口羽元良
表示
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 正保2年8月3日(1645年9月22日) |
改名 | 口羽千代寿丸(幼名)→口羽元良 |
別名 | 通称:少輔十郎、十郎兵衛尉 |
官位 | 中務大輔、刑部少輔 |
主君 | 毛利輝元→秀就 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 大江姓毛利氏庶流口羽氏 |
父母 | 父:口羽春良、母:馬木乗綱の娘 |
兄弟 |
元良、女(福原広俊室)、和智元経、元智、 元武、女(山内広通室)、女(桂元時室)、 行円、女(三村親成室)、女(祖式元信室)、 女(石州伊達某室) |
妻 |
正室:児玉就英の娘 継室:豊臣秀吉の侍女 |
子 |
女(志道元幸室)、元延、女(沓谷元綱室)、 女(椙杜就幸室)、元衡、女(口羽元智養女、井原就忠室)、女(財満元直室)、児玉就時 養女:女(椙杜就幸継室、実父不明) |
口羽 元良(くちば もとよし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。毛利氏家臣で長州藩士。父は毛利氏重臣の口羽春良。祖父は口羽通良。
生涯
[編集]天正15年(1587年)、父・春良から家督と、石見国邑智郡都賀西の500貫、出雲国島根郡東郷の100貫、備中国川上郡手荘の700貫、備中国阿賀郡中津井の300貫、合計1600貫の所領を譲られ、同年8月29日に毛利輝元の承認を受けた[1]。
慶長2年(1597年)から始まる慶長の役に従軍して朝鮮に渡り、同年12月22日から慶長3年(1598年)1月4日にかけて行われた第一次蔚山城の戦いにおいて功を挙げた。これにより、第一次蔚山城の戦いで功のあった毛利氏家臣を賞した、慶長3年(1598年)1月25日付の豊臣秀吉の朱印状に元良の名(口羽十郎兵衛)も記されている[2]。また、同年1月29日に輝元は児玉元兼を使者として、蔚山城での籠城戦の苦労を聞き届けた旨の書状[3]を元良に送っている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後は、毛利氏の防長転封に従って移り住み、輝元の後を継いだ秀就に仕えた。
正保2年(1645年)8月3日に死去。嫡男・元延は父に先立って寛永3年(1626年)4月4日に死去していたため、元延の嫡男である就行が後を継いだ。なお、元延の死の6日後である寛永3年(1626年)4月10日には、元良の弟・元智も死去し、元智の養子となった元良の次男・元衡が後を継いだ。
脚注
[編集]- ^ 『閥閲録』巻32「口羽衛士」第21号、天正15年(1587年)8月29日付 口羽元良宛て毛利輝元書状。
- ^ 『毛利家文書』第914号、慶長3年(1598年)比定1月25日付 豊臣秀吉朱印状。この朱印状において名前を記されていたのは記載順に、宍戸元続、浅口元通(細川元通)、吉見広長、三沢為虎、三吉元高、天野元信、日野元重、内藤元盛、三田元盛、和智元盛、平賀元相、三尾元尚、三刀屋孝和、口羽元良、成羽親成、桂元武、野山清衛門尉、石蟹市郎、伊達三左衛門尉、赤木元重、周布長次、市川元好、吉田元重、馬屋原弥衛門、楢崎政友、福頼元秀、有地元盛。
- ^ 『閥閲録』巻32「口羽衛士」第12号、慶長3年(1598年)比定1月29日付 口羽元良宛て毛利輝元書状。