仏御前

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仏御前(小林清親画『古代模様』)

仏御前(ほとけごぜん、永暦元年1月15日1160年2月23日) - 治承4年8月18日1180年9月14日))は、平安時代末期の白拍子

生涯[編集]

永暦元年1月15日1160年2月23日)、加賀国原村(現:小松市原町)に生まれる。父の白河兵太夫は、原村の五重塔の、京より派遣された塔守である。なお、この五重塔は、花山法皇那谷寺に参詣した折、原村が、百済より渡来した白狐が化けた僧侶が阿弥陀経を唱えたことから弥陀ヶ原と呼ばれ、原村になったというエピソードと、原村の景観に感動し建立したものである。現在は五重塔址のみが残っている。幼少期から仏教を信心したことから「仏御前」と呼ばれる。

承安4年(1174年)に京都に上京し、叔父の白河兵内のもとで白拍子となる。その後、京都で名を挙げ、当時の権力者であった平清盛屋敷に詰め寄る。その当時は白拍子の妓王が清盛の寵愛を集めていたので追い払われるが、妓王の誘いにより、清盛の前で「君を初めて見る折は 千代も経ぬべし姫小松 御前の池なる亀岡に 鶴こそ群れ居て遊ぶめれ」と即興で今様を詠み、それを歌ってを見せ一気に寵愛を集めた。この物語は『平家物語』(第一巻 6「祇王」)に登場する。

安元3年 / 治承元年(1177年)に清盛の元を離れ出家し、自らを報音尼と称して嵯峨野にある往生院(祇王寺)に入寺する。往生院には仏御前の登場により清盛から離れた妓王とその母・妹の妓女がおり、同じく仏門に励んだ。その時点で彼女は清盛の子を身ごもっており、尼寺での出産を憚り故郷の加賀国へ向かう。その途中、白山麓木滑(きなめり)の里において清盛の子を産むが、死産。治承2年(1178年)には帰郷し、治承4年8月18日1180年9月14日)に死去した。その最期については、彼女に魅入られた男の妻たちの嫉妬による殺害説や自殺説など諸説ある[1]。墓所は小松市原町にある。

参考文献[編集]

  1. ^ 山本清嗣, 藤島秀隆 『仏御前』 北国出版社1979年7月31日

外部リンク[編集]