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口羽元良

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
口羽元良
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 不詳
死没 正保2年8月3日1645年9月22日
改名 口羽千代寿丸(幼名)→口羽元良
別名 通称:少輔十郎、十郎兵衛尉
官位 中務大輔刑部少輔
主君 毛利輝元秀就
長州藩
氏族 大江姓毛利氏庶流口羽氏
父母 父:口羽春良、母:馬木乗綱の娘
兄弟 元良、女(福原広俊室)、和智元経元智
元武、女(山内広通室)、女(桂元時室)、
行円、女(三村親成室)、女(祖式元信室)、
女(石州伊達某室)
正室:児玉就英の娘
継室:豊臣秀吉の侍女
女(志道元幸室)、元延、女(沓谷元綱室)、
女(椙杜就幸室)、元衡、女(口羽元智養女、井原就忠室)、女(財満元直室)、児玉就時
養女:女(椙杜就幸継室、実父不明)
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口羽 元良(くちば もとよし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将毛利氏家臣で長州藩士。父は毛利氏重臣の口羽春良。祖父は口羽通良

生涯

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毛利氏の重臣である口羽春良の長男として生まれる。

天正15年(1587年)、父・春良から家督と、石見国邑智郡都賀西の500貫、出雲国島根郡東郷の100貫、備中国川上郡手荘の700貫、備中国阿賀郡中津井の300貫、合計1600貫の所領を譲られ、同年8月29日毛利輝元の承認を受けた[1]

慶長2年(1597年)から始まる慶長の役に従軍して朝鮮に渡り、同年12月22日から慶長3年(1598年1月4日にかけて行われた第一次蔚山城の戦いにおいて功を挙げた。これにより、第一次蔚山城の戦いで功のあった毛利氏家臣を賞した、慶長3年(1598年1月25日付の豊臣秀吉朱印状に元良の名(口羽十郎兵衛)も記されている[2]。また、同年1月29日に輝元は児玉元兼を使者として、蔚山城での籠城戦の苦労を聞き届けた旨の書状[3]を元良に送っている。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後は、毛利氏の防長転封に従って移り住み、輝元の後を継いだ秀就に仕えた。

正保2年(1645年8月3日に死去。嫡男・元延は父に先立って寛永3年(1626年4月4日に死去していたため、元延の嫡男である就行が後を継いだ。なお、元延の死の6日後である寛永3年(1626年)4月10日には、元良の弟・元智も死去し、元智の養子となった元良の次男・元衡が後を継いだ。

脚注

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  1. ^ 閥閲録』巻32「口羽衛士」第21号、天正15年(1587年)8月29日付 口羽元良宛て毛利輝元書状。
  2. ^ 『毛利家文書』第914号、慶長3年(1598年)比定1月25日付 豊臣秀吉朱印状。この朱印状において名前を記されていたのは記載順に、宍戸元続浅口元通(細川元通)吉見広長三沢為虎三吉元高天野元信日野元重内藤元盛三田元盛和智元盛平賀元相三尾元尚三刀屋孝和口羽元良成羽親成桂元武野山清衛門尉石蟹市郎伊達三左衛門尉赤木元重周布長次市川元好吉田元重馬屋原弥衛門楢崎政友福頼元秀有地元盛
  3. ^ 『閥閲録』巻32「口羽衛士」第12号、慶長3年(1598年)比定1月29日付 口羽元良宛て毛利輝元書状。

参考文献

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  • 萩藩閥閲録』巻32「口羽衛士」
  • 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修『毛利輝元卿伝』(マツノ書店1982年
  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション