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国司元武

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
国司 元武
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文7年(1538年[注釈 1]
死没 慶長15年6月4日[1]1610年7月23日
別名 通称:助六[1]
戒名 中庵寿正居士
墓所 西方寺墓地(山口県山口市徳地伊賀地
官位 右京亮[1]備後守[1]
主君 毛利元就隆元輝元
氏族 高階姓高氏庶流国司氏
父母 父:国司元相[1]、母:渡辺勝の娘[1]
兄弟 元武元蔵[1]元貞[1]
助六[1]、女(赤川氏内藤助右衛門室)[1]、女(佐々部元茂室)[1]、女(国司茂兵衞室)[1]、女(国司清房室)[1]、女(粟屋元吉室)[1]、女(兼重元続室)[1]、女(福原元直室)[1]、女(児玉元時室)[1]
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伊賀地にある国司元武・元蔵の墓塔

国司 元武(くにし もとたけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将毛利氏の家臣で、毛利氏の五奉行の一人。父は国司元相

生涯

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天文7年(1538年)、毛利氏家臣・国司元相の嫡男として生まれる[注釈 1]

弘治元年(1555年)11月、当時3歳の毛利幸鶴丸(後の毛利輝元)傅役を命じられ、後に粟屋元真と共に傅役を務めている[2]

永禄10年(1567年)頃、父・元相の隠居によって家督を譲られ、父の後を継いで毛利氏の五奉行の一員として活動。

天正10年(1582年)5月に毛利元就の娘婿である上原元将羽柴秀吉の調略を受けて織田氏に降ると、元武は上原元将と親しかった湯浅将宗に元将離反の報せを届けた[3]。将宗は直ちに吉川元春小早川隆景に元将離反を報じて自らの潔白を示し、元春と隆景は直ちに楢崎元兼を派遣して上原元将の日幡城を攻め落とさせた[4]

嫡男の助六が早世したため、弟の国司元蔵へ家督を譲って隠居することを輝元に願い出て、天正16年(1588年12月20日に輝元は口羽春良を通じて承認した旨を元武に伝えている[5]。しかし、豊臣秀吉の天下統一後の文禄・慶長の役でも、朝鮮に渡り戦功を挙げるなど、以降も毛利氏の重臣として活躍した。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後の毛利氏の防長移封後は、元蔵の知行地である周防国佐波郡伊賀地村[注釈 2]に移住して暮らした。

慶長10年(1605年12月14日、同年の五郎太石事件の後に毛利氏家臣団や有力寺社の総勢820名が連署して毛利氏への忠誠や様々な取り決めを記した連署起請文において、787番目に「國司備後守」と署名している[6]

慶長15年(1610年6月4日において死去。享年73[注釈 1]。伊賀地村の西方寺に葬られたが、西方寺は現存せず、墓地のみが残る。

逸話

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  • 毛利元就が大通院に参詣した際に、大通院の山号である「大梅山」の由来となった花盛りのを見て自ら筆を執り、「おほかたの 袂たりとも 梅の花 かゝる色香に ひかれさらめや」という和歌短冊に書き付け、供をしていた元武に与えている[2][7]
  • 毛利輝元の守役を務め、輝元が晩年の頃も親しく交流していた。輝元と元武は酒好きで、いつも顔を合わせて飲んでいたという記録が残っている。[8][9][10]

脚注

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注釈

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  1. ^ a b c 後に作成された国司氏の系図類では慶長15年(1610年)に92歳で死去と記されており、逆算すると生年は永正16年(1519年)となるが、日高山神社棟札において元武の生年の干支が「戊戌」と記されており、これに従うと生年は天文7年(1538年)となる。
  2. ^ 現在の山口県山口市徳地伊賀地

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 116.
  2. ^ a b 『閥閲録』巻15「國司隼人」家譜。
  3. ^ 毛利輝元卿伝 1982, pp. 251–252.
  4. ^ 毛利輝元卿伝 1982, pp. 252–253.
  5. ^ 『閥閲録』巻15「國司隼人」第33号、天正16年(1588年)12月20日付け、國右(國司右京亮元武)宛て、(毛利)輝元書状。
  6. ^ 『毛利家文書』第1284号、慶長10年(1605年)12月14日付け、毛利氏家臣他820名連署起請文。
  7. ^ 『閥閲録』巻15「國司隼人」第37号、毛利元就御詠歌。
  8. ^ 山口県史史料編近世6『国司家文書35』
  9. ^ 山口県史史料編近世6『国司家文書37』
  10. ^ 山口県立文書館『元武譜』

参考文献

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外部リンク

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先代
国司元相
安芸国司氏歴代当主
1567 - 1588
次代
国司元蔵