業 詩人翻訳家コピーライター
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
民族 日本の旗 日本
市民権 日本の旗 日本
最終学歴 早稲田大学文学学術院英文科
活動期間 1907年 - 1933年
ジャンル 広告文・詩・イラスト
主題 恋慕香料薔薇霊性
文学活動 自然主義象徴主義
代表作 処女詩集『藍色の蟇』
詩画集『蛇の花嫁』
訳詩集『異国の香』
遺稿集『詩日記と手紙』
デビュー作 文語詩『昔の恋』(1907年8月)
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大手 拓次(おおて たくじ、1887年明治20年〉11月3日[1]〔ただし戸籍では12月3日〕 - 1934年昭和9年〉4月18日)は、日本の詩人

生涯

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群馬県碓氷郡西上磯部村(現・安中市西上磯部)、磯部温泉温泉旅館・鳳来館に父・宇佐吉、母・のぶの次男として生まれる[1]。祖父・万平は磯部温泉を開発した有力者で、生家は裕福な上流家庭であった[1]。幼少期に両親を亡くしたため祖父母に溺愛され育つ[1]

磯部小学校安中中学校と進むが、1904年明治37年)に中耳炎で休学、以降左の耳が難聴となる[1]。この中耳炎が完全に治癒しなかったのか、以後生涯を通じて頭痛に悩まされ続けることとなった[2]。復学後安中分校の本校である高崎中学校で学び、詩人となることを志し1906年(明治39年)に早稲田大学第三高等予科に入学[1]1907年(明治40年)9月、早稲田大学英文科に入学[1]。この頃より河井酔茗主宰の詩草社に社費を送り『詩人』に紅子などの筆名で詩を発表する[1]。在学中にボードレールの『悪の華』を入手し、サンボリズムに傾倒[1]1912年(明治45年)7月に早稲田大学を卒業[1]卒業論文は「私の象徴詩論」[1]。同年北原白秋主宰の『朱欒』に吉川惣一郎の筆名で詩を発表[1]萩原朔太郎室生犀星とともに「白秋傘下の三彗星」と称された[3]

大学卒業後しばらくは、詩作のほかこれといった仕事をせず、東京と郷里磯部を行き来していただけだった[4]。周囲の勧めにより1916年大正5年)にライオン歯磨本舗に就職[1]。同年から牛込区袋町の下宿を住まいとした[5]。以後、生涯をサラリーマンと詩人の二重生活に捧げた。職場での拓次は、常務には「頑固なところがあって、偏屈で、不規則で、不仕鱈で、陰気であった。」と評されている[6]

同僚の版画家・逸見享と親友となり、1917年(大正6年)には逸見らとともに異香社を結成し、詩歌版画誌『異香』を発行したが間もなく廃刊[1]。また萩原朔太郎とも親交を結んだ[1]

1921年(大正10年)には中耳炎で入院し、その後も耳炎や胃病で通院が続いた[1]

1922年(大正11年)11月に、拓次の勤務していたのと同じ建物にあったライオン児童歯科医院に、山本ちよ(後の女優・山本安英)が入社[7]。拓次は日記に山本への思慕やそれを託した詩を書き綴ったが、内向的だった彼は山本になかなか積極的に話しかけず、1923年(大正12年)に入って多少会話を交わしたりするようになったものの、同年4月に山本は退職し、以後日記に山本に関する記述は途絶えた[8]。この年の年末からは同じ広告部勤務の女子への恋慕の情を日記に書くようになり、翌年には同女への思慕の念から多数の詩作を行っている[9]1924年(大正13年)8月には白秋から詩集出版の話があり、「長い耳の亡霊」と題して原稿を送ったが、とうとう実現しなかった[10]

1929年昭和4年)5月ごろから微熱が続き、7月初めまで会社を休むが、これは肺結核の初期症状であった[11]1932年(昭和7年)には症状が悪化し、11月ごろから翌年3月にかけて伊豆山転地療養に出向いている[11]。3月23日には神奈川県高座郡茅ヶ崎町(現・茅ヶ崎市)のサナトリウム南湖院に入院する[11]。この年『中央公論』8月号に「そよぐ幻影」が掲載された[12]

入院から1年余りが経過した1934年(昭和9年)4月18日午前6時3分、南湖院で肺結核により死去[12]。戒名は大慈院英学拓善居士[1][13]

人物

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生涯に書かれた詩作品は2400近くにのぼる。作品の発表を盛んに行っていたものの、生前に詩集が発刊されることはなかった。友人や詩壇とのつきあいに乏しく、生涯を独身で通したため、彼に関する偏見や誤解は、生前も死後も強かった。死後(1936年)に刊行された詩集『藍色の蟇』に寄せられた、北原白秋萩原朔太郎の文章に見られる「亜麻色の捲毛に眼は碧い洋種の詩人」「仏蘭西語の書物以外に、日本語の本を殆ど読んで居ない」「永遠の童貞」などはその典型である[14]

『藍色の蟇』に続き、1940年に詩画集『蛇の花嫁』、1941年に訳詩集『異国の香』、1943年に遺稿集『詩日記と手紙』が刊行され、また、1941年には北原白秋、萩原朔太郎、大木惇夫らによって「拓次の会」が発足するなど、彼への評価は決して低いものではなかったが、前述のような事情から彼を異端視する風潮も残り続ける[要出典]

戦後、大手拓次の詩集を刊行した出版社に、創元社角川書店弥生書房思潮社岩波書店がある。また、拓次の著作権を継承した櫻井作次(拓次の弟・櫻井秀男の息子)らの尽力により1970年から1971年にかけて白鳳社から全集(全5巻および別巻)が刊行された(500部限定)。全集の編者の1人である原子朗は、全集には誤りが多く、新しい全集を企画していると岩波文庫版『大手拓次詩集』の「解説」に記していたが、実現を見ずに原は2017年に没した。

クラシック音楽の分野では、木下牧子、澤内崇、清水脩、鈴木明美、鷹羽弘晃新実徳英西村朗信長貴富別宮貞雄などの作曲家が大手拓次の詩を元とした楽曲を制作している[要出典]

作品

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初の発表作
『昔の恋』『聞かまほし』(詩人 1907年8月、12月)
明治期 - 文語詩、口語詩、散文の習作を中心とした229篇が残されている。
藍色の蟇』『慰安』(失樂 1912年)
大正期 - 600篇弱の作品が残されている。
『陶器の鴉』『つんぼ犬』 『球形の鬼』『湿気の子馬』『名もしらない女へ』『足をみがく男』『香料の顔寄せ』『盲目の宝石商人』
昭和期以降 - 500篇弱の作品が残されている。
『春の日の女のゆび』『ばらのあしおと』『ふりつづくかげ』『青い鐘のひびき』『そよぐ幻影』『噴水の上に眠るものの声』
文語詩870篇、散文詩50篇を残している。
大手拓次詩集(岩波文庫)文語詩篇 まへがき

わがおもひ尽くるなく、ひとつの影にむかひて千年の至情をいたす。あをじろき火はもえてわが身をはこびさらむとす。そは死の翅なるや。この苦悶の淵にありて吾を救ふは何物にもあらず。みづからを削る詩の技なり。されば、わが詩はわれを永遠の彼方へ送りゆく柩車のきしりならむ。よしさらば、われこの思ひのなかに命を絶たむ。 — 大手拓次、『第二 九月の悲しみ』

詩集

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  • 藍色の蟇』(アルス、1936年) - 処女詩集。本人による同名の186篇の自選詩稿を元に、255篇の選集として死後に刊行された。
  • 『蛇の花嫁』(龍星閣、1940年) - 詩画集。
  • 『異国の香』(龍星閣、1941年) - 訳詩集。

その他

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  • 『詩日記と手紙』龍星閣、1943年
  • 『大手拓次詩集』創元選書 1936年
  • 『大手拓次詩集』創元文庫 1951年
  • 『大手拓次詩集』萩原朔太郎解説 宮崎稔角川文庫 1953年
  • 『大手拓次詩集』神保光太郎編 白凰社 青春の詩集 1965年
  • 『大手拓次詩集』伊藤信吉弥生書房 世界の詩 1965年
  • 『大手拓次全集』全5巻 白凰社 1970-71年
  • 『大手拓次全集 別巻(大手拓次研究)』白凰社 1971年
  • 『大手拓次詩集』思潮社 現代詩文庫 1975年
  • 『大手拓次』野口武久ほるぷ出版 日本の詩 1985年
  • 『大手拓次詩集』原子朗岩波文庫 1991年
  • 斎田朋雄『大手拓次曼陀羅 日記の実像』西毛文学社 1996年
  • 『大手拓次/佐藤惣之助』新学社近代浪漫派文庫 2006年
  • 信長貴富『無伴奏女声合唱のための、風のこだま・歌のゆくえ』2005-06年 - 林芙美子と大手拓次の詩に曲をつけた合唱組曲。
  • 西村朗『合唱組曲 - まぼろしの薔薇』混声合唱版 1984年、男声合唱版 2010年

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 関 1978, pp. 197–200.
  2. ^ 関 1978, p. 121.
  3. ^ 関 1978, p. 123.
  4. ^ 関 1978, p. 125.
  5. ^ 関 1978, pp. 127–128.
  6. ^ 関 1978, pp. 143–144.
  7. ^ 関 1978, p. 135.
  8. ^ 生方たつゑ『娶らざる詩人 大手拓次の生涯』東京美術、1973年、pp.54-88
  9. ^ 関 1978, pp. 137–139.
  10. ^ 関 1978, p. 139.
  11. ^ a b c 関 1978, p. 142.
  12. ^ a b 関 1978, p. 143.
  13. ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)61頁
  14. ^ 『藍色の蟇』序(北原白秋)『藍色の蟇』跋文(萩原朔太郎)。大手拓次の研究者としてかれの全集にも関わった原子朗は「大手拓次研究」(『大手拓次全集 別巻』)のなかで、彼らの拓次言説を「虚像」であるとして批判している。

参考文献

[編集]
  • 関俊治『暮鳥・拓次・恭次郎』みやま文庫、1978年3月30日。doi:10.11501/12500751 (要無料登録要登録)

外部リンク

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